専門に歴史を研究されている方々からは批判もあろうかと思うが、そうでない一般人が歴史の裏話を知ることができるという意味では十分に面白い。
ただ、徳川家達氏の男色問題等、旧華族とは言え、倉富氏の日記を唯一の根拠にして、ここまで内情を暴露してよいものか若干疑問に思った。

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枢密院議長の日記 (講談社現代新書) 新書 – 2007/10/19
佐野 眞一
(著)
大正期、激動の宮中におそるべき“記録魔”がいた。その名も倉富勇三郎。宮中某重大事件、皇族・華族のスキャンダル、摂政問題……。誰も読み通せなかった超一級史料にノンフィクションの鬼才・佐野眞一が挑む。幕末に生まれ、明治、大正、昭和を生き、三代の天皇に仕えた倉富は、時代の変遷をどう見つめ、年月の足音をどう聞いて、記録にとどめたのか?いざ、前人未到の倉富ワールドへ!
- 本の長さ436ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2007/10/19
- ISBN-104062879115
- ISBN-13978-4062879118
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2007/10/19)
- 発売日 : 2007/10/19
- 言語 : 日本語
- 新書 : 436ページ
- ISBN-10 : 4062879115
- ISBN-13 : 978-4062879118
- Amazon 売れ筋ランキング: - 481,120位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1947(昭和22)年東京生れ。
出版社勤務を経てノンフィクション作家に。主著に、民俗学者・宮本常一と渋沢敬三の交流を描いた『旅する巨人』(大宅賞)、エリートOLの夜の顔と外国人労働者の生活、裁判制度を追究した『東電OL殺人事件』、大杉栄虐殺の真相に迫り、その通説を大きく覆した『甘粕正彦 乱心の曠野』『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』など多数。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2009年6月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大正時代の日記魔の記録。内容といえば、極論すれば宮中井戸端会議速記録。人事情報から色恋沙汰まで書いて書いて書きまくったものを、著者が要約と解説を加えています。枢密院議長といえば、天皇陛下の言わば相談役。いくら明治と昭和の激動に挟まれた比較的安定した時代とはいえなんとも数奇な人物が陛下のおそばにいたものだと感心というか呆れた次第です。好奇心を満たしたい方にお勧めの本です。
2022年6月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
枢密院議長の日記とあるが、実際は宮内省高官の日記としての価値が高い。宮中の出来事を軽重の別なく書き記した日記マニアともいうべき倉富氏の記録のほんの一部を書き起こしたものだ。皇室の在り方は明治維新で大きく変わったがその発展のさなかに大きな節目があった。大正天皇とその時代だ。明治天皇は賢君として名高いが大正天皇は影が薄い。健康状態がかなり悪かったことは明らかだったが昭和天皇が摂政宮となるにあたり手続き論では難所があった。その経過が部分的にしろわかるのは貴重だ。反面、倉富氏の限界は優秀な法律家であることそれ自体にあった。もと検察官であり事実認定の感覚は優れている。そして法解釈の能力も卓越している。だが、政治センスは皆無と言ってよい善良な官僚というべきだろう。だからこそ、目に見え、耳に聞こえる事実を書き留めることが習い性となった。それが長大な日記として残されているのは歴史の一次資料として貴重だ。
日本の実務家は平安時代から日記なり備忘録なりの記録を作ることを好む。有名なのは京都の公家で家職として有職故実を記録しそれを子孫に伝えることで宮中でのリーダーシップを発揮した。この場合の日記は今の業務マニュアルや判例集、通達集にあたるものでこれがあるかないかは実務であれ儀式であれ評価がまるで違う。
この傾向は武家、商家、農家の全てに共通している。その延長線上に明治新政府官僚の倉富氏がいる。内容は卑近なものから宮中までなんでもありなうえに情報に軽重を付けない独特なものだ。普通は文章を書くときは情報の軽重を判断して書く。しかも法律家であれば事実認定にあたり情報の軽重を判断するのは習い性のようなものだろう。それが見られないという時点でこの日記の目的は書くことそれ自体にあったというしかない。
関東大震災の記述では断腸亭日常の日記と比較しているが、日常の日記が美文調で内容が薄いのにくらべ、倉富氏の日記は事実を淡々と書いている分、情報量が多い。文人趣味は所詮、趣味の域にとどまる好例といえそうだ。
