【はじめのまとめ】
☆5つの理由は、
他書で著者の発想を知り興味を持ったこと
問題提起や疑問を含めた全てのレビューがよかったこと
意欲作であることは間違いないこと、
活字の配列、印字の濃さ等が読みやすかったこと、による。
*ルイス・キャロルの作品や評伝は読んでいたので親しみが持てた。
*ガウディには余り関心がなかったので、かえって新鮮だった。
天才が、ガウディが、ルイス・キャロルが、という以前に、
著者自身の脳内で起きている事を、著者自らの言葉で説明しようとする点で、
私にとっては稀有な作品だった。
サヴァン症候群や、瞬間(写真)記憶解明への糸口になるかも知れない。
本書は、著者のこだわりを強く感じる特異な作品だ。
おそらく正当な評価は、私には無理である。
歴史的に再評価される事もあろう。
視覚優位、聴覚優位という視点で、資料を読み解いているので、違和感を持つ方もいるかもしれない。
また大いに共感して読まれた方もいるに違いない。
本書1行目、「人は、自分が見えているように人も見えていると思い、
自分が聞いているように人も聞こえていると思いこんでいます」という文言が象徴的だ。
「オートポイエーシス」という言葉がある。
説明をきいて想像は出来ても、他者の感覚体験を完全に共有するのは無理だ。
著者の「映像思考」「視覚による思考」という言葉が気になる。
チンパンジーによる瞬間記憶の実験を見たことがある。
人間よりも優れている。
本書にも、生き物として自然界で生き抜くため、「違い」に気づくことは有利だ、という記述があった。
「誰でも(ヒトにも)そうした能力があるのだが、人間としての社会性を身に付けていく過程で、その能力が失われる」という仮説を読んだことがある。
15歳の頃、『ヘレン・ケーラーの生涯』を感動を持って読んでいた。
今でも井戸端(「奇跡の人」)のシーンを見ると涙が溢れる。
ヘレンは乳幼児の頃、病気によって視力と聴力を失った。
サリバン先生と出会ったのは、7才の時だ。
それまでは、言語のない思考をしていたことになる。
触覚や味覚、嗅覚による思考といってよいかもしれない。
こんな哲学的な事も考えていた。
ところで、ヘレン・ケラー来日の目的に「塙保己一」があったことを、
今ごろになって知った。
ヘレンの母親が、保己一の事を知っていて話していたらしい。
言語のない思考体験は、乳幼児期に私たち自身が通過している。
ご先祖様の、類人猿時代も、そうだったかもしれない。
自然界においては、5感全てを(時には第6感も?)働かせて生きていたはずだ。
【わたしは、どちらが優位か】
本書の第1章で、
「あなたは視覚優位か、聴覚優位か」と読者に問いかけている。
短期間そろばん塾に通ったことがある。
地元の子どもたちが、そろばんの初歩を習い暗算にも挑戦する。
得手不得手もありそうだが、私は得意な方だっだ。
指や頭の中の玉を動かし、そろばんをイメージするのだ。
試しに1から10まで合計していくと、今でも玉が55だと教えてくれる。
目を開けていてもイメージできる。
目の前の画像と、鮮明なソロバンの画像が重なるわけではない。
これも映像思考と言えるのか。
鮮明な画像が現れることがある。
部屋を暗くし、睡眠態勢に入って、何も考えていない時、
何の脈絡もなく、動画が現れる。
劇場で映画を見ているかのようだ。
たいてい動きがあり見ごたえのある映像だ。
通常の夢とは、明らかに違う。
すぐに今の映像はすごかったと、振り返ることができるからだ。
著者が、ダーウィン作品における色彩描写を読んで、その情景がフルカラー映像となり、リラックスできたと記してあったが印象的だった。
しかし、それがどんな映像で、どのように次々と映像化され、つながっていくのかが実感できない。
例えば、図入りでない場合、その生物の姿・形は、過去に見た記憶にある画像が元になって彩色されていくのか。
『ビーグル号航海記』等は若い頃、読んでいる。
『種の起源』は、1度目に挫折し、その時は自分の頭のせいにした。
新訳が出て読み通せたが、 それでも読みにくかった。
私の中では、ダーウィンの説明が上手くないのだと認定していた。
