世界はどうなっているのか、人はどういきるべきか。
こうした謎に果敢に取り組み、証明せずとも何らかの回答を得たように思える本。少なくとも著者は、「西洋哲学にしばしの休憩を与える」ことに成功したように見える。遊戯で世界を串指しにしながら。
そして人は再び、解き得ぬ謎を探す衝動に突き動かされて旅を始める。
この本は世界と精神の見取り図だ。著者は、博物誌的に物事を解説し、この世界に一応の印をつけた。
続く旅人は、この目印をたよりにもっと遠くへ行くことができるだろう。
内容は斬新で、思考実験かと思われる部分も多い。世界とはこんな風に認識できるのかと地上に暮らす人々は、さぞ驚くだろう。
著者は精神の満つる場所ならどこへでも自由に旅をできる人なのだから、視点が違うようだ。
巻末の膨大な参考文献は、おそらく著者から私たちへのプレゼントだろう。難解な本は極力はじかれて、哲学や民俗学、音楽、文学など本書を構成するピースがきら星のごとく並んでいる。いずれも良書の誉れが高い本たちである。
本書を読むのはガイド付きの冒険を楽しむようなもの。たった三行の節なのに、平穏な表現なのに、無駄なく美しく詩的な文字が組まれている。読了後、今度は自分の言葉で世界を見て表したくなるから不思議だ。
今年読んだ本の中でダントツの一位。
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遊戯哲学博物誌 なにもかも遊び戯れている 単行本(ソフトカバー) – 2017/8/30
木村 洋平
(著)
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この本は、「遊戯」をキーワードとして哲学の全体を再構築する。古代ギリシア哲学を中心に西洋思想の伝統を受け継ぎ、「世界」と「倫理」という二大テーマについて思考する。その回りに論理、言葉、幸福、生命、共同体といったテーマが配置される。全編には古今東西のさまざまなエピソードが「博物誌」として散りばめられ、それらを足がかりに肯定的で喜ばしい世界像に至る。愉しい教養をもとに自由自在な境地を示す知の冒険へ出かけよう!
- 本の長さ240ページ
- 言語日本語
- 出版社はるかぜ書房
- 発売日2017/8/30
- 寸法21 x 15 x 1.4 cm
- ISBN-104990850815
- ISBN-13978-4990850814
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商品の説明
出版社からのコメント
推薦文:「本書は、斬新な世界像を提示する哲学の正統な後継である。軽やかな戯れと、実に真剣な世界探訪の精神がともに根底に流れている。」ーー廣野喜幸(東京大学教授 科学史・科学哲学)
著者について
【著者】木村洋平 1983年生まれ。東京大学 教養学部 基礎科学科(科学史・科学哲学)卒業。和光大学大学院 社会文化総合研究科修了。訳書にヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(2007)。著書に『『論理哲学論考』対訳・注解書』(2010)、『珈琲と吟遊詩人:不思議な楽器リュートを奏でる』(2011)。いずれも社会評論社より刊行。17歳の頃、哲学に触れて20歳の頃から10年余りをかけて本書を完成させる。
登録情報
- 出版社 : はるかぜ書房 (2017/8/30)
- 発売日 : 2017/8/30
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 240ページ
- ISBN-10 : 4990850815
- ISBN-13 : 978-4990850814
- 寸法 : 21 x 15 x 1.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 875,878位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,014位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 2,740位西洋思想
- - 104,879位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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作家、ライター。哲学、西洋文化史、物語創作。
東京大学 教養学部 科学史・科学哲学学科卒業。和光大学大学院 社会文化総合研究科修了。
訳書に、ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』。その後、解説書として『『論理哲学論考』対訳・注解書』。また、西洋文化史として『珈琲と吟遊詩人 不思議な楽器リュートを奏でる』を刊行。いずれも社会評論社より。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年9月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