繰り返しやら話題変更の多いことは読み手を想定したものではない。夫人が読んでいたという記述があるが、全部ではあるまい。むしろ関係するところを確認したりしていただけだろう。だが、倉富氏が夫人と三越に買い物に行く下りはほほえましい。買い物の楽しかった思いを二人で追体験している姿が目に浮かぶ。
余りにも多面的な内容なので本書の筆者もついていけているとは言い難い。実際には本書で取り上げたのはほんの一部だ。本来は全文をデーターベース化できれば良いのだろうが個人の力の及ぶところではないということだろう。労力の割に雑誌の記事のような目立つ話に紙幅を割いたせいでこの日記の姿があいまいになっている。紹介の仕方が有名な事件に関する記述に重点を置く一方で、身辺雑記の部分もあるという書き方だが、日記なのだから当たり前だろう。むしろ身辺雑記の部分に明治大正昭和の隠れた情報が含まれていると思える。焦点を絞り切れていないのが残念。
日本の実務家は平安時代から日記なり備忘録なりの記録を作ることを好む。有名なのは京都の公家で家職として有職故実を記録しそれを子孫に伝えることで宮中でのリーダーシップを発揮した。この場合の日記は今の業務マニュアルや判例集、通達集にあたるものでこれがあるかないかは実務であれ儀式であれ評価がまるで違う。
この傾向は武家、商家、農家の全てに共通している。その延長線上に明治新政府官僚の倉富氏がいる。内容は卑近なものから宮中までなんでもありなうえに情報に軽重を付けない独特なものだ。普通は文章を書くときは情報の軽重を判断して書く。しかも法律家であれば事実認定にあたり情報の軽重を判断するのは習い性のようなものだろう。それが見られないという時点でこの日記の目的は書くことそれ自体にあったというしかない。
関東大震災の記述では断腸亭日常の日記と比較しているが、日常の日記が美文調で内容が薄いのにくらべ、倉富氏の日記は事実を淡々と書いている分、情報量が多い。文人趣味は所詮、趣味の域にとどまる好例といえそうだ。
繰り返しやら話題変更の多いことは読み手を想定したものではない。夫人が読んでいたという記述があるが、全部ではあるまい。むしろ関係するところを確認したりしていただけだろう。だが、倉富氏が夫人と三越に買い物に行く下りはほほえましい。買い物の楽しかった思いを二人で追体験している姿が目に浮かぶ。
余りにも多面的な内容なので本書の筆者もついていけているとは言い難い。実際には本書で取り上げたのはほんの一部だ。本来は全文をデーターベース化できれば良いのだろうが個人の力の及ぶところではないということだろう。労力の割に雑誌の記事のような目立つ話に紙幅を割いたせいでこの日記の姿があいまいになっている。紹介の仕方が有名な事件に関する記述に重点を置く一方で、身辺雑記の部分もあるという書き方だが、日記なのだから当たり前だろう。むしろ身辺雑記の部分に明治大正昭和の隠れた情報が含まれていると思える。焦点を絞り切れていないのが残念。
2013年9月25日に日本でレビュー済み
他の人と違った視点のレビューを書きます。 いちばんよかったのは男爵の爵記や倉富勇三郎が爵服を着てる写真が表紙の次のページに載ってる事。 爵記には依勲功特授男爵と叙爵理由が記され、御璽の上に嘉仁と大正天皇の御名があるが、そのすぐ左下に裕仁と書いてある。昭和天皇が摂政として書いたことがわかる!ドキドキ! 本の内容も楽しめてよかった。 倉富氏の日記の書き方は、南部光臣や仙石政敬等との会話が脚本のように書かれていて、90年前の事柄が今話しているかのようで、臨場感があっておもしろかった。
2007年12月6日に日本でレビュー済み
印象に残ったのは日記の主、倉富勇三郎自身を佐野氏が好感を持ち、その人間性を面白がって読解をしている点です。日記の主を温かく見守りながら主観的に捕らえて表現しているのです。それ故このページ数(新書400ページ)になってしまったのでしょう。
日本史を熱心に勉強していなかった私は、明治維新から戦後高度成長期くらいまでの歴史観がすっぽり抜けたまま、現在に至っています。そんな負い目からか最近、その時期を取り上げたノンフィクションを手に取る機会が増えてきました。本書を手にとったのは、今までまったく無知だった大正の宮中を扱っていた点とノンフィクション作家としての佐野眞一への好みからでしょうか。
日記は宮中某重大事件、日韓併合の裏面史、柳原白蓮騒動、ロンドン海軍条約の宮中内部からの視点で示される歴史的価値の高いものの読解の困難さから、完全に読解する事ができませんでした。本書の中心となる大正10年と11年を中心とした2年分の日記の読解を、佐野眞一をしてなんと5年を要しています。その理由については本書の特徴に関わる大きな要素となっています。その量と、旧仮名遣いの引用を読むのが多少苦痛な事を考慮に入れて星3つとしました。
日本史を熱心に勉強していなかった私は、明治維新から戦後高度成長期くらいまでの歴史観がすっぽり抜けたまま、現在に至っています。そんな負い目からか最近、その時期を取り上げたノンフィクションを手に取る機会が増えてきました。本書を手にとったのは、今までまったく無知だった大正の宮中を扱っていた点とノンフィクション作家としての佐野眞一への好みからでしょうか。
