p.p.349-375「解説」では、竹内芳郎氏によって、本書の章ごとというか、節ごとというか、項というか、逐次的に解説されている。
まずはこちらからざっと読んでから本文をゆったり読むのもなかなかよいかもしれない。
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知覚の現象学 1 単行本 – 1967/12/1
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本書はフランス・レジスタンス運動のなかから生まれた知的記念碑の最大のものの一つであり、パリ解放後1945年に公刊、戦後思想の根底に深い影響力を与え、さらに現在及び未来にたいする力強い放射力は測りがたいものがある。メルロ=ポンティにとって、生きられ、経験された世界にふさわしい記述は、西欧の二大思想潮流である経験主義でも主知主義でも与えることができなかったものである。経験主義は、著者によれば、哲学における原子として、心理学における行動主義として現われた。主知主義は著者においては、哲学上の観念論、心理学における内省主義であった。
現象学は、世界の神秘と理性の神秘とを開示することを任務とする(グスドルフ)。世界や歴史の意味をその生れ出づる状態において捉えようとする意志において、その注意と驚異において、意識化のきびしい要求において、現象学はまさにバルザック、ヴァレリー、セザンヌの作品と同一のジャンルに属するものであり、同じような不断の辛苦なのであった。実存の両義性にもとづく生きられた緊張の世界は、著者の極度に繊細で、柔軟な記述によって、はじめて我々に身近かなものとなったのである。全2冊。
現象学は、世界の神秘と理性の神秘とを開示することを任務とする(グスドルフ)。世界や歴史の意味をその生れ出づる状態において捉えようとする意志において、その注意と驚異において、意識化のきびしい要求において、現象学はまさにバルザック、ヴァレリー、セザンヌの作品と同一のジャンルに属するものであり、同じような不断の辛苦なのであった。実存の両義性にもとづく生きられた緊張の世界は、著者の極度に繊細で、柔軟な記述によって、はじめて我々に身近かなものとなったのである。全2冊。
- 本の長さ392ページ
- 言語日本語
- 出版社みすず書房
- 発売日1967/12/1
- ISBN-104622019337
- ISBN-13978-4622019336
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登録情報
- 出版社 : みすず書房 (1967/12/1)
- 発売日 : 1967/12/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 392ページ
- ISBN-10 : 4622019337
- ISBN-13 : 978-4622019336
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上位レビュー、対象国: 日本
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2020年10月17日に日本でレビュー済み
鷲田清一氏もいうように、「メルロ=ポンティがはたして現象学者であったと言っていいのかどうかさえも、問わなければならなくなっている(『メルロ=ポンティ 可逆性』講談社学術文庫 p.20)」というように、後期のメルロ=ポンティは学派にとらわれることなく独自の領域を切り開いていった。
しかし、本書『知覚の現象学』は初期の段階にあって、フッサールの現象学を拠り所とする時期だった。そのことは序文に宣言されている。しかし、序文では現象学の観念論的な部分が、既に取り除かれていた。
【どうしてルビンの壺の絵を使わなかったのか】
本書では、要素の合計以上が全体を構成することを拠り所に、要素主義を批判したゲシュタルト心理学を援用して、「図」と「地」の不思議を解釈している。通常、「図」と「地」はルビンの壺の絵を使うのだが、何故だろうか。