遊戯に関する思索がゲーム攻略本のように書かれていて、ふむふむと読んでしまいました。
中学生からの哲学入門書にも適しているかもしれないと思いました。
文字間が詰まっているのと、紙が薄くて裏のページが透けているので、申し訳ないですが、☆ひとつ減点です。
優しい言葉で書かれていますが、言葉がメタファーのように、著者の思想を伝えてくるのではないかと思います。
それは、読み手の解釈次第なのかもしれませんが。
この本には、たくさんの解釈が生まれ、おのおのがもつ解釈ひとつひとつを持ち寄り、語られる場が生まれるとよいと思います。
それには、百人一首カルタやタロットカードのような構成にしても面白いのではないかと思いました。
哲学カフェをしている知人がいるので、ぜひこの本をすすめたいと思います。
中学生からの哲学入門書にも適しているかもしれないと思いました。
文字間が詰まっているのと、紙が薄くて裏のページが透けているので、申し訳ないですが、☆ひとつ減点です。
優しい言葉で書かれていますが、言葉がメタファーのように、著者の思想を伝えてくるのではないかと思います。
それは、読み手の解釈次第なのかもしれませんが。
この本には、たくさんの解釈が生まれ、おのおのがもつ解釈ひとつひとつを持ち寄り、語られる場が生まれるとよいと思います。
それには、百人一首カルタやタロットカードのような構成にしても面白いのではないかと思いました。
哲学カフェをしている知人がいるので、ぜひこの本をすすめたいと思います。
2019年6月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
1問1答のような、1エントリー毎の事典のようで、テンポ感を持って読み進めるのが難しく、数ページで断念してしまった。もう少し対話やストーリー性のある表現のほうが哲学系の本は読みやすいと思うのは、私が哲学書を読み慣れているインテリオタクではないせいだろうか。入門書としては入りづらく、逆に哲学を深く思考したい人にはひとつひとつの説明である文字量が少なすぎて浅いのではないかと思ってしまった。
2018年2月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
筆者とは一度会ったことがあり、それを踏まえてのレビューとなることをご容赦願いたい。
彼は世の中の事象を「遊び戯れている」という前提に立ち、これもだね、あれもだね、というように考え方を紹介してゆく。なるほどそうか、そういう見方もあるか、と思わせる。どんな本かと訊かれれば、デカルトやヴィトゲンシュタインを連想すれば、わかりやすいだろうか?
何かと哲学は「○○はどうおもうか?」「××とはなんだろうか?」と凝り固まった印象を受けるが、この本はそうではなく、むしろ逆の立ち位置である。言葉の意味や概念を整理してゆく。とても読みやすい本となっている。知らないこともたくさん書いてあった。哲学入門としても良い書籍ではないかとおもう。著者のこれからを期待したい。
彼は世の中の事象を「遊び戯れている」という前提に立ち、これもだね、あれもだね、というように考え方を紹介してゆく。なるほどそうか、そういう見方もあるか、と思わせる。どんな本かと訊かれれば、デカルトやヴィトゲンシュタインを連想すれば、わかりやすいだろうか?
何かと哲学は「○○はどうおもうか?」「××とはなんだろうか?」と凝り固まった印象を受けるが、この本はそうではなく、むしろ逆の立ち位置である。言葉の意味や概念を整理してゆく。とても読みやすい本となっている。知らないこともたくさん書いてあった。哲学入門としても良い書籍ではないかとおもう。著者のこれからを期待したい。
2017年9月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本を開いてみると、タイトルの意味がよく分かる。
独特の構成だが、哲学初心者でも読み進めるごとに引き込まれる。
短篇の集合体のようなものなので、好きなページを開いて自由に読むのも良い。
独特の構成だが、哲学初心者でも読み進めるごとに引き込まれる。
短篇の集合体のようなものなので、好きなページを開いて自由に読むのも良い。
2017年10月29日に日本でレビュー済み
レビューの前に、まず評者が著者の友人であること、また出版社の社長とも親しいことをあらかじめお断りさせていただく。
本書は「遊戯」という概念で、もろもろの項目を、説明し尽くす。まさに「遊戯、哲学、博物誌」である。
哲学の学派に詳しいだけの学者は、幾分かの敬意と、その何倍もの皮肉を込めて「哲学学者」と言われる。
物知りで満足している人間は、その先の「なぜ」に答を出すことがない。「物知りですね!」というのは哲学者に対する最大級の侮辱だ。
