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大人の教養として知りたい すごすぎる日本のアニメ 単行本 – 2017/12/28
岡田 斗司夫
(著)
このポイントを押さえるだけで、どんなアニメも10倍面白くなる!
・そもそもアニメと実写の違いは?
・アニメの「構造」はどうなっている?
・戦争、青年の喪失……あの作品は何を描いたのか?
日本のアニメは、未曾有のゴールドラッシュ。アニメのすべてを知り尽くした著者は、そう断言します。
世界中の人たちが日本のアニメを夢中で観ているいま、映画のようにアニメを語れることは、必須の「大人の教養」なのです。
すごすぎる名作たちの構造や、知られざる思想をひもときながら、読後には誰もが「アニメ通」になっている、驚きの一冊です。
【目次】
第1章 すべての映画はこれからアニメになる――『シン・ゴジラ』という庵野秀明の革命
第2章 世界標準の「ルック」とはどういうものか――『君の名は。』のもつ宇宙サイズの構造
第3章 誰も語らなかったジブリ作品の「変遷」――原作版『風の谷のナウシカ』から読み解く
第4章 緻密な演出が「優れた」SFドラマを生む――『機動戦士ガンダム』と富野由悠季の思想
第5章 そしてアニメは新次元に到達した――『この世界の片隅に』のすごすぎるリアリティ
【内容例】
庵野秀明という作家の特徴は「爆発」にあり/「ニッポン対ゴジラ」のコピーが意味したもの/「強いゴジラ」を描くために自衛隊の強さも描く/福島原発事故のメタファーとしての『シン・ゴジラ』/『君の名は。』は二十一世紀の『ローマの休日』/ついにアニメは「写真よりイラストが上」という領域へ/「ロードラマ」と「ハイドラマ」の違いとは何か/宮崎駿の思想をちゃんと理解している人は少ない/「文明の限界の先」を表現した『風の谷のナウシカ/『もののけ姫』は事実上、『ナウシカ』の続編/最高傑作『風立ちぬ』のあと、宮崎駿は何を描くのか/宮崎駿に優るとも劣らない富野由悠季の演出/「毎週新しい敵ロボットを出さない」という衝撃/シャアの「若さゆえの過ち」とは何だったのか/『ガンダム』を優れたSF作品にした「ニュータイプ」/すずの内面を表現した、のんの圧倒的な演技力/右手という魔法を失って、すずは日常を取り戻した……ほか
・そもそもアニメと実写の違いは?
・アニメの「構造」はどうなっている?
・戦争、青年の喪失……あの作品は何を描いたのか?
日本のアニメは、未曾有のゴールドラッシュ。アニメのすべてを知り尽くした著者は、そう断言します。
世界中の人たちが日本のアニメを夢中で観ているいま、映画のようにアニメを語れることは、必須の「大人の教養」なのです。
すごすぎる名作たちの構造や、知られざる思想をひもときながら、読後には誰もが「アニメ通」になっている、驚きの一冊です。
【目次】
第1章 すべての映画はこれからアニメになる――『シン・ゴジラ』という庵野秀明の革命
第2章 世界標準の「ルック」とはどういうものか――『君の名は。』のもつ宇宙サイズの構造
第3章 誰も語らなかったジブリ作品の「変遷」――原作版『風の谷のナウシカ』から読み解く
第4章 緻密な演出が「優れた」SFドラマを生む――『機動戦士ガンダム』と富野由悠季の思想
第5章 そしてアニメは新次元に到達した――『この世界の片隅に』のすごすぎるリアリティ
【内容例】
庵野秀明という作家の特徴は「爆発」にあり/「ニッポン対ゴジラ」のコピーが意味したもの/「強いゴジラ」を描くために自衛隊の強さも描く/福島原発事故のメタファーとしての『シン・ゴジラ』/『君の名は。』は二十一世紀の『ローマの休日』/ついにアニメは「写真よりイラストが上」という領域へ/「ロードラマ」と「ハイドラマ」の違いとは何か/宮崎駿の思想をちゃんと理解している人は少ない/「文明の限界の先」を表現した『風の谷のナウシカ/『もののけ姫』は事実上、『ナウシカ』の続編/最高傑作『風立ちぬ』のあと、宮崎駿は何を描くのか/宮崎駿に優るとも劣らない富野由悠季の演出/「毎週新しい敵ロボットを出さない」という衝撃/シャアの「若さゆえの過ち」とは何だったのか/『ガンダム』を優れたSF作品にした「ニュータイプ」/すずの内面を表現した、のんの圧倒的な演技力/右手という魔法を失って、すずは日常を取り戻した……ほか
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社KADOKAWA
- 発売日2017/12/28
- ISBN-104046021462
- ISBN-13978-4046021465
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商品の説明
著者について
●岡田 斗司夫:1958年大阪府生まれ。社会評論家。1984年にアニメ制作会社ガイナックスの創業社長を務めたあと、東京大学非常勤講師に就任、作家・評論家活動を始める。立教大学や米マサチューセッツ工科大学講師、大阪芸術大学客員教授などを歴任。レコーディング・ダイエットを提唱した『いつまでもデブと思うなよ』(新潮新書)が50万部を超えるベストセラーに。その他、多岐にわたる著作の累計売り上げは250万部を超える。
登録情報
- 出版社 : KADOKAWA (2017/12/28)
- 発売日 : 2017/12/28