ルビンの壺ならば、「図」を注視すれば壺に見え、「地」に注目すれば人の横顔に見えると説明される。これは主観が壺や横顔という概念を既に持っていて、これを対象に当てはめていることになる。日常世界での認識の説明としては、この説明は妥当だろう。しかし、ある対象、例えば言葉によって新しい思考が導かれたり、次の言葉を続けたりすることができるという生成の体験を説明できない。メルロ=ポンティは、このような通常の説明になることを避けたのだ。
【神話的な認識】
デカルト以来の、意識と物、主観と客観の二分法では「現象」は説明できないのだ。また、ヘーゲルの「即自」と「対自」の発達論でも説明できない、「現象」をメルロ=ポンティは説明しようとした。(「即自」:他とのかかわりによって規定されない未発達な段階で、自己自身への反省的関係を欠く。「対自」:「対他」を経て自己自身と関係することによって、自己の内なる即自的理性を取り戻し自立すること)
そして、一切の主観に先行する原初の世界を描こうとして、これだけ分厚い本になってしまった。幻影肢などを持ち出して、意識でも物でもない存在、「即自」でも「対自」でもない存在を描こうとした。ただ、浅学の者にはなかなか理解が難しい。いっそのこと、「この世の始めはカオスであった。そこには主観も客観もなかった。あるとき悪魔が現れ、君は何者かと問うた。その時はたと自分の存在に気づき、主観が生まれた。」などといった、神話的な記述でもよかったのではないか。何故なら言葉には概念や意味を生成する力があるからだ。
しかし、本書でメルロ=ポンティは、世界の生成の場を「知覚」に求めたのだ。
しかし、本書『知覚の現象学』は初期の段階にあって、フッサールの現象学を拠り所とする時期だった。そのことは序文に宣言されている。しかし、序文では現象学の観念論的な部分が、既に取り除かれていた。
【どうしてルビンの壺の絵を使わなかったのか】
本書では、要素の合計以上が全体を構成することを拠り所に、要素主義を批判したゲシュタルト心理学を援用して、「図」と「地」の不思議を解釈している。通常、「図」と「地」はルビンの壺の絵を使うのだが、何故だろうか。
ルビンの壺ならば、「図」を注視すれば壺に見え、「地」に注目すれば人の横顔に見えると説明される。これは主観が壺や横顔という概念を既に持っていて、これを対象に当てはめていることになる。日常世界での認識の説明としては、この説明は妥当だろう。しかし、ある対象、例えば言葉によって新しい思考が導かれたり、次の言葉を続けたりすることができるという生成の体験を説明できない。メルロ=ポンティは、このような通常の説明になることを避けたのだ。
【神話的な認識】
デカルト以来の、意識と物、主観と客観の二分法では「現象」は説明できないのだ。また、ヘーゲルの「即自」と「対自」の発達論でも説明できない、「現象」をメルロ=ポンティは説明しようとした。(「即自」:他とのかかわりによって規定されない未発達な段階で、自己自身への反省的関係を欠く。「対自」:「対他」を経て自己自身と関係することによって、自己の内なる即自的理性を取り戻し自立すること)
そして、一切の主観に先行する原初の世界を描こうとして、これだけ分厚い本になってしまった。幻影肢などを持ち出して、意識でも物でもない存在、「即自」でも「対自」でもない存在を描こうとした。ただ、浅学の者にはなかなか理解が難しい。いっそのこと、「この世の始めはカオスであった。そこには主観も客観もなかった。あるとき悪魔が現れ、君は何者かと問うた。その時はたと自分の存在に気づき、主観が生まれた。」などといった、神話的な記述でもよかったのではないか。何故なら言葉には概念や意味を生成する力があるからだ。
しかし、本書でメルロ=ポンティは、世界の生成の場を「知覚」に求めたのだ。
2020年6月14日に日本でレビュー済み
表現主義エッセイ作品です。
文学作品のように読むことができます。ロラン・バルトも おすすめです。
文学作品のように読むことができます。ロラン・バルトも おすすめです。
2017年10月20日に日本でレビュー済み
どこまでいっても、不可知の現象が存在する、というコトに、謙虚な姿勢に基づいた論考と、知覚しました、
