「思考が思考自身であるとは、すなわち私が私自身であることであり、おのれの存在を全面的にそれに負っているものをみずからの内から抹消すること、抹消するという仕方でそれへの依存を(再)確立することにほかならないようなのである。すなわち『親殺し』であり、しかもそれは(私が私であるかぎり)不可避なのである。かくして本書は、私のささやかな思考の営みがほぼ全面的にそれに負っているであろうフッサール現象学という親を、母体を、その胎盤を、内側から喰い破り、その外部へと這い出そうとする『親殺し』の企てである」(p.16)。
本書は著者がフッサール現象学と正面から向き合い格闘する非常にスリリングかつ本格的な論考である。勿論、読む側にもそれ相当の力量と覚悟が必要だと言って過言ではないだろう。フッサール現象学の入門書や初級者向けの書籍(谷徹、竹田青嗣、ザハヴィ、田口茂などの手に成るもの)を一通り読み終えた中級者以上向けと言ってよい。これからより詳しく専門的にフッサール現象学の原典や専門書へと移行する際、一つの試金石となりうる作品だ。
以下、目次的な構成を掲げておく。
・プロローグ
・フッサール哲学のプロフィール
・第一章 たび重なる「転回」
→数学から心理学へ、心理学から論理学へ、論理学から超越論哲学へというフッサールにおける三つの大きな「転回」を軸に大まかな流れを辿る。
・第二章 事象そのものへ
→デカルトにおける「懐疑」を起点にしながら、フッサール現象学において重要な方法である「超越論的還元」へと話が進む。
・第三章 記号と意味
→フレーゲ、カント、ヘラクレイトスを交えながら「形相的還元」と「想像力」を軸に「記号」と「意味」へと話が展開される。
・第四章 身体と私
→「現象すること」にとって不可欠な媒体である「私」が「身体」という仕方で存在しているという点を中心に据えて、メルロ=ポンティや木村敏をも交えながら語られる。
・第五章 世界
→「現象すること」の場所を「世界」として捉え直すために、フッサールにおいて多義的に用いられる「世界」という概念を丹念に考察していく。
・第六章 時間と他なるもの
→フッサール現象学の全期間を通じて絶えず取り上げ直され続けた根本問題である「時間」問題について考察を深め、「空」と「無」という補助線を使って現象学最後の問題を示唆する。
・エピローグ
個人的に印象的だったのは第三章で述べられている現象学的心理学の立ち位置についてのくだりだ。
「超越論的現象学と現象学的心理学との決定的にして唯一の違いは、前者が超越論的還元を経ているのに対して、後者はそれ以前の自然的態度にとどまっている点である。すなわち後者は、世界内の人間という存在者がもつとされる『心』についての研究なのである」(p.129)。
この辺については、うまく説明できていなかったり曖昧にしている文献も多い中で、非常に端的に述べられており思わず感嘆してしまった。現象学系の諸学をやっておられる方にも是非本書をお薦めしたい。
少し難点も挙げておきたい。詳細な注が無いせいか、フッサール自身の考えなのか著者自身による展開なのかが判然としなくなる部分が垣間見られた。それとも関連するが、先行研究との比較対照も取り上げられていたなら、なお独創性が際立ったのではないだろうか。また、参考文献が巻末に示されていなかった。紙幅に制限があったであろうにせよ、これらの点は少し残念だった。
最後に。本書では「生き生きした現在」は必然的に「不在」をその特徴としていることになるのだが、私個人的にはその「不在」という不可避な性質を忘れさせるほどの「想像力」によって「大地」の上に「活き活きした現在」とでも言うべきものを体現できないものかとふと考えてしまった。少々、私の「想像力」の逸脱が過ぎてしまっただろうか。いや、「想像力」というより「妄想力」と言った方が適切なのかもしれないが…。
を購読しました。 続刊の配信が可能になってから24時間以内に予約注文します。最新刊がリリースされると、予約注文期間中に利用可能な最低価格がデフォルトで設定している支払い方法に請求されます。
「メンバーシップおよび購読」で、支払い方法や端末の更新、続刊のスキップやキャンセルができます。
エラーが発生しました。 エラーのため、お客様の定期購読を処理できませんでした。更新してもう一度やり直してください。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ) Kindle版