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 224ページ
- ISBN-10 : 4046021462
- ISBN-13 : 978-4046021465
- Amazon 売れ筋ランキング: - 265,294位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,465位漫画・アニメ・BL(イラスト集・オフィシャルブック)
- - 29,108位趣味・実用
- カスタマーレビュー:
著者について
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1958年大阪生まれ。85年、アニメ・ゲーム制作会社ガイナックスを設立。代表取締役として「王立宇宙軍―オネアミスの翼」「ふしぎの海のナディア」な ど数々の名作を世に送る。92年退社。「オタキング」の名で広く親しまれ、「BSマンガ夜話」「BSアニメ夜話」のレギュラーとしても知られる。大阪芸術 大学客員教授(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『遺言』(ISBN-10:4480864059)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年10月18日に日本でレビュー済み
自分の人生で鑑賞することを通して係わったアニメたちについて語られていて、架空の自分史が出来たような読後感を持った。岡田さんは直観も鋭いが、バランスのとれた思考をするので安心して読める。
2023年1月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本で論評されている各映像作品は心に深く残っているのだが、この本を読んでも特段、本の記憶が残らない。そういう本です。
2020年5月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
いっきに読んだ。思ってたよりはるかに良かった。岡田さんの解説が分かりやすいのはもちろんだが、シンゴジラやナウシカ、ガンダムなど、この本で紹介される作品の質がいかに高いか、ということだ。
たかがアニメと思ってた。でもとても奥の深いものだってことを知った。上っ面しか見てなかった。それでも面白ければいいのだろうが、作者と作品、そこには熱い想いが流れている。その想いに気づく力が欲しい、岡田さんのように。
はぁアニメ、今日は眠れるだろうか。はぁアニメ、明日は
たかがアニメと思ってた。でもとても奥の深いものだってことを知った。上っ面しか見てなかった。それでも面白ければいいのだろうが、作者と作品、そこには熱い想いが流れている。その想いに気づく力が欲しい、岡田さんのように。
はぁアニメ、今日は眠れるだろうか。はぁアニメ、明日は
2018年2月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
もう、サラリと読めます。ですが、でも誤植はダメ!
185ページラスト2行目
キシリアと、ではなくて、キシリア「の」でしょう!
ガンダム大好き人間なので、そういう間違いはしてほしくないです。
校閲が駄目だったのかな。良い本程、こうしたちょっとしたミスが
気になるんです。玉に瑕って奴です。l
185ページラスト2行目
キシリアと、ではなくて、キシリア「の」でしょう!
ガンダム大好き人間なので、そういう間違いはしてほしくないです。
校閲が駄目だったのかな。良い本程、こうしたちょっとしたミスが
気になるんです。玉に瑕って奴です。l
2017年12月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
アニメは、シナリオ、キャラ設定、キャラへのお芝居つけ、レイアウト画面構成、どこにカメラがあると設定して録るのか、これは、基本的に監督で、著者は、監督の画面支配欲としています。
では、シンゴジラは、といえば、アニメ監督出身である、作家性が強いことから、通常の実写映画より、画面支配欲が強いため、シンゴジラはアニメだと、言っています。
アニメで言う絵コンテが、プリヴィズだったり、役者さんにアドリブさせない、ゴジラは、CGで、思うとおりの演技をつける、等々
見かけが、実写やその合成なのに、アニメっておかしいじゃん、ではなく、ものづくりの姿勢がアニメ的と言ってます。
では、シンゴジラは、といえば、アニメ監督出身である、作家性が強いことから、通常の実写映画より、画面支配欲が強いため、シンゴジラはアニメだと、言っています。
アニメで言う絵コンテが、プリヴィズだったり、役者さんにアドリブさせない、ゴジラは、CGで、思うとおりの演技をつける、等々
見かけが、実写やその合成なのに、アニメっておかしいじゃん、ではなく、ものづくりの姿勢がアニメ的と言ってます。
2018年1月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
紅白でガツンと衝撃を受けた竹原ピストルをヘビロテさせながら、読み終えました。
本文中にもありますが、ワインを知らないフランス人、ダサい格好のイタリア人にはがっかりしちゃいますよね。
今やビジネスとして成立しつつある日本のアニメ。
ヒットの理由はどこにある!?