日記は宮中某重大事件、日韓併合の裏面史、柳原白蓮騒動、ロンドン海軍条約の宮中内部からの視点で示される歴史的価値の高いものの読解の困難さから、完全に読解する事ができませんでした。本書の中心となる大正10年と11年を中心とした2年分の日記の読解を、佐野眞一をしてなんと5年を要しています。その理由については本書の特徴に関わる大きな要素となっています。その量と、旧仮名遣いの引用を読むのが多少苦痛な事を考慮に入れて星3つとしました。
2013年8月9日に日本でレビュー済み
生きるために日記を書くというより、日記を書くために生きてるような人だな。しかし、なんでもありのままに書いてるから、当時のことはよくわかる。でも、この人も、皇族が誤って人を射殺した事件だけは、人名を出してないんですね。さすがにそれはまずかったんでしょうね。しかし、これは一体誰なんだろうね。交通事故を起こした皇族のことが書いてあるけど、この人かも。
倉富氏は一介の役人に過ぎないが、それでも、ロンドン海軍軍縮条約の時だけは、不満があったんですね。この時が、日本の歴史が大きく動いた時だったのだろう。
佐野氏には昨今批判もあるけど、この日記を読み進めたのには脱帽しますよ。
倉富氏は一介の役人に過ぎないが、それでも、ロンドン海軍軍縮条約の時だけは、不満があったんですね。この時が、日本の歴史が大きく動いた時だったのだろう。
佐野氏には昨今批判もあるけど、この日記を読み進めたのには脱帽しますよ。
2007年11月19日に日本でレビュー済み
分厚い新書。何故単行本ではなく新書で刊行されるのかよくわからないが、価格面では非常にありがたい。
元枢密院議長で記録魔(日記魔?メモ魔?)の倉富勇三郎が残した膨大な日記を紐解くことにより、大正から昭和初期にかけての皇族裏面史について著者なりの解釈してみようというだけではなく、その日記から浮かび上がる倉富という人物そのものに対して興味を持ち、できあがった作品が「評伝的」になってしまったという、実に佐野眞一らしい一冊。
倉富勇三郎という、たぶん一般には殆んど知られていないと思われる人物の、分厚い本にして50冊にも及ぶという26年分の日記と格闘(ただし実際に精読したのは大正10.11年の2年分とのことだが)する著者と編集者達の姿を思い浮かべるだけで、ご苦労様でしたと言ってしまいそうになる。
わたしは皇族のスキャンダルに関する知識を持ち合わせていないので、著者の解釈が真実に迫っているのかどうかの判断はできない。
そして、佐野眞一の体臭が匂ってきそうなくらいの個性《人物像を形造るのに思い込みが激しすぎるという批判を何処かで目にしたことがあるが、筆者なりの人物像を描き出せないでのであれば、評伝を書く意味はないのではなかろうか》を持つ、著者の「評伝作品」が好きなので、この作品も「評伝」として楽しむことができたのだが、佐野眞一そして皇族の裏面史とも興味のない人には楽しめない作品のような気もする。
元枢密院議長で記録魔(日記魔?メモ魔?)の倉富勇三郎が残した膨大な日記を紐解くことにより、大正から昭和初期にかけての皇族裏面史について著者なりの解釈してみようというだけではなく、その日記から浮かび上がる倉富という人物そのものに対して興味を持ち、できあがった作品が「評伝的」になってしまったという、実に佐野眞一らしい一冊。
倉富勇三郎という、たぶん一般には殆んど知られていないと思われる人物の、分厚い本にして50冊にも及ぶという26年分の日記と格闘(ただし実際に精読したのは大正10.11年の2年分とのことだが)する著者と編集者達の姿を思い浮かべるだけで、ご苦労様でしたと言ってしまいそうになる。
わたしは皇族のスキャンダルに関する知識を持ち合わせていないので、著者の解釈が真実に迫っているのかどうかの判断はできない。
そして、佐野眞一の体臭が匂ってきそうなくらいの個性《人物像を形造るのに思い込みが激しすぎるという批判を何処かで目にしたことがあるが、筆者なりの人物像を描き出せないでのであれば、評伝を書く意味はないのではなかろうか》を持つ、著者の「評伝作品」が好きなので、この作品も「評伝」として楽しむことができたのだが、佐野眞一そして皇族の裏面史とも興味のない人には楽しめない作品のような気もする。
2008年5月1日に日本でレビュー済み
当時のエリート階級に属する人のうち、日記をつけていた人は多かったと思う。そうした中で、なぜ倉富の日記が取り上げられるのかといえば、その綿密さであり、内容の希少性ではないかと思う。
綿密さは信頼性をもたらす。書いたり書かなかったりする場合には、日記に対する取り組み姿勢、ひいては内容の正確さに疑問符が灯る。倉富は場合によっては何ヶ月も前の日記を別のメモを頼りに書いたというようなエピソードが紹介されている。
内容については、誰もが名前を知っているような政府高官の発言が状況とともに生で紹介されているところに独自性がある。新書にしては厚い本であるが、一気に読み通せる本であると思う。
綿密さは信頼性をもたらす。書いたり書かなかったりする場合には、日記に対する取り組み姿勢、ひいては内容の正確さに疑問符が灯る。倉富は場合によっては何ヶ月も前の日記を別のメモを頼りに書いたというようなエピソードが紹介されている。
内容については、誰もが名前を知っているような政府高官の発言が状況とともに生で紹介されているところに独自性がある。新書にしては厚い本であるが、一気に読み通せる本であると思う。