プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥2,000以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
万葉集難訓歌 一三〇〇年の謎を解く 単行本 – 2016/12/29
上野正彥
(著)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥4,180","priceAmount":4180.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"4,180","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"ldqLm46Yz40%2FECljdtp8X3W6QKzSmoSypXkVPfJhO2pKNC4k%2FPqmgj9gXg%2FBFmPcr75bJMi8ooUM5fD0yxk8yJyreF3Fh4do0KVyDhWckJZzMV4KuA2MafUjcQduFb%2FBzVuAyV%2FXS9I%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}]}
購入オプションとあわせ買い
漢字だけで表記された万葉集の歌4500余首のうち、いまだ訓解されていない難訓歌が約40首もあり、
名歌として人口に膾炙している歌を含め、訓解が誤っていると思われるものが相当数あることを知る人が
どれくらいいるだろうか。
更に驚くべきことに、万葉集の代表的な注釈書には、難訓歌に対し「訓義未詳」「後考を待つ」の記述が目立つ。
現代の訓解の基礎となっているのは江戸時代に主張された訓解で、誤字説に基づく訓解も多い。
歌を詠む者として、自分の歌を他人から「いい歌ですね」「この歌、好きです」と言ってもらったときは
詠み人冥利に尽きるが、その人が、自分が詠んだときの心情と異なる内容の歌として理解し評価していることを
知ったときほど、悲しいことはない。
短詩型の歌は、公表すれば読者のものであるといわれるが、歌を詠む者としては、歌を詠んだときの自分の心情は、
いつまでも変え難く大切なもののはず。
著者は万葉集の愛読者として、そんな眼で万葉集の歌を眺めたとき、1300年経っても何を詠った歌か
理解してもらえていない難訓歌の歌々、詠み人の心情とおそらく異なる訓解をされている誤訓歌や誤釈歌の歌々、
それらを詠った万葉歌の詠み人の無念さや悲しみを、ひしひしと感じていた。
万葉集は、世界に誇るわが国最古最大の文化遺産であり、世界に比類なき最高の「世界文化遺産」である。
歌を遺してくれた先人の、歌に託した心情を放置しておくことなく、かつできるだけ正確に訓解すること、少なくともその情熱を持つことこそが、後世に生きる日本人の責務であり、歌詠み人を「供養」することに他ならないと
万葉集訓解の大海に漕ぎ出した──。
第一部では難訓歌を、誤った先入観がもたらした難訓歌、訓解に語学以外の知識を必要とする難訓歌、
唱詠歌と表記歌の乖離による難訓歌、これぞ超難訓歌、異なる原文があることによる難訓歌、
歌の情況把握ができないことによる難訓歌、語彙の理解不足に起因する難訓歌の7つに分類し、38首を取り上げる。
続く第二部では、定訓歌にみられる誤訓(準難訓歌)として、詠まれている事象を誤解した誤訓、意図的な誤訓、
誤字説がもたらした誤訓、原文の誤記から生まれた誤訓、一字一音表記の歌における誤訓の5分類30首を取り上げる。
最後に第三部では真相に迫る新釈歌(補追)として、万葉歌の再発見、弓削皇子に関する歌の謎の2分類7首を取り上げ、
万葉集の正しい訓解に迫っていく。
和歌を愛する著者だからこそ成しえた、研究者とは異なる視点を持つ万葉集研究の大著!
