著者は大学の先生であり、研究者であり、教育者としての立場から
本書で「コミュニケーション能力」や「社会性」について、現状分析し、
新たな視点(関係性)が重要であることを提起している。
本書については、これで簡潔にまとめられいるが、
上記の課題は、現在の「生きづらさ」の One of them と考える。
現在、誰もが感じている「生きづらい社会」がこのまま継続すれば、
上記の課題も解消されずに、継続して残ると感じている。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット) 単行本(ソフトカバー) – 2011/4/9
貴戸 理恵
(著)
学校や就職、仕事など様々な場面で重視される「コミュニケーション能力」。しかし人と人の関係性や場に応じて変化するコミュニケーションを、個人の能力のように考えてよいのか。そこから現在の独特の「生きづらさ」も生まれてくるのではないか。自らの不登校体験もふまえ、問題を個人にも社会にも還元せずに丁寧に論じる。
- ISBN-104002708063
- ISBN-13978-4002708065
- 出版社岩波書店
- 発売日2011/4/9
- 言語日本語
- 寸法15 x 0.5 x 21 cm
- 本の長さ64ページ
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2011/4/9)
- 発売日 : 2011/4/9
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 64ページ
- ISBN-10 : 4002708063
- ISBN-13 : 978-4002708065
- 寸法 : 15 x 0.5 x 21 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 164,211位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2021年10月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2014年10月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本の最後の方まで読むと、著者が、ご自身の研究や考えを語る意味を、ずいぶん謙虚に考えていらっしゃるんだな、と感心したしました。
この本で私が特に感激した記述は、第2章の終わりの、
不登校やひきこもりという現象は、「社会性がないのではなく、むしろ過剰なのです」
という箇所です。
私の息子も、不登校ぎみで、
学校の先生や子どもたち対する自分、自分に対する先生や子どもたち、の関係性を
過剰に意識しているからこそ学校に行けない、
というのを目の当たりにしているので、(でも、そのことが、学校の先生やその他多くの人に伝わらない)
著者のこの記述は、「わかってくれる人がいる」として、ありがたかったです。
本書の結論部分は、
第3章の終わりから、第4章の半ばにかけてだと思われますが、
そこからの引用を、中略を入れながら、以下に書きます。
・・・・・
貧困や病・障がいなどの状態にある人は「無力」であると見なされ、「一人前の人間であること」を奪われがちになります。
一方で、「一人前の人間」と見なされれば、「個人の裁量でいくらでも状態は変えられるはずなのに、そうしない、自己責任だ」ということになり、バッシングにさらされるのです。
「自分がどのような人生を歩むかを、自分でコントロールし、その結果に責任を負う」ということを、この世界に生きる多くの人が、やる、やるべきと考えている状態は、
「特殊」な人間観です。実際に、多くの人がそれをできた、してきたかというと、そうとは言えません。
不登校・ひきこもり、慢性の病や、軽度の「発達障がい」と呼ばれるもの、さまざまな嗜癖行動、広い意味での働かない・働けない状態など…あいまいな領域の浮上は、
「そもそも人は多くのことを選択できる存在ではない」とうことを示しているように思います。
私たちはほんらい、人生に「責任」を持つことなどできません。
学ぶ場や働く場を選ぶことが、本当にはどの程度可能なのでしょうか。
「学校に行き、働いて自活している人」は、じつは「聞けない」のではなく、「聞きたくない」状態にあるのではないか。
「働いて自活している人」は、「正常」と見なされ、けれども、「正常」だと見なされている人々が、問題を抱えていないわけではないでしょう。