2015年2月10日に日本でレビュー済み
『行動の構造』とか既に持っていたのですが、まだメルロ・ポンティーを僕が見る時の様相が、「何かあるかも」モードに入っていないので、これもほとんど読んでいません。何かあるかも、と思えないのでは、分からないのに読むモチベーションが持てないので。
『序文
現象学とは何か。フッサールの最初期の諸著作から半世紀も経ってなおこんな問いを発せねばならぬとは、いかにも奇妙なことに思えるかもしれない。それにもかかわらず、この問いはまだ解決からはほど遠いのだ。現象学とは本質(essences)の研究であって、一切の問題は、現象学によれば、けっきょくは本質を定義することに帰着する。例えば、知覚の本質とか、意識の本質とか、といった具合である。ところが現象学とは、また同時に、本質を存在(existence)へとつれ戻す哲学でもあり、人間と世界とはその<事実性>から出発するのでなければ了解できないものだ、と考える哲学でもある。それは〔一方では*訳者による補足〕、人間と世界とを了解するために自然的態度の諸定立を中止して置くような超越論的〔先験的〕哲学であるが、しかしまた〔他方では〕、世界は反省以前に、廃棄できない現前としていつも<すでにそこに>存るとする哲学でもあり、その努力の一切は、世界とのあの素朴な接触をとり戻すことによって、最後にそれに一つの哲学的規約をあたえようとするものである。
・・・』
(僕が『存在と無』のレビューで書いた、「人間は生命体であるということを思いだすこと、けれどそれでいてただの生命体ではなく、思考という形ではないが自己に対している」というのと関連させて読んでみてください。生命体であるというのが「世界とのあの素朴な接触をとり戻す」、それでも自己に対しているというのが「現象学は本質の研究」)
『序文
記述することが問題であって、説明したり分析したりすることは問題ではない。フッサールが創成期の現象学にあたえた、<記述的心理学>であれとか、<事物そのものへ>帰れとかというあの最初の指令は、まず何よりも科学の否認であった。・・・
・・・
・・・
以上の〔思惟〕運動は、意識への観念論的な帰還なぞとは絶対に別のものであって、純粋記述の要請は、科学的説明の方法を排除すると同時に、また〔デカルトやカントなどの〕反省的分析の方法をも排除する。
・・・
・・・
世界というものは、それについて私のなし得る一切の分析に先立って既にそこに在るものであって、それを一連の綜合作用から派生させようとするのは不自然であろう。なぜなら、綜合作用はまず諸感覚を結び合わせ、つづいて対象の展望的な諸断面を結び合わせようとするけれども、しかしほんとうは、その双方ともまさしく分析の所産でしかなく、分析に先立ってすでに実現されているはずもないからである。・・・
・・・
・・・』
(フッサールの『イデーン』は、まず「本質直観」というのの記述から始まっています。本質直観というのは、カントの「感覚の多様を悟性が統一する」とかいうのを知っていないと、何が言いたいのか全然わからないと僕は思うのですが、カント的なすべてをバラバラに認識してしまって間違いやすい感覚を、悟性が統一して正しく認識する、というような大昔からずっと続いている短絡的な、肉体と精神の二元論的考え方を、フッサール派は否定しているのだと僕は勝手に解釈しています。
生命という点では動物と同じでどうしようもないが、人間には精神(思考)があるから大丈夫、というようなしょうもない人間観。
まあ、フッサールが何をエポケーして何を記述しているか、まだ、読んでも僕には全然理解できないのですが(一応『論理学研究』全巻まで揃えましたが)、ただ記述というのには、思考の能力が必要なのじゃないということは分かります。観察して記述するのですから、そのために必要なのは、ただ観察できるところまで動いていくということです。『イデーン』には地平という言葉がよく出てくるように思うのですが、言うまでもなく日本にいては、ブラジルのことはどうころんでも観察し記述できません。ブラジルまで行かないでも、ちょっと先を記述するのにもしばらくの間、新しい地平が開けてくるまで、同じ景色の中で退屈に耐え移動していく辛抱が必要になります。