名歌として人口に膾炙している歌を含め、訓解が誤っていると思われるものが相当数あることを知る人が
どれくらいいるだろうか。
更に驚くべきことに、万葉集の代表的な注釈書には、難訓歌に対し「訓義未詳」「後考を待つ」の記述が目立つ。
現代の訓解の基礎となっているのは江戸時代に主張された訓解で、誤字説に基づく訓解も多い。
歌を詠む者として、自分の歌を他人から「いい歌ですね」「この歌、好きです」と言ってもらったときは
詠み人冥利に尽きるが、その人が、自分が詠んだときの心情と異なる内容の歌として理解し評価していることを
知ったときほど、悲しいことはない。
短詩型の歌は、公表すれば読者のものであるといわれるが、歌を詠む者としては、歌を詠んだときの自分の心情は、
いつまでも変え難く大切なもののはず。
著者は万葉集の愛読者として、そんな眼で万葉集の歌を眺めたとき、1300年経っても何を詠った歌か
理解してもらえていない難訓歌の歌々、詠み人の心情とおそらく異なる訓解をされている誤訓歌や誤釈歌の歌々、
それらを詠った万葉歌の詠み人の無念さや悲しみを、ひしひしと感じていた。
万葉集は、世界に誇るわが国最古最大の文化遺産であり、世界に比類なき最高の「世界文化遺産」である。
歌を遺してくれた先人の、歌に託した心情を放置しておくことなく、かつできるだけ正確に訓解すること、少なくともその情熱を持つことこそが、後世に生きる日本人の責務であり、歌詠み人を「供養」することに他ならないと
万葉集訓解の大海に漕ぎ出した──。
第一部では難訓歌を、誤った先入観がもたらした難訓歌、訓解に語学以外の知識を必要とする難訓歌、
唱詠歌と表記歌の乖離による難訓歌、これぞ超難訓歌、異なる原文があることによる難訓歌、
歌の情況把握ができないことによる難訓歌、語彙の理解不足に起因する難訓歌の7つに分類し、38首を取り上げる。
続く第二部では、定訓歌にみられる誤訓(準難訓歌)として、詠まれている事象を誤解した誤訓、意図的な誤訓、
誤字説がもたらした誤訓、原文の誤記から生まれた誤訓、一字一音表記の歌における誤訓の5分類30首を取り上げる。
最後に第三部では真相に迫る新釈歌(補追)として、万葉歌の再発見、弓削皇子に関する歌の謎の2分類7首を取り上げ、
万葉集の正しい訓解に迫っていく。
和歌を愛する著者だからこそ成しえた、研究者とは異なる視点を持つ万葉集研究の大著!
- 本の長さ532ページ
- 言語日本語
- 出版社学芸みらい社
- 発売日2016/12/29
- ISBN-104908637334
- ISBN-13978-4908637339
商品の説明
出版社からのコメント
専門の学徒ではなく、在野の研究者だからこそ成しえた画期的な万葉集研究書。
本業が弁護士・公認会計士である著者の幅広く豊富な知見があればこその見解が随所にみられ
500ページを超える大著ながら一つ一つの歌を読み解いていく過程は、さながらミステリーの謎解きを
読んでいるかのように汲めども尽きぬ興趣を読者に与えるだろう。
本業が弁護士・公認会計士である著者の幅広く豊富な知見があればこその見解が随所にみられ
500ページを超える大著ながら一つ一つの歌を読み解いていく過程は、さながらミステリーの謎解きを
読んでいるかのように汲めども尽きぬ興趣を読者に与えるだろう。
著者について
上野正彥(うえの まさひこ) 昭和17年、和歌山県生まれ。京都大学法学部卒業。職業:弁護士・公認会計士。
●主な著書 『新万葉集読本』、『平成歌合 新古今和歌集百番』、『平成歌合 古今和歌集百番』、
『百人一首と遊ぶ 一人百首』(以上、角川学芸出版。ペンネーム上野正比古)、『光彩陸離 写歌集III』、
『ヨーロッパの大地と営み 写歌集II』、『ヨーロッパの山と花 写歌集I』(以上、東洋出版)
●主な著書 『新万葉集読本』、『平成歌合 新古今和歌集百番』、『平成歌合 古今和歌集百番』、
『百人一首と遊ぶ 一人百首』(以上、角川学芸出版。ペンネーム上野正比古)、『光彩陸離 写歌集III』、
『ヨーロッパの大地と営み 写歌集II』、『ヨーロッパの山と花 写歌集I』(以上、東洋出版)
登録情報
- 出版社 : 学芸みらい社 (2016/12/29)
- 発売日 : 2016/12/29
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 532ページ
- ISBN-10 : 4908637334
- ISBN-13 : 978-4908637339