誰もが観たことや聞いたことがあるジブリの宮崎駿、ガンダムの富野由悠季は勿論、日本映画の作り方を変えた『シン・ゴジラ(なぜ特撮なのって理由も本文にて説明あり!)』、『君の名は。』、『この世界の片隅に』について論じられており、面白かったです!
本文中にもありますが、ワインを知らないフランス人、ダサい格好のイタリア人にはがっかりしちゃいますよね。
今やビジネスとして成立しつつある日本のアニメ。
ヒットの理由はどこにある!?
誰もが観たことや聞いたことがあるジブリの宮崎駿、ガンダムの富野由悠季は勿論、日本映画の作り方を変えた『シン・ゴジラ(なぜ特撮なのって理由も本文にて説明あり!)』、『君の名は。』、『この世界の片隅に』について論じられており、面白かったです!
2018年4月27日に日本でレビュー済み
本書は、『シン・ゴジラ』『君の名は。』『ナウシカ』『ガンダム』『この世界の片隅に』の5作品を切り口として、日本のアニメを語った本。アニメは日本が最も世界に影響を与えている文化である。ゆえに、アニメに関する教養を身につけることは、教育・納税・勤労と並ぶ日本人の義務である。
著者は、かつて『オネアミスの翼』『不思議の海のナディア』などのアニメ製作に関与していた経験のある知識人。アニメに関して世界で最も深い考察ができるのは、おそらく岡田氏だ。
印象に残った箇所を、以下に挙げる(カッコ内は、私のコメント)。
<シン・ゴジラ>
実写とアニメの本質的な違いは、「画面に対する支配欲求」にあります。(略)
一つのフレームに複数のキャラクターが映っていれば、アニメーターはそれぞれの表情を描きますよね。これは、演技者ではなく演出家の発想です。アニメに演技はなく、表現しか存在しないんです。
『シン・ゴジラ』では、役者に演技の自由を与えません。背景にどんな形の雲があるのか、画面にはどんなセットが映りこんでいるのか。監督のイメージを100%実現し、画面の支配率を上げたいという欲求によってつくられた映画。それがアニメであるということです。
(ここで重要なのは、岡田氏が従来のアニメの定義を覆していることだ。
実写の映画の場合、たとえば画面に「偶然、風で揺れる木の枝が映る」といったことがある。
しかし、アニメの場合、画面に映るものは「すべて作為的に支配されたもの」だけだ。『シン・ゴジラ』は、「画面支配率が高い」がゆえに「アニメ」に分類されると岡田氏は述べているのである。
ちなみに私の仮説は、「田舎の住人ほど実写映画を好み、都会人ほどアニメを好む傾向がある」。なぜなら、都会とは「すべてが人為的」な環境なので、「都会的メンタリティ」と「アニメ的メンタリティ」は本質的に同じだからだ。)
<君の名は。>
これまでの日本の二次元アニメは、世界的に見ればマニア向けの要素が強かった。しかし『君の名は。』の画づくりは、そういうアニメとはまったく違う。現実のどの要素を捨て、どこを強調して、さらに美しくするのか。「写真よりイラストのほうが上」という領域へ、ついに達したアニメであると僕は考えています。
(『君の名は。』は、フェルメールの作品のようだ。光の表現が秀逸だからである。)
<ナウシカ>
1993年、原作版『ナウシカ』の連載が再開し、一年かけてついに完結します。
僕は、最終の第七巻を読んで、びっくりしました。「腐海が役割を終えた後にやってくる平和な時代」を否定しているんですよ。
腐海が世界を浄化しているのはたしかですが、ナウシカたちは浄化された世界で生きていくことができません。腐海で生きていく術を受け継いでいる「森の人」は、浄化された土地に何度か人を送り込んでみたけど、みんな血を吐いて死んでしまいました。
なぜか?