「働いて自活している人」はしばしば、「仕事をしない・できない人」に対してバッシングを向けます。
「私には関係ない」という無関心や、「しょうがないではないか」という諦めではなく、「許せない」という憎悪です。
なぜでしょうか。
「競争から降りる」というオプションは、競争に勝ち続けているものの忍耐を侮辱するのです。
それにしても、体調や精神のバランスを崩しながら働き続けることや、先の見えない不安をやり過ごしつつ目の前の仕事に没頭することが、「適応」と呼ばれるならば、「適応」が望ましいことだと本当にいえるのでしょうか。
「生きづらい」のは、いったいどちらの側なのでしょうか。
「コミュニケーション能力」や「社会性」という言葉は、
「学校に行き、働いて自活している側」を反省的に問い直すことなく、「学校に行かない・働かない側」のみに、問題を押しつけてしまうものです。
「関係性」の問題であれば、改善の責任は「私たち」と「彼ら」の双方にあることになり、少なくとも、
'@「私たち」が「彼ら」に合わせる、'A「彼ら」が「私たち」に合わせる、'B相互に調整する、
という3つの選択肢が生まれます。
「社会から撤退する」という道だけでなく、「関係をつくり変えて参加(可能なものに)する」という新たな道がひらかれる。
ある種の「遅れ」や「不便」をありうべきものとして受け止めるようにすることで、かなりの人が「仕事ができる」ようになるのではないでしょうか。
改善の対象は「本人の能力不足」ではなく「十分にコストをかけられないゆとりのなさ」ということになります。
デメリットを考えあわせたうえで、なお「惜しむべきでないコスト」が存在する。
他者との共存を、「選べない出会い」という受動性を帯びたものとして捉えるとき、「惜しむべきでないコスト」が発生する。
そしてその受動性の感覚は、「なかなか愉快」でもあるというのです。
「関係性のレベルで考える」とは、問題解決の責任を個人に負わせるのではなく、その個人を含みこむ「場」が担うものとして、問題を周囲の人々で共有するということです。
「当事者」とはいったいだれなのか。
「働いて自活している」側である「私たち」自身が、「当事者」として、自らの学校や職場との関わりを振り返り、生活をより望ましいものにしていく一歩を踏み出す必要があります。
この本で私が特に感激した記述は、第2章の終わりの、
不登校やひきこもりという現象は、「社会性がないのではなく、むしろ過剰なのです」
という箇所です。
私の息子も、不登校ぎみで、
学校の先生や子どもたち対する自分、自分に対する先生や子どもたち、の関係性を
過剰に意識しているからこそ学校に行けない、
というのを目の当たりにしているので、(でも、そのことが、学校の先生やその他多くの人に伝わらない)
著者のこの記述は、「わかってくれる人がいる」として、ありがたかったです。
本書の結論部分は、
第3章の終わりから、第4章の半ばにかけてだと思われますが、
そこからの引用を、中略を入れながら、以下に書きます。
・・・・・
貧困や病・障がいなどの状態にある人は「無力」であると見なされ、「一人前の人間であること」を奪われがちになります。
一方で、「一人前の人間」と見なされれば、「個人の裁量でいくらでも状態は変えられるはずなのに、そうしない、自己責任だ」ということになり、バッシングにさらされるのです。
「自分がどのような人生を歩むかを、自分でコントロールし、その結果に責任を負う」ということを、この世界に生きる多くの人が、やる、やるべきと考えている状態は、
「特殊」な人間観です。実際に、多くの人がそれをできた、してきたかというと、そうとは言えません。
不登校・ひきこもり、慢性の病や、軽度の「発達障がい」と呼ばれるもの、さまざまな嗜癖行動、広い意味での働かない・働けない状態など…あいまいな領域の浮上は、
「そもそも人は多くのことを選択できる存在ではない」とうことを示しているように思います。
私たちはほんらい、人生に「責任」を持つことなどできません。
学ぶ場や働く場を選ぶことが、本当にはどの程度可能なのでしょうか。
「学校に行き、働いて自活している人」は、じつは「聞けない」のではなく、「聞きたくない」状態にあるのではないか。
「働いて自活している人」は、「正常」と見なされ、けれども、「正常」だと見なされている人々が、問題を抱えていないわけではないでしょう。
「働いて自活している人」はしばしば、「仕事をしない・できない人」に対してバッシングを向けます。
「私には関係ない」という無関心や、「しょうがないではないか」という諦めではなく、「許せない」という憎悪です。