(著者を含め、哲学者は往々にしてたいへんな物知りではあるが、哲学の目指すものはそれ自体ではない)
本書は哲学史を語るでもなし、哲学者の学説を解説するでもなし、いわゆる「哲学入門書」とは全く異なる。
書かれているのは、著者自身による哲学、つまり自分の足で踏破した「知」の旅路だ(そしてなんと、その旅には結末がある!)。
得られるのは「哲学学の知識」ではなく「知の海図」。断片的な知識が一個の人間の世界に組み込まれる過程と結果である。
時間、古代ギリシア、サン族、オオアリクイ、あやとり、千年前のノルウェー、ナマケモノとハチドリ、ミャンマーの象使い、バターたっぷりのブリオッシュ、マリモ、ウパニシャッド、友情、そしてわたしたち。
これらの内容は三行一連の詩のような文体で表現され、それは我々を少しずつ分解し、また再構成する。
ページを繰るたびに精神が新しくなる。知的興奮はおそろしく加速する。
本書を読み終えて顔を上げた時、世界はそれまでと全く違うものに見えるはずだ。
評者も一個の人間として、生涯にこんな冒険がしたい。世界一たのしく、宇宙一おそろしい旅がしてみたい。
著者の友人として、また一人の本好きとして、一読を心よりお薦めする。
本書は「遊戯」という概念で、もろもろの項目を、説明し尽くす。まさに「遊戯、哲学、博物誌」である。
哲学の学派に詳しいだけの学者は、幾分かの敬意と、その何倍もの皮肉を込めて「哲学学者」と言われる。
物知りで満足している人間は、その先の「なぜ」に答を出すことがない。「物知りですね!」というのは哲学者に対する最大級の侮辱だ。
(著者を含め、哲学者は往々にしてたいへんな物知りではあるが、哲学の目指すものはそれ自体ではない)
本書は哲学史を語るでもなし、哲学者の学説を解説するでもなし、いわゆる「哲学入門書」とは全く異なる。
書かれているのは、著者自身による哲学、つまり自分の足で踏破した「知」の旅路だ(そしてなんと、その旅には結末がある!)。
得られるのは「哲学学の知識」ではなく「知の海図」。断片的な知識が一個の人間の世界に組み込まれる過程と結果である。
時間、古代ギリシア、サン族、オオアリクイ、あやとり、千年前のノルウェー、ナマケモノとハチドリ、ミャンマーの象使い、バターたっぷりのブリオッシュ、マリモ、ウパニシャッド、友情、そしてわたしたち。
これらの内容は三行一連の詩のような文体で表現され、それは我々を少しずつ分解し、また再構成する。
ページを繰るたびに精神が新しくなる。知的興奮はおそろしく加速する。
本書を読み終えて顔を上げた時、世界はそれまでと全く違うものに見えるはずだ。
評者も一個の人間として、生涯にこんな冒険がしたい。世界一たのしく、宇宙一おそろしい旅がしてみたい。
著者の友人として、また一人の本好きとして、一読を心よりお薦めする。
2017年11月10日に日本でレビュー済み
『遊戯哲学博物誌』は、ふつうの意味での哲学書ではない。だから、本書を哲学書だと思って開いた人は、戸惑い、おどろくかもしれない。
本書を開くと、断章の形式で、さまざまな考えが「博物学」的に並べられている。
たとえば、こんな具合だ。「た/3 カナダ沿岸のスアン・グアイという小島に住んだ、ハイダ族の言い伝えによれば、「ワタリガラスがハマグリに声を掛けると、ハマグリが開いて最初の人間が生れた」という」
この断章は、「物語」について述べた章の中で、「自分たちはどこから来たのか」という問いに答えようとする物語の一例として挙げられているものだ。
これらの断章(著者は「節」と呼んでいる)は、ときに他の断章とゆるくつながり、ときに離れ小島のようにひとり静かにたたずんでいる。それぞれの断章で述べられていることがらは、おどろくほど多岐にわたる。アメリカ先住民の戦いが語られ、和歌が詠まれ、グンタイアリの生態が述べられ、イス取りゲームが遊ばれ、そして古代の哲学者が卓見を披露する。そしてその間で、著者が静かに自分の考えを述べていく。
しかし、この万華鏡のような「博物誌」は、著者にとっては、哲学を記述するための確信犯的な形式であるに違いない。著者は、本書でこう述べている。学問は体系的な「理論」を持とうとするが、哲学や思想には理論がない。また、著者はこうも述べる。「思想を受容するひとは、ただ「そのように見る」のであって、それが正しいからそう見るわけではない」。だから、この本は、ある考えが「なぜ正しいのか」が、ひとつの「論」として、証されていくという形をとってはいない。
別の箇所で、著者はこう述べてもいる。精神とは、「要素」と「つながり」のネットワークである。横に、芯・りんご・えんぴつ・赤・果物・ぶどう……などが書きいれられた○が、線でつなげられた図が載っている。一方で、本書はまさに「要素」と「つながり」のネットワークという形式をとっている。だとすれば、この『遊戯哲学博物誌』を読むという行為は、著者の精神世界に分け入る行為にほかならない。