『ナウシカ』の世界で生き残っている人類は、過去の人類が改造し、生み出したものだからです。
(池谷裕二『単純な脳・複雑な私』に、以下の趣旨の記述がある。
<「人間」と「動物」の違いとは何か。ヒトは一匹だと人間になれない。つまり、人間に重要なのは他者との関係だ。この意味で、複数のヒトが集まれば、たぶん「人間らしい環境」が自然にできる。
環境を積極的につくっていくことを「ニッチ構築」という。この力は、遺伝子を超えたポテンシャルを創発するために必要だ。
ヒトにおいては他の動物とは違う重要なポイントがある。「人間である」ということの定義自体が「野生ではない」ということを内包しているのだ。
これは忘れてはならないポイントで、僕ら人間は、ニッチ構築の力が卓越しているので、人間の営み自体が「人工的」であって、その意味で「野生状態」のヒトというのは、ヒトとしての在り方の定義の上で、もはやヒトではなくなってしまうんだ。アヴェロンの野生児はその極端な例で、彼らと僕らを比べること自体、無茶だ。つまり、「自然」と「人工」は対立概念にはならない。>
人間は、すでに「動物ではないバケモノ」になっている。バケモノが自然に帰れば、「肺から血を吐いて死ぬ」。
だから私たちは、都市化された「腐海」で生き続けるしかないのである。)
<機動戦士ガンダム>
人類が宇宙空間に進出したことで認識力が広がっていった。その結果、他人の考えや思いを言葉を介さずともわかるようになった、そういう人たちをニュータイプといいます。『ガンダム』はそうしたニュータイプが戦争に利用されてしまう話でもありますが、注目してほしいのは、ニュータイプが遺伝ではなく、進化であるということ。
(略)
ラストシーンでは、あまり進化しなかったブライトたちも含めて、全員が主人公アムロを笑顔で迎える。それがあのクライマックスシーンの意味です。
つまり、大事なのは「進化すること」じゃない。「自分が帰れる場所があるか?仲間がいるか?」ということなんですね。
(ガンダムには、アムロのライバルとしてシャアが登場する。アムロとシャアの共通点は「ニュータイプであること」であり、相違点は「帰るべき場所の有無」である。
「ニュータイプ」とは、常人の感官を凌駕した認識能力により膨大な情報を知覚できる新人類である。しかし私たちは、そのような人間的スケールを大幅に超えた認識に普通は耐えられない。肉体をもつ一個の人間にすぎないニュータイプが宇宙スケールの視座を獲得し、なおかつ「正気の世界」に踏みとどまるためには、「他者との濃密な絆」を強く要請するはずである。だからこそアムロの最後の台詞「まだ僕には帰れるところがあるんだ・・こんなに嬉しいことはない」は、重要な意味をもつ。アムロには帰るべきところがあり、だからこそ彼は救われた。
他方、恋人のララァをアムロに殺されたシャアには「帰るべき場所」がなくなってしまった。
その後のシャアは、過激なイデオロギーに傾倒し、暴走する。「帰るべき場所のないニュータイプ」の魂が行き着く先は、虚無の暗闇である。 深い闇に蚕食された魂が均衡を維持するには、闇の対旋律として「過激なイデオロギー」を呼び寄せるのだろう。
これは、リア充でない人々がネトウヨ化しやすいことと構造的に同じである。)
<この世界の片隅に>
『この世界の片隅に』は、これまでにない仮現運動の使い方をしています。
(略)
片淵監督は、従来のアニメはロングレンジの仮現運動でできていて、そのために「中抜き」が存在するとインタビューで語っています。大きな動きがあったとき、本来であれば動画の1コマ1コマで埋めるべきところを、わざと動画を抜いてしまうんですよ。
(略)
ディズニーなどのようにフルアニメのグネグネした動きと違って、日本のアニメは中抜きをすることでアクションシーンがスピーディーでかっこいいといわれます。