読書の習慣のなかった少年の頃、自分の頭で、あれこれ考えるのが好きだった。
私の読書は、その延長線上で、余り読まない小説も含めて常に何かを知りたいと思って読んでいる。
そこには適度な集中力と緊張感があり、それが脳への刺激となり面白い。
情景が、ありありと浮かび、リラックスする読書体験が自分にはあるのかと問うてみた。
数は少ないが、描写の刺激により、過去の経験と重なって、その情景が浮かぶことはある。
また、画集や写真集をボーッと見ているときは、活字読書とは違った状態で、私もリラックスしている。
私は、どちらかと言えば多読・乱読だ。
ただし、活字であっても視覚映像に頼る場合がある。
短時間で1冊を理解しようとする際は、この凡庸な頭でも集中する。
目を皿のようにして論点や要旨となるキーワードを追っている。
その時は、文字を音声に変換せず、漢字を絵画的・画像的に処理している。
そこでハタと思った。
*欧米では長いものが好まれるのか、賞をとった科学啓蒙書でも、大げさな比喩・例示・エピソード等、(自分は)退屈で投げ出すことがある。
*昔、流行った角田忠信『右脳と左脳』(1981)が、虫の音の感じ方について欧米人とは違うことを明らかにしていた。
*「優位の傾向」に欧米人との差があるのだろうか。性差は?
*それが出版文化にも影響しているのだろうか。
*フランスでは、昔からクセジュ文庫があり、そうとも言い切れない。
*日本でも長いものを好む方がいて、やはり個人的な問題か。
夢はどうか。
私は結構、鮮明な夢を見る。
最近見た夢(本書を読む前)で印象的だったのは、3つの建物を徘徊する夢だ。
その発端も面白いのだが省略。
3番目の建物の廊下を歩いている。私一人だ。
大きな建物の真ん中にチャペルがあり、その周りが回廊で、
教室のような部屋が、東西南北に複数ある。
角の螺旋階段を少し上って覗くて、2階も同じような構造であることは分かった。
チャペルの各ドアが開き、女子生徒とその保護者と思われる人々が一斉に出てきた。
スーツ姿の私は怪しまれず、その人の流れに乗って外に出た。
振り返ると、建物の外観は、ノートルダム大聖堂のようだった。
右側に現代的な案内図があり見てみた。
洒落た金属製のパネルには、私が予想した通りに図示されていて、4階建てだった。
校門に向かって歩き出すと、大きな樹木が青空に向かって聳えている。
近寄って、その太い根元を注視した。
ここが夢の佳境で、その精緻な、色合いや質感に圧倒されて目が覚めた。
終戦の日には、こんな夢を見た。
女の子が一人立っている。動きやカラフルさはない。
その子が話し始めた。「私は〇〇国民学校4年生の〇〇です。〜」
どちらも聞いたことのない名で、夢の中で反芻しているので、その時は記憶にあった。
夢の中で、時々知らない人が出てきて、知らないことを教えてくれる。
それをメモしなくてはと、目が覚めた瞬間は覚えているが、
几帳面ではないので、すぐ忘れてしまう。
私の夢には、視覚的なものと、聴覚的なものとがある。
エピソードの記憶も視覚的だ。
幼少期の「あの時」を映像で覚えている。
自分を含めた位置関係の記憶図が、私の後方すこし上空からのものが殆どだ。
本書の「客体視」の項を読むまでは、不思議だと思っていたが、珍しい現象ではなさそうだ。
おそらく夢や記憶の、動画・画像は脳内で編集され、再生時には矛盾のないように無意識に補正されているのだろう。
私が覚醒時にイメージする映像記憶や映像想起は「モワッ」としたものだ。意識を外せばすぐ消える。
繰り返すが、目の前の映像と重なることはないし、白昼夢のように入れ替わることもない。
色が強くイメージされる映像は、真夏の太陽、青空、草いきれの中を歩く姿、網の中でキラキラひかるタナゴ等だ。
著者が色彩描写から、変換される(されてしまう)鮮明な映像とは、どうイメージされるか。
眼の前の活字と重なってしまうことはないのか。
そのカラフルな映像に意識が集中・固定してしまうならば、活字読書は進まないだろうことは、想像できる。
私が夢(ウトウトも)の中で見る映像はイメージでなく、夢の中で見ている仮想現実だ。
