近未来世界大戦勃発時、英国の少年らを乗せて疎開先へ向かう飛行機が南海の未知の孤島に不時着したところから物語は始まる。困難な状況に果敢に立向かう陽性な冒険小説であるかの趣は序章の終了とともに直ちに消失する。理性的秩序が内部的に急速に崩壊する過程で少年達の間に鋭い対立が生まれる。抗争は陰湿な形で激化し、ついには血なまぐさい事件へと展開する。筋を追うのは以上にとどめるが、作者(1983年にノーベル文学賞を受賞)は少年らを登場人物とする寓話を通じて人間に巣食う獣性、狂気を鋭く抉り出す。可能であれば原書との併読を勧める。
集英社文庫、新潮文庫ともに訳者は平井正穂。訳文は双方とも実質的に同じだが、前者にある「忿恚(ふんい)」、「空豁(くうかつ)な所」は、後者では「憤怒」、「ひらけた所」とそれぞれ平易な表現になっている。また「蹲り」、「躓いた」、「噤んだ」、「跪いた」、「凭れる」は、前者ではルビを振って漢字表記されているが、後者ではそれぞれ「うずくまり」、「つまずいた」、「つぐんだ」、「ひざまずいた」、「もたれる」のように平仮名表記のみとなっている。
訳者の平井正穂は終戦直後から助教授、教授として東大英文科を担い、丸谷才一、篠田一士、高橋康也などの俊秀を門下生とし、また『ユートピア』、『ロビンソン・クルーソー』、『ヘンリ・ライクロフトフの私記』、『ロミオとジューリエット』、『失楽園』、『ガリバー旅行記』などを翻訳した大英文学者として著名だ(2005年没)。
だが本書(新潮文庫も同じ)を読んで明晰さを欠くと思われる訳箇所がないわけではない。一例だが、12ページに「ラーフの左手に当たって、椰子と砂浜と海面の展望は、無限のかなたにおいて極微の一点において凝結していたからだ。」とあるが、原文を読めば「椰子と砂浜と海面はラーフの左側の遥か無限のかなたで遠近法の一点に収束していたからだ。」程度に訳すべきであろう。
また訳の文体に統一感がないのも目立つ。弓杖、極微、御業、茫漠、揺曳、酷熱、広闊、隘路、天蓋、稜堡、暢達、険岨、光輝、斜光、萼片、陰鬱、漠々、詠唱、澎湃、輾転反側、夢魔、罵言、そだの山など文語性の強い語彙を多用する一方で、同じ地の文中で擬声語・擬態語を連発する。統一感の欠如の主因はここにありそうだ。本文375ページの最初の10ページだけから拾ってみても、「とぼとぼ」、「ぴたりと」、「だらだら」、「ぽっちゃり」、「ずんぐり」、「びくっと」、「じっと」(2回)、「ふっと」、「にやっと」、「ぎざぎざ」、「どさっと」、「ぱちくり」、「ごしごし」、「でこぼこ」、「きらきらと」、「さっさと」、「そっと」、「どすんと」、「ちんまり」、「じろじろ」、「すっぽり」、「ちらっと」(2回)、「わあっと」、「ごろっと」、「にんまり」、「せかせかと」、「ごろごろ」、「こんもりと」、「のこのこ」と29語のオノマトペを31回も登場させる。オノマトペの過剰な使用は文体を幼稚化し、文語性の強い語彙と馴染みにくい面がある。
表記法で最初から最後まで気になる点だが、主人公Ralphのカタカナ表記を「ラーフ」としているが、halfにおけるエルとは異なりRalphにおけるエルは発音されるエルであるし、現にラルフ・ローレン、ラルフ・ネーダーなどの表記が確立していることに鑑みれば、「ラルフ」としてもらった方がピンとくる。
大英文学者必ずしも100発100中で翻訳に成功しているわけではない作品の一例とも言えそうだが、原作と訳本を併読することにより二重に楽しめた。ともあれ原作に惹きつけられて星5つ。
なお作者及び訳者ともに1911年生まれということで今年は生誕100年にあたる。

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蝿の王 (集英社文庫) 文庫 – 2009/6/26
少年たちは“獣"になって殺し合う…
無人島に取り残された少年たち。やがて彼らは心の底にひそむ野性にめざめ、凄惨な内部抗争と殺戮を繰り返すようになる。極限状況での秩序の崩壊を通して、人間社会のあり方を諷刺した衝撃作。
無人島に取り残された少年たち。やがて彼らは心の底にひそむ野性にめざめ、凄惨な内部抗争と殺戮を繰り返すようになる。極限状況での秩序の崩壊を通して、人間社会のあり方を諷刺した衝撃作。
- ISBN-104087605787
- ISBN-13978-4087605785
- 出版社集英社
- 発売日2009/6/26
- 言語日本語
- 本の長さ392ページ
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商品の説明
著者について
南太平洋の孤島に、飛行機で不時着した少年たち。その島で野性にめざめた彼らは、殺戮をくり返す…。極限状況の中の新しい秩序とその崩壊を通して、人間と社会のあり方を風刺する恐怖の寓話。
登録情報
- 出版社 : 集英社 (2009/6/26)
- 発売日 : 2009/6/26
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 392ページ
- ISBN-10 : 4087605787
- ISBN-13 : 978-4087605785
- Amazon 売れ筋ランキング: - 830,126位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 6,706位集英社文庫
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2012年8月4日に日本でレビュー済み
小説として読むには、ご都合主義が鼻につく。
寓話として読むには、冗長さに頭が痛い。
どちらにせよ題名の「蠅の王」は、
物語の中の「得体の知れない何か」であって
この本の主題を表しているとは思えない。
出版された1954年に縁遠いから?
欧米人ではないから?
名作と聞いて読んだが、私の心は動かなかった。
寓話として読むには、冗長さに頭が痛い。
どちらにせよ題名の「蠅の王」は、
物語の中の「得体の知れない何か」であって
この本の主題を表しているとは思えない。
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欧米人ではないから?
名作と聞いて読んだが、私の心は動かなかった。
2022年10月16日に日本でレビュー済み
「十五少年漂流記」はユートピアを基調としていて最後はハッピーエンドのような終わり方をしていたけれど「蝿の王」の終わりはそうは読めない終わり方。380ページほどある小説で最初の50ページくらいは確かにユートピア風味の小説だったがじょじょにディストピア風味に移行する。設定となった島は少年以外に大人はいないという設定で、次第に監視する人がないことを良いことに暴力的な闘争が始まるがゴールディングは人類的には「十五少年漂流記」のユートピアよりこっちの方が人類学的に正しいと言いたいんだと思います。だからおそらく同じ理屈で警察がなかった時代の人類は人類に殺されていたと「スマホ脳」に書いてありましたし、この本はまだ読んでいませんが『ヒトは、「いじめ」をやめられない』の著者は「いじめは人類の種の保存に必要だからなくならない」と主張しています。そして最後は巡洋艦という言葉が出て来て、それが軍事用品だから第二次世界大戦もそうだと著者のゴールディングは言いたいのでしょう。