なぜ、私の前に世界は「現象」しているのか。この問いを巡り、現象学の祖はいかに思索し、どのような限界に漸近していたのか。気鋭の哲学者による驚きに満ちた「現象学」解読の、そしてフッサール超克の試み。(講談社選書メチエ)
この本を読んだ購入者はこれも読んでいます
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
なぜ、私の前に世界は「現象」しているのか。この問いを巡り、現象学の祖はいかに思索し、どのような限界に漸近していたのか。気鋭の哲学者による驚きに満ちた「現象学」解説の、フッサール超克の試み。
著者について
■斎藤慶典(さいとうよしみち)
1957年、横浜生まれ。慶應義塾大学文学部を卒業後、同大学大学院研究科博士課程修了。哲学博士。現在、慶應義塾大学文学部哲学科教授。専攻は、現象学、西洋近・現代哲学。
著書に『思考の臨界――超越論的現象学の徹底』『力と他者――レヴィナスに』(いずれも勁草書房)、『新・哲学講義4「わたし」とは誰か』(共著、岩波書店)、『他者の現象学2』(共著、北斗出版)など、訳書に、K・ヘルト『生き生きした現在――時間と自己の現象学』(共訳、北斗出版)ほかがある。
1957年、横浜生まれ。慶應義塾大学文学部を卒業後、同大学大学院研究科博士課程修了。哲学博士。現在、慶應義塾大学文学部哲学科教授。専攻は、現象学、西洋近・現代哲学。
著書に『思考の臨界――超越論的現象学の徹底』『力と他者――レヴィナスに』(いずれも勁草書房)、『新・哲学講義4「わたし」とは誰か』(共著、岩波書店)、『他者の現象学2』(共著、北斗出版)など、訳書に、K・ヘルト『生き生きした現在――時間と自己の現象学』(共訳、北斗出版)ほかがある。
登録情報
- ASIN : B00DKX48QQ
- 出版社 : 講談社 (2002/5/10)
- 発売日 : 2002/5/10
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 1966 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効にされていません
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 315ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 12,808位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
- - 61位講談社選書メチエ
- - 213位思想
- - 269位哲学・思想 (Kindleストア)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2019年3月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2011年5月3日に日本でレビュー済み
デビュー作「算術の哲学」に対するフレーゲの批判と、そこからの発展としての「論理学研究」の説明で、世に言う心理学主義の問題点が明確に語られ、フッサールの回答が、フレーゲ(論理主義)をも越えていくものであったことが鮮明に語られていた。つまり、論理主義の心理学主義に対する批判の筋の違う点もきちんと説明されている。そういう両派の「乗り越え」としての「論研」という説明は、巷にある類書にはない確からしさがあった。さらにナトルプの「論研」に対する結果的にはいささか皮相な批判を我が問題として、「イデーン'1」に結実させる経緯も明らかで、この過程を以って、「現象学」の相貌が、余すところなく語られている点で、類書を圧倒していたと思う。巷間繰り返される「超越論的還元」「形相的還元」を通して得られる場(超越論的領野)の位置づけも非常に確かで教示的であった。類書で良く読まれている物の中には、それを「事の真偽とは別に自分がそう思ったということは疑いようがないこと」として語るものがあり、それでは、なにがしか主観的な、心的な確信と区別がつかないような説明もあるが、それらとは本書は、一線を画す。本書の説明では、現象学的還元で得られたものは、論理や主観が成立する以前の現象として捉えられていたと思う。