少年時代から、理科工作や図工が好きだった。
望遠鏡や顕微鏡も好んだ。
望遠鏡は自作することもある。
そのためにガラクタを集めている。
設計図は書かない。大雑把な物づくりや、考えながらの工作が楽しい。
明日、工作をしようと寝ながら考えている時は、頭の中でイメージする。
鮮明な完成予想図は浮かばないが、ごく自然に3次元の物体(線画等)を動かし、あの材料で足りるか、もっと巧い方法はないかと考える。
約30光年の広がりを持つオリオン大星雲、小さな植物やそれに集う虫たちの姿・色合いを見ては、今でも感動している。
本書での「縮尺フリー」は、子どもの頃から普通だった。
唐突感のあった「昆虫脳」の話は面白い。
昆虫脳に関する啓蒙書を読んでいたことを思い出した。
本書の「九九」の例のように、記憶術も、映像的な連想や語呂合わせ、リズムに合わせて覚えるなど、色々なやり方がある。
女性の芸人さんが、小学校時に覚えた(覚えてしまった)卒業式の呼びかけを、ラジオで披露していた。
自分のセリフや前後は覚えていても、全文覚えている人は珍しい。
朗々と続けているので、聴いている方は可笑しみが増す。
彼女は、すぐれて聴覚言語優位なのだろう。
落語・講談・文楽などの伝統芸能の方々は?
役者や俳優業を若い頃から続けている方々は?
結局、優位は、両極端の方から真ん中辺りの方まで、人それぞれのグラデーション的なものだ。
また場面によって無意識に切り替わったり、長年の鍛錬により意識的にスイッチを入れたりする方まで様々だと思う。
生得的に極端の方や、生来の気質・嗜好、仕事上の修養によって、脳の使い方の癖として身につけた方もいるだろう。
これは、著者の見解と矛盾するものではない。
他書(『ギフテッド 天才の育て方』)で恐縮だが、著者はこう述べている。
「…世の中の一部の人は、このように幼少期からすでに視覚に強い認知特性を持っている。その逆に聴覚に強い認知能力をもつ人も多くいるのである。これらの認知特徴について〇〇では、前者を視覚映像優位型、後者を聴覚言語優位型と表現させていただく。」
【おわりのまとめ】
山下清の貼り絵や作文は、学園に戻った際に課題として取り組んだものだ。
有名になるまでは、放浪中に絵筆を取ることはなかった。
彼の瞬間(写真)記憶は有名だが、作文(日記)にも驚くべきものがある。
まるで、テープレコーダーで再生したかのようだ。
生まれてから見聞きした全ては、動画のように記録されているという仮説がある。
山下清の作品は、この仮説で説明できるが、サヴァンのカレンダー計算は、これでは説明できない。
脳には、まだまだ未解明の部分があり、こうした研究成果にはワクワクする。
何をもって障害とするかは、難しい問題だ。
自分には、アスペルガー的だという自覚がある。
今までの人生の躓きは、これで説明できそうな気もする。
専門家を頼れば、「〇〇の疑い」といった診断を得ることも可能だろう。
若い頃、こうした言葉は流布していなかった。
「障害の定義」は、今後も時代とともに変わっていくものと思われる。
本書でも紹介されているテンプル・グランディンの本(『アスペルガー症候群・高機能自閉症の人のハローワーク』)をパラパラめくったが、彼女は極めて常識人であるように思えた。
もちろん、逆境を乗り越えるために壮絶なご苦労・努力があったことは推察するが…。
明治時代、不遇の少年が街の人々に好かれ、生きながら福の神として、庶民に愛されていた史実を覚えていた。
明治期の世相を著した本を好んでいた時期があったので、そこでの記憶か、或いは岡本かの子の短編小説『みちのく』であったかも知れない。
ネットで検索したら、「仙台四郎」であることが分かった。
宇宙時間を考えれば、人の一生は瞬きのようだ。
この一瞬の時間を、人の世で四苦八苦しながら生きてかなければならない。
それを乗り越える知恵として「八正道」がある。
・正見 ・正思惟 ・正語 ・正業 ・正命 ・正精進 ・正念 ・正定 の8つだ。
これを現代風に都合よくアレンジすれば、
「正直にものを見つめ考え話し前向きに生活し、
素直に努力記憶し集中して念じれば心安くなる」といった所か。