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,222,618位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 198,883位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年5月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
少しでも 疑問が解消されると嬉しいと思って買いました。
2022年2月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
還暦をすぎてからの、著者の万葉集に対する情熱はすばらしいです。
著者の研究をはじめ、その他の研究によって難訓歌の解釈問題は
ほとんど解決したのではないでしょうか。
しかし、昔の万葉学者たちは、「ある種の歌」を「ある目的」が
あって、故意に「難訓歌」に指定し、一般の人々から、遠ざけた
ことが考えられます。
その歌とは、(名目上)天智天皇につながる現天皇家を傷つける
恐れがある歌群です。
その一例として、9番歌があります。
この歌は、斉明天皇が、中大兄(のちの天智天皇)の奸計によって、
殺された有間皇子を偲ぶ気持ちを、額田王が代わって詠んでいます。
中大兄が悪だくみによって天皇になり、その系統が現在まで続いて
いると、国民に知られるのはまずいと、学者たちは判断したのでしょう。
[追記]
(故)伊藤博博士が『万葉集釋注』第1巻で
「定訓を得ないそもそもの原因は、ひょっとしたら、この事件
(有間皇子殺害)に関係があるのではなかろうか」と述べられて
いる事を見つけました。
著者の研究をはじめ、その他の研究によって難訓歌の解釈問題は
ほとんど解決したのではないでしょうか。
しかし、昔の万葉学者たちは、「ある種の歌」を「ある目的」が
あって、故意に「難訓歌」に指定し、一般の人々から、遠ざけた
ことが考えられます。
その歌とは、(名目上)天智天皇につながる現天皇家を傷つける
恐れがある歌群です。
その一例として、9番歌があります。
この歌は、斉明天皇が、中大兄(のちの天智天皇)の奸計によって、
殺された有間皇子を偲ぶ気持ちを、額田王が代わって詠んでいます。
中大兄が悪だくみによって天皇になり、その系統が現在まで続いて
いると、国民に知られるのはまずいと、学者たちは判断したのでしょう。
[追記]
(故)伊藤博博士が『万葉集釋注』第1巻で
「定訓を得ないそもそもの原因は、ひょっとしたら、この事件
(有間皇子殺害)に関係があるのではなかろうか」と述べられて
いる事を見つけました。
2017年4月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
万葉集に眠る誤読や未解読とされる歌を、その歌が詠まれた場面にタイムスリップしながら、論理的な手法で定説を次々と覆していく。この手の本にありがちな難解さがなく、非常に読み易く爽快。装丁の唐紙も著者によるものらしい。
2017年9月28日に日本でレビュー済み
久々に感動した。万葉集には訓読が難解な歌がいくつもある。著者はそれを徹底して検証する。従来説を紹介し、著者の訓読を示し、そこへ至る過程を論証する。論理は緻密であり、凡庸な大学教授の著書では太刀打ちできない高度なものである。論理的であるが、いや、論理的だからこそ、その説明は明解である。多くの人が強い説得力をそこに見ると思う。
万葉集の冒頭を飾る雄略天皇の御製の訓読を例に示す。
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家𠮷閑名 告紗根 そらみつ 大和の国は おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 我許者背歯 告目 家をも名をも
難訓は次の二ケ所であるという。しかも写本により異同があるそうだ。
A 家𠮷閑名 告紗根 写本により「𠮷」が「吉」や「告」になるという。
B 我許者背歯 告目 写本により「者」がない場合があるという。
著者はAを「家聞かな 告(のら)さね」、Bを「我れ乞はせば 告(のら)め」という訓を提案する。
雄略天皇が「家を聞きたい。言ってください」と言った段階で娘は相手が天皇であるとは知らない。そこで自己紹介的に「そらみつ 大和の国は おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ」と言うのであるが、著者によるとこれは係り結びでなく、確定条件節を導くのだそうだ。そのことは大野晋氏の『 係り結びの研究 』にも詳しく説明されている。平安時代ならば已然形の後ろに「ば」や「ども」を付けるのであるが、奈良時代には付けない言い方があった。