ところが『この世界の片隅に』で使われたのは、ショートレンジの仮現運動です。
(略)
登場人物はお箸を手にとったあと、もう片方の手で押さえながら持ち替える。やってみるとわかりますが、誰でもこうやって箸をもっていますよね。つまり、アニメーションとしての表現がもうとんでもないレベルに達しているということです。
(仮現運動とは、「連続的でないものを見ているのに、連続的[=スムーズな]なものを見ていると錯覚すること」である。
「連続的でないこと」を、別の言葉でいうと「とびとびの」あるいは「量子的」。
つまりアニメは、量子的である。
ところで、人間の知覚する時間感覚も、量子的である。
池谷裕二の『進化しすぎた脳』p124-125に、以下の趣旨の記述がある。
<脳にとっては、100分の1秒以下の時間差は、「同時」と認識される。だから、百メートル走の記録もそれ以下の時間で計測されないのだろう。
人間の脳にとっての時間は、連続した物理量ではなくて、数十ミリ秒おきにコマ送り、つまり量子的になっているんだな。それが無意識の作用、つまり脳の働きによってスムーズにつながって見えるだけ>
つまり、アニメも、人生における時間感覚も、量子的なのだ。
人生とは、アニメである。)
著者は、かつて『オネアミスの翼』『不思議の海のナディア』などのアニメ製作に関与していた経験のある知識人。アニメに関して世界で最も深い考察ができるのは、おそらく岡田氏だ。
印象に残った箇所を、以下に挙げる(カッコ内は、私のコメント)。
<シン・ゴジラ>
実写とアニメの本質的な違いは、「画面に対する支配欲求」にあります。(略)
一つのフレームに複数のキャラクターが映っていれば、アニメーターはそれぞれの表情を描きますよね。これは、演技者ではなく演出家の発想です。アニメに演技はなく、表現しか存在しないんです。
『シン・ゴジラ』では、役者に演技の自由を与えません。背景にどんな形の雲があるのか、画面にはどんなセットが映りこんでいるのか。監督のイメージを100%実現し、画面の支配率を上げたいという欲求によってつくられた映画。それがアニメであるということです。
(ここで重要なのは、岡田氏が従来のアニメの定義を覆していることだ。
実写の映画の場合、たとえば画面に「偶然、風で揺れる木の枝が映る」といったことがある。
しかし、アニメの場合、画面に映るものは「すべて作為的に支配されたもの」だけだ。『シン・ゴジラ』は、「画面支配率が高い」がゆえに「アニメ」に分類されると岡田氏は述べているのである。
ちなみに私の仮説は、「田舎の住人ほど実写映画を好み、都会人ほどアニメを好む傾向がある」。なぜなら、都会とは「すべてが人為的」な環境なので、「都会的メンタリティ」と「アニメ的メンタリティ」は本質的に同じだからだ。)
<君の名は。>
これまでの日本の二次元アニメは、世界的に見ればマニア向けの要素が強かった。しかし『君の名は。』の画づくりは、そういうアニメとはまったく違う。現実のどの要素を捨て、どこを強調して、さらに美しくするのか。「写真よりイラストのほうが上」という領域へ、ついに達したアニメであると僕は考えています。
(『君の名は。』は、フェルメールの作品のようだ。光の表現が秀逸だからである。)
<ナウシカ>
1993年、原作版『ナウシカ』の連載が再開し、一年かけてついに完結します。
僕は、最終の第七巻を読んで、びっくりしました。「腐海が役割を終えた後にやってくる平和な時代」を否定しているんですよ。
腐海が世界を浄化しているのはたしかですが、ナウシカたちは浄化された世界で生きていくことができません。腐海で生きていく術を受け継いでいる「森の人」は、浄化された土地に何度か人を送り込んでみたけど、みんな血を吐いて死んでしまいました。
なぜか?