これで、人品すぐれた凡人・秀才・天才になれれば立派なものだ。
多少の欠点や抜け落ちている事があっても、社会と人類発展の創造に寄与できるのだから気にしない。
本書は、
①若者にとっては、自分の認知特性を知ることや、職業選択に役立ち、
②壮年層には、同僚、上司、部下、子どもの特性理解に役立ち、
③高齢者には、自分にあった趣味や脳トレ発見に役立ちそうだ。
本書とともに、小学校等の教材・教具・指導法のもとになっている、発達心理学における、一般的な認知特性、例えばピアジェの理論などを知っておくこともお勧めする。(以上)

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天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー) 単行本 – 2010/10/9
岡 南
(著)
発達障害研究の権威、杉山登志郎氏大絶賛!
「10年に1冊の画期的な人智科学の登場である」
視覚優位のアントニオ・ガウディと聴覚優位のルイス・キャロル。彼らの認知の偏りが偉大なる「サグラダ・ファミリア聖堂」や「不思議の国のアリス」を生み出した。発達障害の新たな可能性を探る衝撃の書。
様式によって異なる認知世界の地平へ
これまで多くの指摘がなされながら、正面から取り上げられることがなかった認知様式による体験世界の差異。それは人との関係も、学習も、仕事も、つまりはすべての活動を巻き込んだ構造的相違に展開する。視覚優位の世界、聴覚優位の世界、パースレスによる失認、そして局所優位性など……。読者は、認知様式の特徴を踏まえることで、多くの問題が容易に解決し、新たな教育の可能性が生まれることに、まさに目から鱗が落ちる体験をするであろう。10年に1冊の画期的な人智科学の登場である。――杉山登志郎
「10年に1冊の画期的な人智科学の登場である」
視覚優位のアントニオ・ガウディと聴覚優位のルイス・キャロル。彼らの認知の偏りが偉大なる「サグラダ・ファミリア聖堂」や「不思議の国のアリス」を生み出した。発達障害の新たな可能性を探る衝撃の書。
様式によって異なる認知世界の地平へ
これまで多くの指摘がなされながら、正面から取り上げられることがなかった認知様式による体験世界の差異。それは人との関係も、学習も、仕事も、つまりはすべての活動を巻き込んだ構造的相違に展開する。視覚優位の世界、聴覚優位の世界、パースレスによる失認、そして局所優位性など……。読者は、認知様式の特徴を踏まえることで、多くの問題が容易に解決し、新たな教育の可能性が生まれることに、まさに目から鱗が落ちる体験をするであろう。10年に1冊の画期的な人智科学の登場である。――杉山登志郎
- 本の長さ314ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2010/10/9
- ISBN-104062597020
- ISBN-13978-4062597029
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2010/10/9)
- 発売日 : 2010/10/9
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 314ページ
- ISBN-10 : 4062597020
- ISBN-13 : 978-4062597029
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年9月14日に日本でレビュー済み
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2021年1月10日に日本でレビュー済み
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資格優位と聴覚優位をハッキリと比較しながら説明されている。発達障害に詳しくなくともスムーズに理解できる。
ウィークネスとストレングスは表裏一体であることを再確認できた。