むろん現象学的還元が施される個々の体験は、個別的で、時空的に過ぎ去っていくそれでしかないが、「わたしは〜おもう」という潜在的に随伴する意識を併せて顕在化することで、普遍的な場に移行しているというもの。それを担保するのが「記号」において齎された「意味」であって、あらゆる事象は、その記号による「意味」として表れており、逆説的だが、一回性で個別的な体験としての心の出来事でさえ、却って、「意味」を以ってそれとして成立している以上、逆に個別的な体験を現象学的「還元」を施すことで普遍性を獲得する、ということだとされる。ここにおいて、心理学主義、論理主義双方の成立以前的な領野が獲得されるということになる。キネステーゼの意味や、生活世界をむしろ「生世界」と訳すべきだというのは、単なるLebensweltの日本語への置き換え以上の意味があることの指摘、以上の事がらが、現象学におけるパースペクティヴの基点としての「私」に関わる論点を、良く教えてくれていたと思う。結果的に、本書はフッサールの現象学を解説することで、哲学の考え方そのものを教示してくれる本物の哲学書になっていると思う。そういう次第で、岩崎武雄の「カント」や、水田洋「アダム・スミス」などの哲学思想の解説書の名著に比肩する要件を全部備えているように思えた。最後に幾つか言うと、本書は、語り口の易しさや、行き届いた配慮とは裏腹に、フッサールを少し読んだことがある人を前提に書かれていると思う。なので、このシリーズの他書とはだいぶレヴェルが異なる。全く「易しい」本ではない。本書は、テキストやフッサールの思想経歴などを丹念に辿りながら、著者として距離を慎重にとりつつ読者をリードしてくれるが、決して「逃げずに」真正面から勝負しており、必要な学説史の知識も動員して記載されている。現象学は哲学思想としての考えはわかるとして、本書の責任ではないが、本書を以ってしても、しかし、「厳密な学」をどう担保するのかという点は、判然としないものがある。
2003年2月21日に日本でレビュー済み
いやもうおもしろかった!
そして説明がめちゃくちゃ丁寧だった。
(分かってる人にとってはクドイくらいかもしれないが)
フッサールをこれから読もうとしてる人には是非勧めたい。
「現象」とはなにか、フッサールが頭を悩ませ、
紆余曲折の思想の道を歩み続けた問いとは何か。
ハイデッガーの「時間」や、メルロ=ポンティの「身体」
といった発見をまじえつつ?世界が現象するということに
まつわる問いをじわじわと、時に笑みをこぼしながら深めて行きます。
そして説明がめちゃくちゃ丁寧だった。
(分かってる人にとってはクドイくらいかもしれないが)
フッサールをこれから読もうとしてる人には是非勧めたい。
「現象」とはなにか、フッサールが頭を悩ませ、
紆余曲折の思想の道を歩み続けた問いとは何か。
ハイデッガーの「時間」や、メルロ=ポンティの「身体」
といった発見をまじえつつ?世界が現象するということに
まつわる問いをじわじわと、時に笑みをこぼしながら深めて行きます。
2003年8月12日に日本でレビュー済み
非常に問題含みの本です。間違ったことは言ってないにせよ、フッサールの思想なのか斎藤さんの考えなのか、気をつけないとわかんなくなる。いや、優れた書物はすべからくそういうところがあるのは充分承知なのだけど、斎藤さん個性強すぎるねw。
ええと、書くことがなくなったので一番ガツンと来た部分を引用します。
≪そして「私」とは、(…)「不在における現前」の能力である「想像力」がそこに根を下ろし、「現象すること」がそこにおいて可能になる場所のことである。これはすなわち、想像力とは私の能力のことではないということである。なぜなら、想像力という「不在における現前」の能力が根づくその場所においてはじめて、「私」という自己同一的なものがみずからに対して現象することが叡?能となったからである。(…)この意味でいわば想像力の方が私を所有しているのである≫
ええと、書くことがなくなったので一番ガツンと来た部分を引用します。
≪そして「私」とは、(…)「不在における現前」の能力である「想像力」がそこに根を下ろし、「現象すること」がそこにおいて可能になる場所のことである。これはすなわち、想像力とは私の能力のことではないということである。なぜなら、想像力という「不在における現前」の能力が根づくその場所においてはじめて、「私」という自己同一的なものがみずからに対して現象することが叡?能となったからである。(…)この意味でいわば想像力の方が私を所有しているのである≫