ロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』を見た。1966年のベネチア映画祭特別賞受賞。
ギスラン・クロケ(アラン・レネの『夜と霧』、ルイ・マルの『鬼火』など)のモノクロ映像がとても美しいフランスの田舎を舞台に、バルタザールという名のロバの災難の物語。そして、ジャケット説明にあるとおり「少女とロバの過酷な運命」。
少女だけでなく・・・少女の父母、幼馴染の青年も(この青年の父のものである土地に絡む、少女の父の不幸も周到に織り込まれながら)そこに引きずり込まれて大変気の毒なこととなるこの物語は全てが静かに語られ、そうした不幸に寄り添うようなシューベルトのピアノ曲(ジャン=ジョエル・バルビエ)と共に深く心に残ります。
<内容にふれています、ラストにも。>
小学校長だった少女の父は世の中を渡るということにまるで疎い人。土地の件も公証人のアドヴァイスどおりにすれば多分上手く行ったのでしょうが・・・父と性格的に似た所のある少女マリーの、どうも下手な方へ行ってしまう傾向。そこに負の方向へさらに引っ張るような少年グループが纏わりついた底なし沼のような災難の中・・・とてもロバとは思えない演技力のバルタザールは羊たちの群れる草原で天に召されてゆく・・・
ロバと人の垣根を越えて互いに相手を思うバルタザールと少女マリー。マリーを演じる、ゴダール作品の女優さんでもあるアンヌ・ヴィアゼムスキーの不幸を纏うことが似合ってしまうような独特のムードが見どころでもあると思います。
子ロバの頃のバルタザールと数匹のロバの家族。ロバの毛の1本1本を生き生きと映し出す映像が素晴らしい。
そこに小さいマリーと、このあと何があってもマリーを思い続ける青年へと成長する小さい頃のジャック。ジャックの姉と、病弱なもう1人の小さい少女は妹でしょうか(この少女のムードもとても好み)。小学校の隣の広い庭での彼らの自然な行動を、手早く見せて語るノスタルジックなムードのop(他もムダがなく見せなくてもわかることはスッキリと省いて描かれる)。
小さいマリーとジャックがベンチにチョークで書いたハートの中の2人の名・・・
子供たちはバルタザールに洗礼もするけれど、「飼うのはムリ」というジャックの父。
次の場面は手酷く虐げられる(と見えますが、これは普通のロバの労働かもしれない)バルタザールですが、ここも荷馬車の車輪やロバの足元など、グィッ!と迫る映像に見入ってしまいましたが、とにかくこのシーンはバルタザールの災難の序。
数年後、少女マリーの家(opの田舎家ですが、ベンチはボロボロ)の近くを荷馬車を引いて通りかかったバルタザールは苦役から逃げ出しマリーの元へ・・・
バルタザールは主役であり登場「人物」として描かれていて本作は動物映画ではなく、バルタザールの「立場がロバなだけ」なのだと私は思っていますが、そんなある日、村の筋金入りの「悪童」グループのリーダー・ジェラールが(道でマリーに出会うことで)マリーたちの人生に関わってきてしまう。ロベール・ブレッソンのこうした所の描き方は、ただただ見せることに徹して、彼らがなぜそうした「悪」となったかという方向へは全く行かないのが私はすごく気に入っていますが、同様に(この「悪」と絡んでしまう)マリーやパン屋の奥さんにしてもなぜそうなって行くのかといった心理的説明はない、それが良いのです。ロベール・ブレッソンがプロの有名な俳優さんを使わないのは、こういうところでその俳優さんの考えによる感情移入があるのを好まないからからなのでしょうか。
このあとマリーの元を離れパン屋の奥さんに飼われたバルタザール。ここに雇われたジェラールのパンの宅配の仕事(こうした商売のやり方をしっかり見せていてとても面白い)に使われることになり、ジェラールとマリーの行く末を見つめつつ労働を強いられ「心労」からすっかり弱ってしまい、あわやのところを今度はルンペンのアルノルドに救われる・・・そして、アルノルドと「悪」グループの、村で起きた殺人事件の犯人をめぐる攻防のようなものが手短に描かれると同時に、突然アルノルドに遺産相続の件が舞い込んで来る・・・
先月投稿したエリック・ロメールの『獅子座』は相続するのかどうか?の物語でしたが、本作はそうしたことは全くなく、さっ!と遺産相続パーティシーンに切り替わり店でかけているjazzが耳に飛び込んでくるここには、「悪」グループ、マリー、opにもいた近所のおじさん、などが参加。パーティの前のマリーと母とのやりとりや、おじさんのひとことふたことが耳に残る中、「店の中のガラス製品に何か恨みでもあるのか?」と問い詰めたくなるジェラールの振る舞いについてもロベール・ブレッソンは「ただただ見せる」を崩しません。アルノルドは、束の間楽しんだかどうか?パーティがハネたあとバルタザールの背に乗り、路上の物や電柱に向かって「行き交うバカを眺めているお前たち・・」といった言葉を口にしたあと崩れ落ちるように亡くなってしまう。この死に様は何か心地よく思えます。
が、運命に羽交い締めにされたような状況のマリーは、好青年ジャックの「結婚して欲しい」という言葉に対しても「どうしても愛せない」。マリーというのは彼女の父と同じく、何が得か?ということでは動けないタイプの人間。一方「得する事」だけを考えて行動し金持ちになったという近所のおじさんのところへある雨の夜、空腹のマリーが泊めて欲しいとやってきて・・・私はこのシーン大好きなのですが・・・アンヌ・ヴィアゼムスキーのジャムと林檎の食べ方も良いし、彼女がこのおじさんに「友情を望む」のも良いのですが・・・マリーを迎えに来た父母とこのおじさんの、(ルンペンのアルノルドが亡くなったあとはこのおじさんの所でこき使われていた)バルタザールの所有権を巡る譲り合いのようなやりとりもとても好感が持てます。
結局バルタザールはちゃんとマリーと父母のところに戻りジャックも訪ねてくる。けれどこれで皆が救われるほどロベール・プレッソンの神は甘くなく・・・あまりにも可哀想でありながらアンヌ・ヴィアゼムスキーの纏う雰囲気がそこへの過剰な感想を拒否するようなカットがあり、「マリーはいなくなってしまってもう帰ってこないのよ」と淡々とジャックにいうマリーの母のこうした感じはすごく信仰の篤い方に時々あるように思います。ジャックはこの先もマリーへの思いが変わらないのではないかという気がしますが、父は力尽きてしまい、バルタザールは最後の災難のあとやっと救いがやってくる、羊たちの傍らで・・・