ウィークネスとストレングスは表裏一体であることを再確認できた。
2014年7月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「頭の中のイメージを、相手の頭の中にそのままコピーしてあげたい」・・・。
ああ、そうなのね!映像思考の人はそういうジレンマと抱えているんだ!と初めて
理解した次第です。同じ時空を共有しているようでも、みんな同じ世界を見ているわけでは
ないのですね。あとがきにある「ものすごくおしゃべりなのに絵が全く描けない人がいる」
というのは、実は私のようなタイプのことを指しているのではないかと思います。著者の
岡さんには今後こちらのタイプについても言及していただきたい。お願いします。
私が引きつけられたのは後半のルイス・キャロルの部分。
ある知人に、「あの人さっき会った人と同じ人で間違いないよね」とくどいほど念押しされる
という経験をしたことがあり、奇妙なエピソードとして頭にこびりついて離れませんでした。そ
のときは、私が人の顔をしっかり覚えているのかをその知人が試しているのか、それとも私の物
覚えの悪さをからかっているのかと曲解してしまったのですが、本書を読んでやっと腑に落ちた
感じがしました。
ああ、そうなのね!映像思考の人はそういうジレンマと抱えているんだ!と初めて
理解した次第です。同じ時空を共有しているようでも、みんな同じ世界を見ているわけでは
ないのですね。あとがきにある「ものすごくおしゃべりなのに絵が全く描けない人がいる」
というのは、実は私のようなタイプのことを指しているのではないかと思います。著者の
岡さんには今後こちらのタイプについても言及していただきたい。お願いします。
私が引きつけられたのは後半のルイス・キャロルの部分。
ある知人に、「あの人さっき会った人と同じ人で間違いないよね」とくどいほど念押しされる
という経験をしたことがあり、奇妙なエピソードとして頭にこびりついて離れませんでした。そ
のときは、私が人の顔をしっかり覚えているのかをその知人が試しているのか、それとも私の物
覚えの悪さをからかっているのかと曲解してしまったのですが、本書を読んでやっと腑に落ちた
感じがしました。
2012年9月25日に日本でレビュー済み
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全体的な内容としては、視覚優位と聴覚優位という二つのタイプをあげ、それぞれの代表としてガウディとルイス・キャロルをとりあげて解説しており、とても分かりやすい内容であるし、非常に納得のいく部分も多いが、個別の議論を見てゆくと以下の点が気になる。
視覚優位のガウディはこんな特質を持っていた。こんな特質を持っていたガウディは視覚優位である。というふうに、視覚優位というタイプの説明とガウディが視覚優位であったことの論証が渾然としており、議論が堂々巡りを起こしてしまっている。言い換えるなら、議論に先だってガウディは視覚優位であると規定してしまっている。
この辺りは専門家が書いたものではないので、ある程度仕方のないことかもしれないが、新しいことを主張するにしては少し議論が乱暴すぎる。
ガウディをとにかく神格化しすぎている。著者自身と同じ視覚優位という特質を持ち、また日本では人気の高いガウディだけに感情移入しているのか、論証に先だってガウディはこんなにすごかったという神格化が行われ、そのすごさの原因は視覚優位であったことだと論じてしまっており、全体的な主張を損なってしまっている。
以上の2点を考慮に入れて、少し割り引いて読めば、なかなか示唆に富んだ内容で一読に値します。
視覚優位のガウディはこんな特質を持っていた。こんな特質を持っていたガウディは視覚優位である。というふうに、視覚優位というタイプの説明とガウディが視覚優位であったことの論証が渾然としており、議論が堂々巡りを起こしてしまっている。言い換えるなら、議論に先だってガウディは視覚優位であると規定してしまっている。