なぜでしょうか。
「競争から降りる」というオプションは、競争に勝ち続けているものの忍耐を侮辱するのです。
それにしても、体調や精神のバランスを崩しながら働き続けることや、先の見えない不安をやり過ごしつつ目の前の仕事に没頭することが、「適応」と呼ばれるならば、「適応」が望ましいことだと本当にいえるのでしょうか。
「生きづらい」のは、いったいどちらの側なのでしょうか。
「コミュニケーション能力」や「社会性」という言葉は、
「学校に行き、働いて自活している側」を反省的に問い直すことなく、「学校に行かない・働かない側」のみに、問題を押しつけてしまうものです。
「関係性」の問題であれば、改善の責任は「私たち」と「彼ら」の双方にあることになり、少なくとも、
'@「私たち」が「彼ら」に合わせる、'A「彼ら」が「私たち」に合わせる、'B相互に調整する、
という3つの選択肢が生まれます。
「社会から撤退する」という道だけでなく、「関係をつくり変えて参加(可能なものに)する」という新たな道がひらかれる。
ある種の「遅れ」や「不便」をありうべきものとして受け止めるようにすることで、かなりの人が「仕事ができる」ようになるのではないでしょうか。
改善の対象は「本人の能力不足」ではなく「十分にコストをかけられないゆとりのなさ」ということになります。
デメリットを考えあわせたうえで、なお「惜しむべきでないコスト」が存在する。
他者との共存を、「選べない出会い」という受動性を帯びたものとして捉えるとき、「惜しむべきでないコスト」が発生する。
そしてその受動性の感覚は、「なかなか愉快」でもあるというのです。
「関係性のレベルで考える」とは、問題解決の責任を個人に負わせるのではなく、その個人を含みこむ「場」が担うものとして、問題を周囲の人々で共有するということです。
「当事者」とはいったいだれなのか。
「働いて自活している」側である「私たち」自身が、「当事者」として、自らの学校や職場との関わりを振り返り、生活をより望ましいものにしていく一歩を踏み出す必要があります。
2023年7月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
岩波ブックレット、という薄い本です。
理由もなく学校に行く自信が無くなった、ということで、小1から不登校という作者。なかなかの強者だと思います。親の立場としてはいかんともしがたく、よくこの人、自分の性質を差し置いて子供作れたな(非難がましい意味ではなく、勇気あるな、という意味です)、と思いました。
「社会性がありすぎて不登校」というフレーズが他の作者から引用されていたのが気になって購入しましたが、そこの深掘りは無かったです。
学校に行けないと、職場にも行けないということで、学校ー>会社システムをかいつまんで論じていました。
自分の感想ですが、学校が機能する前から、家族の中で、健康なくせに何を言っても働かないとか、特殊な動きをする個体というのはきっといたけど、新聞等も無かったから、表面に問題として出てこなかったのでしょうね。
理由もなく学校に行く自信が無くなった、ということで、小1から不登校という作者。なかなかの強者だと思います。親の立場としてはいかんともしがたく、よくこの人、自分の性質を差し置いて子供作れたな(非難がましい意味ではなく、勇気あるな、という意味です)、と思いました。
「社会性がありすぎて不登校」というフレーズが他の作者から引用されていたのが気になって購入しましたが、そこの深掘りは無かったです。
学校に行けないと、職場にも行けないということで、学校ー>会社システムをかいつまんで論じていました。
自分の感想ですが、学校が機能する前から、家族の中で、健康なくせに何を言っても働かないとか、特殊な動きをする個体というのはきっといたけど、新聞等も無かったから、表面に問題として出てこなかったのでしょうね。
2015年3月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「コミュニケーションは他人との関係性の中で生まれるものであり、それは『私の責任』の範囲に含み切れないのではないか」
という意味のことが書いてあったのですが、
その通りだ、と思い救われたと初めは思いました。
でも、親になったり、組織で部下を持ったり、この世は自分のしたことではないのに責任を持つことばかりではないでしょうか。
他人のことへの責任が過ぎれば生きづらくなる、現に私は生きづらく感じます。しかし、割と当たり前で批判しづらい価値観ではないかとも思います。