従来説の多くはこのあと「我こそ告らめ 家をも名をも」と続くが、これはおかしい。雄略天皇は自分が天皇であることを既に明かしている。なぜ再び名乗る必要があるのか。このあとに著者は従来の訓読を紹介するが、著者が紹介する近代の代表的な注釈書でそれを考慮するのは、大野晋氏が中心となった岩波の旧大系の「われにこそは 告らめ」と澤瀉久孝氏の『萬葉集注釋』の「吾(わ)にこそは 告らめ」の二つだけである。両者のように「に」という助詞を補うのも解決策であるが、原文にないものを入れるのは著者の指摘する通り好ましくない。
著者の新説である「私が乞うならば言うであろう」の意味の「我れ乞はせば 告(のら)め」は画期的な成果である。従来の訓読の違和感が解決され、歌意が自然になる。なぜ今まで誰も気付かなかったのか。
著者の本業は弁護士と言う。緻密な論理の積み重ねで真実に迫るその手法は、文学部の教授たちには難しかったのかもしれない。在野の研究者の著書と侮ってはならない。凡庸な大学教授の珍説を寄せ付けない、本物の研究が本書にはある。
【2022年3月補足】
「我許者背歯」を「われこはせば」と訓読する説は古田武彦が2001年の著書『古代史の十字路』(東洋書林)で述べている。だからと言って本書の価値が減ずるわけではない。ただし改版の際は古田説をぜひ紹介してほしい。本レビューにおいて原著の「乞はせば」を誤って「乞はさば」と書いていたので、正しい「乞はせば」に訂正した。
万葉集の冒頭を飾る雄略天皇の御製の訓読を例に示す。
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家𠮷閑名 告紗根 そらみつ 大和の国は おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 我許者背歯 告目 家をも名をも
難訓は次の二ケ所であるという。しかも写本により異同があるそうだ。
A 家𠮷閑名 告紗根 写本により「𠮷」が「吉」や「告」になるという。
B 我許者背歯 告目 写本により「者」がない場合があるという。
著者はAを「家聞かな 告(のら)さね」、Bを「我れ乞はせば 告(のら)め」という訓を提案する。
雄略天皇が「家を聞きたい。言ってください」と言った段階で娘は相手が天皇であるとは知らない。そこで自己紹介的に「そらみつ 大和の国は おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ」と言うのであるが、著者によるとこれは係り結びでなく、確定条件節を導くのだそうだ。そのことは大野晋氏の『 係り結びの研究 』にも詳しく説明されている。平安時代ならば已然形の後ろに「ば」や「ども」を付けるのであるが、奈良時代には付けない言い方があった。
従来説の多くはこのあと「我こそ告らめ 家をも名をも」と続くが、これはおかしい。雄略天皇は自分が天皇であることを既に明かしている。なぜ再び名乗る必要があるのか。このあとに著者は従来の訓読を紹介するが、著者が紹介する近代の代表的な注釈書でそれを考慮するのは、大野晋氏が中心となった岩波の旧大系の「われにこそは 告らめ」と澤瀉久孝氏の『萬葉集注釋』の「吾(わ)にこそは 告らめ」の二つだけである。両者のように「に」という助詞を補うのも解決策であるが、原文にないものを入れるのは著者の指摘する通り好ましくない。
著者の新説である「私が乞うならば言うであろう」の意味の「我れ乞はせば 告(のら)め」は画期的な成果である。従来の訓読の違和感が解決され、歌意が自然になる。なぜ今まで誰も気付かなかったのか。
著者の本業は弁護士と言う。緻密な論理の積み重ねで真実に迫るその手法は、文学部の教授たちには難しかったのかもしれない。在野の研究者の著書と侮ってはならない。凡庸な大学教授の珍説を寄せ付けない、本物の研究が本書にはある。
【2022年3月補足】
「我許者背歯」を「われこはせば」と訓読する説は古田武彦が2001年の著書『古代史の十字路』(東洋書林)で述べている。だからと言って本書の価値が減ずるわけではない。ただし改版の際は古田説をぜひ紹介してほしい。本レビューにおいて原著の「乞はせば」を誤って「乞はさば」と書いていたので、正しい「乞はせば」に訂正した。
2017年11月8日に日本でレビュー済み
#感想歌 #短歌 #和歌, #萬葉集 #難訓歌(なんどくうた)が多すぎる土屋文明よりも面白 萩の歌対象考察体系化萬葉拝読楽しみ増える #萬葉植物歌会