この辺りは専門家が書いたものではないので、ある程度仕方のないことかもしれないが、新しいことを主張するにしては少し議論が乱暴すぎる。
ガウディをとにかく神格化しすぎている。著者自身と同じ視覚優位という特質を持ち、また日本では人気の高いガウディだけに感情移入しているのか、論証に先だってガウディはこんなにすごかったという神格化が行われ、そのすごさの原因は視覚優位であったことだと論じてしまっており、全体的な主張を損なってしまっている。
以上の2点を考慮に入れて、少し割り引いて読めば、なかなか示唆に富んだ内容で一読に値します。
2014年5月4日に日本でレビュー済み
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たぶんこの本を読んだ人のなかには、子どものころから他人とものの見え方がちがうと思った人がいるのではないかと思います。
ずばり、私はこの本に書かれているタイプ(聴覚優位)そのものだったと知り、ずいぶんとびっくりしました。
絵を描くと、遠近感のないものになってしまう。人の顔がなかなか覚えられない。・・・などなど。そのままです。
聴覚優位の相貌失認の人は、パーティのような会場で非常に困ります。話しかけられて、相手が誰がわからないとか、顔を覚えられないので
こちらから話かけられないとか。で、結局、無愛想とか、いやにおとなしいとかザンネンな印象を他人に与えてしまうんです。
このためか、ガウディのような視覚優位の人にあこがれてきました。
一度会っただけで、その後も顔と名前を一致させられる人は、私にとって尊敬そのものです。
でも、ルイス・キャロルといかないまでも、聴覚優位にはそれなりに良さもありそうな気になれました。
だからとてもいい本だと思います。
ずばり、私はこの本に書かれているタイプ(聴覚優位)そのものだったと知り、ずいぶんとびっくりしました。
絵を描くと、遠近感のないものになってしまう。人の顔がなかなか覚えられない。・・・などなど。そのままです。
聴覚優位の相貌失認の人は、パーティのような会場で非常に困ります。話しかけられて、相手が誰がわからないとか、顔を覚えられないので
こちらから話かけられないとか。で、結局、無愛想とか、いやにおとなしいとかザンネンな印象を他人に与えてしまうんです。
このためか、ガウディのような視覚優位の人にあこがれてきました。
一度会っただけで、その後も顔と名前を一致させられる人は、私にとって尊敬そのものです。
でも、ルイス・キャロルといかないまでも、聴覚優位にはそれなりに良さもありそうな気になれました。
だからとてもいい本だと思います。
2010年12月29日に日本でレビュー済み
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「天才」と呼ばれる人は世間並みの人間とはどこか違っている。
その違いの源泉はどこにあるのか。近年は能力の優劣だけでなく、その特性ということにも注目が集まっている。
誰それはどうもアスペルガー症候群であったとか、AD/HDの要素があったとか。ある種の偏りがあったからこそ他の人が気付かないようなことに気付き、出来ないようなことが出来たという話である。
設計士である著者自身も視覚優位の認知特性を持っている。そしてその認知と特性を職業生活に活かし、活躍している。
これまで医者や研究者が観察して記述したものはいろいろあった。そういった専門家による観察や考察にも十分価値はあるが、どこか外部からのまなざし、共感はあっても対象についての記述という印象は否めなかった。やはり当事者でないとわからないこともあるし、感じることの出来ないこともある。
また、単なる経験談ではないことにも注目である。当事者が自分の経験を語るという形式の著書もこれまで多く出版されてきた。それも十分に価値があるがやはりある個人の経験という域を出ない部分があることも事実である。
だが、本書は著者が自分の経験や体験を語ることが目的なのではなく、視覚優位・聴覚優位という認知特性について当事者だからこそわかる視点を持って考察することが本書の特色なのである。当事者と研究者の協力によってこれまでにない新たな見解や考察が生み出されている。