そこにどう折り合いをつけるかまで考察されていたら、星5。
しかし、十分良書です。
という意味のことが書いてあったのですが、
その通りだ、と思い救われたと初めは思いました。
でも、親になったり、組織で部下を持ったり、この世は自分のしたことではないのに責任を持つことばかりではないでしょうか。
他人のことへの責任が過ぎれば生きづらくなる、現に私は生きづらく感じます。しかし、割と当たり前で批判しづらい価値観ではないかとも思います。
そこにどう折り合いをつけるかまで考察されていたら、星5。
しかし、十分良書です。
2014年5月12日に日本でレビュー済み
自分は『コミュニケーション能力』の定義がいまいちよく分かっていない。それは社会人になって十余年経った今でもそうだ。
それはおそらく各々が勝手かつ各々にとって都合の良い解釈で使っているからだと考えるが、
勝手な解釈をするだけならまだしも、勝手な解釈を他人に押し付けている輩がいるせいで、
真面目な人間であればあるほどその言葉に振り回され、やがて己の『コミュニケーション能力』の無さに
自分を責めるようになり、やがて自信を無くしていくのだと考える。
ゆえに、自分が考える『コミュニケーション能力』が本当に正しい意味なのかどうか、事あるたびに何も考えずに
その言葉を口にする人は、今一度自らの胸に手を当てて自問するといい。
他人が自分に抱く印象や感情といった、自分ではコントロールしきれない部分までも
本人の責任にしてしまうのは酷であるという考え方に同意を覚える一方、本人の努力不足の一点で
切り捨てられてしまう現状に、一種の複雑な想いや、やりきれなさを感じる。
また、『コミュニケーション能力』を構成する要素の一つが、意思伝達能力なのだとしたら、
相手の発した言葉を、言葉の裏に潜む意味を含めて理解できないのは自分の理解力の無さなのか、
それとも、相手の舌が足りないのかということは日々の生活の中で良く考えさせられているので、
本文の『「コミュニケーション能力を身につけなさい」とか(中略)言うまえに
、「どのような文脈で、誰の、いかなる振る舞いがコミュニケーションの断絶を招いているのか」を
その都度問い返していく』という考えは良く理解できる。
「関係性への志向」を持ちすぎているが故に、物事の本質に気付かず、何の疑いも持たず、
何も考えないまま社会に飛び込むことへの恐れを抱くという不登校やひきこもり、
仕事が勤まらない人の『むしろ社会性が高すぎる人々』の思考や、「関係的な生きづらさ」を持ち合わせた、
『努力したけど結果が出ず、社会から撤退せざるを得なかった人々』の存在を理解できてしまう自分は、
表向きは社会に迎合しながら実は『こちら側』の人間なのだろう。
本書において、互いの歩み寄りの大切さを説いてはいるものの、実際は「コミュニケーション能力がある」人からの
歩み寄りは期待できず、「コミュニケーション能力がない」人や、社会との適合が難しい人が生きていくためには、
所謂『普通の人』には必要が無い、疑似的にコミュニケーションを成立させたり、社会と適合させるための
『エミュレータ』を脳内にインストールするという一方的な歩み寄り、言い換えれば対症療法を行なっていくしか
無いのが現実だったりする。なのでいつか、この問題に対する根本療法が確立する日が来るのを心から願わずにはいられない。
それはおそらく各々が勝手かつ各々にとって都合の良い解釈で使っているからだと考えるが、
勝手な解釈をするだけならまだしも、勝手な解釈を他人に押し付けている輩がいるせいで、
真面目な人間であればあるほどその言葉に振り回され、やがて己の『コミュニケーション能力』の無さに
自分を責めるようになり、やがて自信を無くしていくのだと考える。
ゆえに、自分が考える『コミュニケーション能力』が本当に正しい意味なのかどうか、事あるたびに何も考えずに
その言葉を口にする人は、今一度自らの胸に手を当てて自問するといい。
他人が自分に抱く印象や感情といった、自分ではコントロールしきれない部分までも
本人の責任にしてしまうのは酷であるという考え方に同意を覚える一方、本人の努力不足の一点で
切り捨てられてしまう現状に、一種の複雑な想いや、やりきれなさを感じる。
また、『コミュニケーション能力』を構成する要素の一つが、意思伝達能力なのだとしたら、
相手の発した言葉を、言葉の裏に潜む意味を含めて理解できないのは自分の理解力の無さなのか、
それとも、相手の舌が足りないのかということは日々の生活の中で良く考えさせられているので、