本書の冒頭で提示される「要素」は、「あらゆる現象は遊戯である」という衝撃的なものだ。
あずまきよひこのマンガ、『よつばと!』は、少女「よつば」と、よつばの里親である「とーちゃん」の、「遊び」に満ちた日々を描いた作品だ。『よつばと!』の12巻は、キャンプ場の朝、よつばがとーちゃんに「きょうは なにしてあそぶ?」と問いかけるコマで終わる。発売時、このコマを見た読者の多くは、最終回ではないかと思い、インターネットでは騒ぎになった。
『遊戯哲学博物誌』がいうとおり、すべては遊戯なのだとしたら、すべての朝は、「きょうは なにしてあそぶ?」という問いとともにはじまるのだろうと、私は思う。それは、すてきなことだ。
前述の通り、本書はかたくるしい「哲学書」ではない。本書は、著者の考えの(精神の)博物館だ。「なにもかも遊び戯れている」という副題がつけられたこの本を開き、著者の頭の中を、そぞろに歩いてみよう。順番に入り口から歩いてもいいし。ぱっと開いたページを散歩してもいい。読み終わったら本を閉じて、ホンモノの散歩に出かけたって、きっと、いいのだ。
本書を開くと、断章の形式で、さまざまな考えが「博物学」的に並べられている。
たとえば、こんな具合だ。「た/3 カナダ沿岸のスアン・グアイという小島に住んだ、ハイダ族の言い伝えによれば、「ワタリガラスがハマグリに声を掛けると、ハマグリが開いて最初の人間が生れた」という」
この断章は、「物語」について述べた章の中で、「自分たちはどこから来たのか」という問いに答えようとする物語の一例として挙げられているものだ。
これらの断章(著者は「節」と呼んでいる)は、ときに他の断章とゆるくつながり、ときに離れ小島のようにひとり静かにたたずんでいる。それぞれの断章で述べられていることがらは、おどろくほど多岐にわたる。アメリカ先住民の戦いが語られ、和歌が詠まれ、グンタイアリの生態が述べられ、イス取りゲームが遊ばれ、そして古代の哲学者が卓見を披露する。そしてその間で、著者が静かに自分の考えを述べていく。
しかし、この万華鏡のような「博物誌」は、著者にとっては、哲学を記述するための確信犯的な形式であるに違いない。著者は、本書でこう述べている。学問は体系的な「理論」を持とうとするが、哲学や思想には理論がない。また、著者はこうも述べる。「思想を受容するひとは、ただ「そのように見る」のであって、それが正しいからそう見るわけではない」。だから、この本は、ある考えが「なぜ正しいのか」が、ひとつの「論」として、証されていくという形をとってはいない。
別の箇所で、著者はこう述べてもいる。精神とは、「要素」と「つながり」のネットワークである。横に、芯・りんご・えんぴつ・赤・果物・ぶどう……などが書きいれられた○が、線でつなげられた図が載っている。一方で、本書はまさに「要素」と「つながり」のネットワークという形式をとっている。だとすれば、この『遊戯哲学博物誌』を読むという行為は、著者の精神世界に分け入る行為にほかならない。
本書の冒頭で提示される「要素」は、「あらゆる現象は遊戯である」という衝撃的なものだ。
あずまきよひこのマンガ、『よつばと!』は、少女「よつば」と、よつばの里親である「とーちゃん」の、「遊び」に満ちた日々を描いた作品だ。『よつばと!』の12巻は、キャンプ場の朝、よつばがとーちゃんに「きょうは なにしてあそぶ?」と問いかけるコマで終わる。発売時、このコマを見た読者の多くは、最終回ではないかと思い、インターネットでは騒ぎになった。
『遊戯哲学博物誌』がいうとおり、すべては遊戯なのだとしたら、すべての朝は、「きょうは なにしてあそぶ?」という問いとともにはじまるのだろうと、私は思う。それは、すてきなことだ。
前述の通り、本書はかたくるしい「哲学書」ではない。本書は、著者の考えの(精神の)博物館だ。「なにもかも遊び戯れている」という副題がつけられたこの本を開き、著者の頭の中を、そぞろに歩いてみよう。順番に入り口から歩いてもいいし。ぱっと開いたページを散歩してもいい。読み終わったら本を閉じて、ホンモノの散歩に出かけたって、きっと、いいのだ。
2018年12月26日に日本でレビュー済み
内容が明るくて好み。
専門用語が出てこないので、理解だけに必死にならず、考えながら読めた。
書き加えたり、内容をいじって遊んでみたい。電子ファイルほしい。あるわけないけど。
追)Amazon様
この本注文するも納期連絡が1週間以上来ず、たまたま恵まれた別ルートで購入しました、すみません。こういう隠れた良書を買うのはAmazonが頼りなので、これからもよろしくお願いします。
専門用語が出てこないので、理解だけに必死にならず、考えながら読めた。
書き加えたり、内容をいじって遊んでみたい。電子ファイルほしい。あるわけないけど。
追)Amazon様
この本注文するも納期連絡が1週間以上来ず、たまたま恵まれた別ルートで購入しました、すみません。こういう隠れた良書を買うのはAmazonが頼りなので、これからもよろしくお願いします。