確かにダイレクトコミュニケーションのようなオカルトチックなちょっと怪しげな話もあるが、こういった話は当事者でないとわからない感覚であろう。また視覚優位・聴覚優位といったことはこれまでも数多く目にしてきたが、視覚優位でも時間の概念も加えた映像思考、色優位性と線優位性、客体視などの分析を見るとこれまでの認知についての理解が如何に浅薄であった思い知らされた。視覚優位と時間概念という話は自閉症者の認知理解にも役立つであろう。
本書では特異な認知を持った偉人としてガウディとルイスキャロルを中心に取り上げている。聴覚優位のルイスキャロルについての記述はまったく異なった認知様式を持つ他者を何とかして理解しようとする著者の考察が面白い。自分と同じ視覚優位のガウディについての記述には親近感を感じさせる部分が多いが、ルイスキャロルについての記述もタイプは違えども世界への理解に対して困難さを持ち、その困難さ故に偉大な仕事を成し遂げた先人への共感を感じさせるものとなっている。時として客観性を欠くような部分もあるが、だからこそ文章に力を持たせているともいえる。
帯には「10年に1冊の画期的な人智科学の登場である」と書かれている。
大袈裟な文句にも見えるが、それぐらいの価値はある書である。
当事者研究としても、認知についての研究としても第一級の価値をもった書である。
その違いの源泉はどこにあるのか。近年は能力の優劣だけでなく、その特性ということにも注目が集まっている。
誰それはどうもアスペルガー症候群であったとか、AD/HDの要素があったとか。ある種の偏りがあったからこそ他の人が気付かないようなことに気付き、出来ないようなことが出来たという話である。
設計士である著者自身も視覚優位の認知特性を持っている。そしてその認知と特性を職業生活に活かし、活躍している。
これまで医者や研究者が観察して記述したものはいろいろあった。そういった専門家による観察や考察にも十分価値はあるが、どこか外部からのまなざし、共感はあっても対象についての記述という印象は否めなかった。やはり当事者でないとわからないこともあるし、感じることの出来ないこともある。
また、単なる経験談ではないことにも注目である。当事者が自分の経験を語るという形式の著書もこれまで多く出版されてきた。それも十分に価値があるがやはりある個人の経験という域を出ない部分があることも事実である。
だが、本書は著者が自分の経験や体験を語ることが目的なのではなく、視覚優位・聴覚優位という認知特性について当事者だからこそわかる視点を持って考察することが本書の特色なのである。当事者と研究者の協力によってこれまでにない新たな見解や考察が生み出されている。
確かにダイレクトコミュニケーションのようなオカルトチックなちょっと怪しげな話もあるが、こういった話は当事者でないとわからない感覚であろう。また視覚優位・聴覚優位といったことはこれまでも数多く目にしてきたが、視覚優位でも時間の概念も加えた映像思考、色優位性と線優位性、客体視などの分析を見るとこれまでの認知についての理解が如何に浅薄であった思い知らされた。視覚優位と時間概念という話は自閉症者の認知理解にも役立つであろう。
本書では特異な認知を持った偉人としてガウディとルイスキャロルを中心に取り上げている。聴覚優位のルイスキャロルについての記述はまったく異なった認知様式を持つ他者を何とかして理解しようとする著者の考察が面白い。自分と同じ視覚優位のガウディについての記述には親近感を感じさせる部分が多いが、ルイスキャロルについての記述もタイプは違えども世界への理解に対して困難さを持ち、その困難さ故に偉大な仕事を成し遂げた先人への共感を感じさせるものとなっている。時として客観性を欠くような部分もあるが、だからこそ文章に力を持たせているともいえる。
帯には「10年に1冊の画期的な人智科学の登場である」と書かれている。
大袈裟な文句にも見えるが、それぐらいの価値はある書である。
当事者研究としても、認知についての研究としても第一級の価値をもった書である。