本文の『「コミュニケーション能力を身につけなさい」とか(中略)言うまえに
、「どのような文脈で、誰の、いかなる振る舞いがコミュニケーションの断絶を招いているのか」を
その都度問い返していく』という考えは良く理解できる。
「関係性への志向」を持ちすぎているが故に、物事の本質に気付かず、何の疑いも持たず、
何も考えないまま社会に飛び込むことへの恐れを抱くという不登校やひきこもり、
仕事が勤まらない人の『むしろ社会性が高すぎる人々』の思考や、「関係的な生きづらさ」を持ち合わせた、
『努力したけど結果が出ず、社会から撤退せざるを得なかった人々』の存在を理解できてしまう自分は、
表向きは社会に迎合しながら実は『こちら側』の人間なのだろう。
本書において、互いの歩み寄りの大切さを説いてはいるものの、実際は「コミュニケーション能力がある」人からの
歩み寄りは期待できず、「コミュニケーション能力がない」人や、社会との適合が難しい人が生きていくためには、
所謂『普通の人』には必要が無い、疑似的にコミュニケーションを成立させたり、社会と適合させるための
『エミュレータ』を脳内にインストールするという一方的な歩み寄り、言い換えれば対症療法を行なっていくしか
無いのが現実だったりする。なのでいつか、この問題に対する根本療法が確立する日が来るのを心から願わずにはいられない。
2013年10月10日に日本でレビュー済み
タイトルにある通り、コミュニケーション能力のなさに悩んでいる私にはピッタリの本でした。
本書の薄さが半端ないので、そんなに大したことは書いてないだろうと思っていたのですが、全てではないにせよ、モヤモヤしていた部分がいろいろとスッキリ整理できたので良かったです。
筆者自身が不登校を経験してきたからこそ書けた一冊だと思いますが、社会学的アプローチにしか興味がない方にとっては物足りなさを感じるかもしれません。
様々な理由でひきこもったり、社会的にリタイヤする人が多くなっている今、「甘えている」と言う言葉だけではもはや片付けられない状況も多くなってきていると周囲を見ていても常々感じていたので、他人事ではなく、この問題はもっと真剣に考えなければといけないと、私は切に思いました。
競争の更なる激化によって、いつまでこの問題を他人事で済ませられるでしょうか?
この本を読んでしまったので、私はもはや他人事には思えていないのですが。
薄いながらも、ヒントがつかめる、そんな本だと思います。
本書の薄さが半端ないので、そんなに大したことは書いてないだろうと思っていたのですが、全てではないにせよ、モヤモヤしていた部分がいろいろとスッキリ整理できたので良かったです。
筆者自身が不登校を経験してきたからこそ書けた一冊だと思いますが、社会学的アプローチにしか興味がない方にとっては物足りなさを感じるかもしれません。
様々な理由でひきこもったり、社会的にリタイヤする人が多くなっている今、「甘えている」と言う言葉だけではもはや片付けられない状況も多くなってきていると周囲を見ていても常々感じていたので、他人事ではなく、この問題はもっと真剣に考えなければといけないと、私は切に思いました。
競争の更なる激化によって、いつまでこの問題を他人事で済ませられるでしょうか?
この本を読んでしまったので、私はもはや他人事には思えていないのですが。
薄いながらも、ヒントがつかめる、そんな本だと思います。
2013年2月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「学校に行かなくてはいけない」けれども、「学校には行きたくない」。
「自分が社会であるべき姿」と「今の自分の心」とのギャップに悩む人は、不登校に限らず多いのではないでしょうか。
その根源を、社会でも個人でもなく、社会と個人が紡ぐ「関係的な生きづらさ」に求める点は新しい考え方で、
悩みを解消する糸口になるかもしれません。
本書の中で具体的な解決策は議論していませんが、「人生で出会う人は選べそうで選べない」という記述がある部分に、
私は少し心惹かれました。
短くて読みやすい本です。
「自分が社会であるべき姿」と「今の自分の心」とのギャップに悩む人は、不登校に限らず多いのではないでしょうか。
その根源を、社会でも個人でもなく、社会と個人が紡ぐ「関係的な生きづらさ」に求める点は新しい考え方で、
悩みを解消する糸口になるかもしれません。
本書の中で具体的な解決策は議論していませんが、「人生で出会う人は選べそうで選べない」という記述がある部分に、
私は少し心惹かれました。
短くて読みやすい本です。