『ナウシカ』の世界で生き残っている人類は、過去の人類が改造し、生み出したものだからです。
(池谷裕二『単純な脳・複雑な私』に、以下の趣旨の記述がある。
<「人間」と「動物」の違いとは何か。ヒトは一匹だと人間になれない。つまり、人間に重要なのは他者との関係だ。この意味で、複数のヒトが集まれば、たぶん「人間らしい環境」が自然にできる。
環境を積極的につくっていくことを「ニッチ構築」という。この力は、遺伝子を超えたポテンシャルを創発するために必要だ。
ヒトにおいては他の動物とは違う重要なポイントがある。「人間である」ということの定義自体が「野生ではない」ということを内包しているのだ。
これは忘れてはならないポイントで、僕ら人間は、ニッチ構築の力が卓越しているので、人間の営み自体が「人工的」であって、その意味で「野生状態」のヒトというのは、ヒトとしての在り方の定義の上で、もはやヒトではなくなってしまうんだ。アヴェロンの野生児はその極端な例で、彼らと僕らを比べること自体、無茶だ。つまり、「自然」と「人工」は対立概念にはならない。>
人間は、すでに「動物ではないバケモノ」になっている。バケモノが自然に帰れば、「肺から血を吐いて死ぬ」。
だから私たちは、都市化された「腐海」で生き続けるしかないのである。)
<機動戦士ガンダム>
人類が宇宙空間に進出したことで認識力が広がっていった。その結果、他人の考えや思いを言葉を介さずともわかるようになった、そういう人たちをニュータイプといいます。『ガンダム』はそうしたニュータイプが戦争に利用されてしまう話でもありますが、注目してほしいのは、ニュータイプが遺伝ではなく、進化であるということ。
(略)
ラストシーンでは、あまり進化しなかったブライトたちも含めて、全員が主人公アムロを笑顔で迎える。それがあのクライマックスシーンの意味です。
つまり、大事なのは「進化すること」じゃない。「自分が帰れる場所があるか?仲間がいるか?」ということなんですね。
(ガンダムには、アムロのライバルとしてシャアが登場する。アムロとシャアの共通点は「ニュータイプであること」であり、相違点は「帰るべき場所の有無」である。
「ニュータイプ」とは、常人の感官を凌駕した認識能力により膨大な情報を知覚できる新人類である。しかし私たちは、そのような人間的スケールを大幅に超えた認識に普通は耐えられない。肉体をもつ一個の人間にすぎないニュータイプが宇宙スケールの視座を獲得し、なおかつ「正気の世界」に踏みとどまるためには、「他者との濃密な絆」を強く要請するはずである。だからこそアムロの最後の台詞「まだ僕には帰れるところがあるんだ・・こんなに嬉しいことはない」は、重要な意味をもつ。アムロには帰るべきところがあり、だからこそ彼は救われた。
他方、恋人のララァをアムロに殺されたシャアには「帰るべき場所」がなくなってしまった。
その後のシャアは、過激なイデオロギーに傾倒し、暴走する。「帰るべき場所のないニュータイプ」の魂が行き着く先は、虚無の暗闇である。 深い闇に蚕食された魂が均衡を維持するには、闇の対旋律として「過激なイデオロギー」を呼び寄せるのだろう。
これは、リア充でない人々がネトウヨ化しやすいことと構造的に同じである。)
<この世界の片隅に>
『この世界の片隅に』は、これまでにない仮現運動の使い方をしています。
(略)
片淵監督は、従来のアニメはロングレンジの仮現運動でできていて、そのために「中抜き」が存在するとインタビューで語っています。大きな動きがあったとき、本来であれば動画の1コマ1コマで埋めるべきところを、わざと動画を抜いてしまうんですよ。
(略)
ディズニーなどのようにフルアニメのグネグネした動きと違って、日本のアニメは中抜きをすることでアクションシーンがスピーディーでかっこいいといわれます。
ところが『この世界の片隅に』で使われたのは、ショートレンジの仮現運動です。
(略)
登場人物はお箸を手にとったあと、もう片方の手で押さえながら持ち替える。やってみるとわかりますが、誰でもこうやって箸をもっていますよね。つまり、アニメーションとしての表現がもうとんでもないレベルに達しているということです。
(仮現運動とは、「連続的でないものを見ているのに、連続的[=スムーズな]なものを見ていると錯覚すること」である。
「連続的でないこと」を、別の言葉でいうと「とびとびの」あるいは「量子的」。
つまりアニメは、量子的である。
ところで、人間の知覚する時間感覚も、量子的である。
池谷裕二の『進化しすぎた脳』p124-125に、以下の趣旨の記述がある。
<脳にとっては、100分の1秒以下の時間差は、「同時」と認識される。だから、百メートル走の記録もそれ以下の時間で計測されないのだろう。
人間の脳にとっての時間は、連続した物理量ではなくて、数十ミリ秒おきにコマ送り、つまり量子的になっているんだな。それが無意識の作用、つまり脳の働きによってスムーズにつながって見えるだけ>
つまり、アニメも、人生における時間感覚も、量子的なのだ。
人生とは、アニメである。)
2018年3月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
岡田斗司夫視のニコ生会員で毎週観てる会員の人は読む必要ないかも
岡田氏独特のアニメ論は彼の魅力の大きな部分であり
アニメに興味があって話を聞いたことがないならきっと楽しめるはず
特に宮崎駿に対してはまるで本人に直接インタビューしたみたいな洞察力で
ジブリ作品を語る上で必見かもしれない
岡田氏独特のアニメ論は彼の魅力の大きな部分であり
アニメに興味があって話を聞いたことがないならきっと楽しめるはず
特に宮崎駿に対してはまるで本人に直接インタビューしたみたいな洞察力で
ジブリ作品を語る上で必見かもしれない