合理主義者というのは日本にいるまま、持っている望遠鏡の性能をどんどん上げていけば、ブラジルのことが分かると信じ込んでいるような人たち。)
『序文
現象学とは何か。フッサールの最初期の諸著作から半世紀も経ってなおこんな問いを発せねばならぬとは、いかにも奇妙なことに思えるかもしれない。それにもかかわらず、この問いはまだ解決からはほど遠いのだ。現象学とは本質(essences)の研究であって、一切の問題は、現象学によれば、けっきょくは本質を定義することに帰着する。例えば、知覚の本質とか、意識の本質とか、といった具合である。ところが現象学とは、また同時に、本質を存在(existence)へとつれ戻す哲学でもあり、人間と世界とはその<事実性>から出発するのでなければ了解できないものだ、と考える哲学でもある。それは〔一方では*訳者による補足〕、人間と世界とを了解するために自然的態度の諸定立を中止して置くような超越論的〔先験的〕哲学であるが、しかしまた〔他方では〕、世界は反省以前に、廃棄できない現前としていつも<すでにそこに>存るとする哲学でもあり、その努力の一切は、世界とのあの素朴な接触をとり戻すことによって、最後にそれに一つの哲学的規約をあたえようとするものである。
・・・』
(僕が『存在と無』のレビューで書いた、「人間は生命体であるということを思いだすこと、けれどそれでいてただの生命体ではなく、思考という形ではないが自己に対している」というのと関連させて読んでみてください。生命体であるというのが「世界とのあの素朴な接触をとり戻す」、それでも自己に対しているというのが「現象学は本質の研究」)
『序文
記述することが問題であって、説明したり分析したりすることは問題ではない。フッサールが創成期の現象学にあたえた、<記述的心理学>であれとか、<事物そのものへ>帰れとかというあの最初の指令は、まず何よりも科学の否認であった。・・・
・・・
・・・
以上の〔思惟〕運動は、意識への観念論的な帰還なぞとは絶対に別のものであって、純粋記述の要請は、科学的説明の方法を排除すると同時に、また〔デカルトやカントなどの〕反省的分析の方法をも排除する。
・・・
・・・
世界というものは、それについて私のなし得る一切の分析に先立って既にそこに在るものであって、それを一連の綜合作用から派生させようとするのは不自然であろう。なぜなら、綜合作用はまず諸感覚を結び合わせ、つづいて対象の展望的な諸断面を結び合わせようとするけれども、しかしほんとうは、その双方ともまさしく分析の所産でしかなく、分析に先立ってすでに実現されているはずもないからである。・・・
・・・
・・・』
(フッサールの『イデーン』は、まず「本質直観」というのの記述から始まっています。本質直観というのは、カントの「感覚の多様を悟性が統一する」とかいうのを知っていないと、何が言いたいのか全然わからないと僕は思うのですが、カント的なすべてをバラバラに認識してしまって間違いやすい感覚を、悟性が統一して正しく認識する、というような大昔からずっと続いている短絡的な、肉体と精神の二元論的考え方を、フッサール派は否定しているのだと僕は勝手に解釈しています。
生命という点では動物と同じでどうしようもないが、人間には精神(思考)があるから大丈夫、というようなしょうもない人間観。
まあ、フッサールが何をエポケーして何を記述しているか、まだ、読んでも僕には全然理解できないのですが(一応『論理学研究』全巻まで揃えましたが)、ただ記述というのには、思考の能力が必要なのじゃないということは分かります。観察して記述するのですから、そのために必要なのは、ただ観察できるところまで動いていくということです。『イデーン』には地平という言葉がよく出てくるように思うのですが、言うまでもなく日本にいては、ブラジルのことはどうころんでも観察し記述できません。ブラジルまで行かないでも、ちょっと先を記述するのにもしばらくの間、新しい地平が開けてくるまで、同じ景色の中で退屈に耐え移動していく辛抱が必要になります。
合理主義者というのは日本にいるまま、持っている望遠鏡の性能をどんどん上げていけば、ブラジルのことが分かると信じ込んでいるような人たち。)