特にこれといって何かが起こるわけでもなく、とある家族の日常を描いただけの作品である。ストーリーを楽しむような作品ではないので、面白いとか面白くないとかいう視点はナンセンスだろう。この作品から得られるのは、たとえば深夜にひとりウィスキーグラスを傾け、忙しく賑やかだった昼間を思い出しながら浸る複雑な感情を含んだ余韻に近い。
作中では10年の時間が経過する。自分たちが過ごした賑やかな日々が、何気ない生活が、10年の時間とともに過ぎ去り、消えてしまう。過去はただ懐かしく想い出されるばかりで、いつの間にか現実感を欠いたものになっていく。それはいま現在に限ったことではなく、未来においても同じことだ。この自分もいずれこの世から消え去り、いつの日か自分のことを想い出してくれる人にとって自分は現実味を欠いた過去の存在に過ぎないだろう。これは誰しも逃れられない運命である。このことが、作品中に登場する「われらは滅びゆく おのおの一人にて」という切ない文句に表現されており、だからこその「去りゆく時代への清冽なレクイエム」なのだろう。
だが、ウルフがレクイエムを捧げたかったのは「去りゆく時代」に対してではなく、13歳時に死別した母親に対してだったのではないだろうか。過去を回想する女性画家リリーが物語の最後に示す姿こそが、ウルフが母親に見せたかった自分自身の姿だったのだろうと思わずにはいられなかった。
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灯台へ (岩波文庫 赤 291-1) 文庫 – 2004/12/16
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- 本の長さ400ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2004/12/16
- ISBN-104003229118
- ISBN-13978-4003229118
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上位レビュー、対象国: 日本
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2019年5月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
"あの頃の灯台は銀色の霧に包まれた塔のようで、日暮れになると不意にやさしく黄色い目を開く神秘的な存在だった"20世紀を代表する女性作家である著者の代表作とされる本書はラファエル前派のモデルにもなった美貌の母への愛情と反発が込められた娘からの"10年越しのラブレター、レクイエム"として心を打つ。
とは言え、個人的には所謂"誰がそれを何と言った"的な説明が意図的に省略された、登場人物たちのつぶやきと共に話が切り替わっていく本書の流れには、描写の美しさはとにかく、わかりやすく説明された【ストーリーを追いかける】読書体験に慣れ親しんだ自分にとっては些か難解で、【意識な流れ】的な文学上の手法として一旦飲み込む必要性があったりもしたり。(=飲み込んだ後にストーリー追体験ではない形で作品世界に没入して、はじめて理解できた)
しかし"彼女は思った、そう、わたしは自分の見方(ビジョン)をつかんだわ。"翻訳の壁があったとしても言葉の選択が本当に良いですね。本書は。
いわゆる意識は静的なものではないとする実験的な"意識の流れ"文学に関心ある誰か。あるいは新旧の女性の描き方にジェンダー論を考えたい誰か。あるいは言葉の壁を超えて【美しい言葉】を浴びたい誰かにオススメ。
とは言え、個人的には所謂"誰がそれを何と言った"的な説明が意図的に省略された、登場人物たちのつぶやきと共に話が切り替わっていく本書の流れには、描写の美しさはとにかく、わかりやすく説明された【ストーリーを追いかける】読書体験に慣れ親しんだ自分にとっては些か難解で、【意識な流れ】的な文学上の手法として一旦飲み込む必要性があったりもしたり。(=飲み込んだ後にストーリー追体験ではない形で作品世界に没入して、はじめて理解できた)
しかし"彼女は思った、そう、わたしは自分の見方(ビジョン)をつかんだわ。"翻訳の壁があったとしても言葉の選択が本当に良いですね。本書は。
いわゆる意識は静的なものではないとする実験的な"意識の流れ"文学に関心ある誰か。あるいは新旧の女性の描き方にジェンダー論を考えたい誰か。あるいは言葉の壁を超えて【美しい言葉】を浴びたい誰かにオススメ。
2014年8月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
直前に読んだのが、アクションのみで構成されているような逢坂剛氏の「無防備都市」だったので、頭をしっかり切り替えないと読み進めない、際立って静謐な美しい小説でした。
自然と人のこころの有り様と変化が、丁寧に丁寧に、言葉を尽くして表現されていて、じっくり読むと、まさにまさにと共感を覚え、また、情景は見えるようであって、その意味ではリアリティがあります。ですが、瞬間瞬間はそうであっても、我々の大半は、ありがたいことに、はるかに忘れっぽくできていて、何とか現実世界を生きていけるわけですね。その意味では、リアリティはありません。
ストーリーらしいものが無く、通常小説に期待する面白さというのは感じなかったので、星一つ落としました。
自然と人のこころの有り様と変化が、丁寧に丁寧に、言葉を尽くして表現されていて、じっくり読むと、まさにまさにと共感を覚え、また、情景は見えるようであって、その意味ではリアリティがあります。ですが、瞬間瞬間はそうであっても、我々の大半は、ありがたいことに、はるかに忘れっぽくできていて、何とか現実世界を生きていけるわけですね。その意味では、リアリティはありません。
ストーリーらしいものが無く、通常小説に期待する面白さというのは感じなかったので、星一つ落としました。
2022年9月20日に日本でレビュー済み
小説『灯台へ』は、ちょっと類例がないような技巧的な文体で書かれている。有名な「意識の流れ」という手法による文体だ。この面倒な文体のお蔭で、私は以前、この小説に早々と挫折したことがある。普段、私たちの内心では感覚的な言葉が絶えず生成しているため、「意識の流れ」という手法では、内心の言葉がきめ細かく叙述される。さらに、客観的な外界の描写も適度に織り交ぜることで、小説としての体裁が整えられる。しかし、「意識の流れ」を、真の意味で再現することは至難の業だ。内心と外界とで頻繁な場面転換を行っていると、どうしても物語の速度が低下する。停滞感を避けようとすれば、物語の簡素化が必要になる。この小説の場合は、登場人物が海辺の別荘に滞在するラムジー一家とその友人に限定され、小説の約半分の分量を占める第1部は、わずか一日の出来事に費やされる。以下、冒頭と結末から印象的な場面を取り上げてみよう。
・「でも」と、ちょうどその時客間の窓辺を通りかかった父親が足を止めて言った、「晴れにはならんだろう」/手近に斧か火かき棒があれば、あるいは父の胸に穴をこじ開け、その時その場で彼を殺せるようなどんな武器でもあれば、ジェイムズは迷わずそれを手に取っただろう。(p8-p9)
・このナイフで父の心臓を突き刺すというイメージは、ずいぶん以前から彼の心に宿っていた。ただ最近は彼も次第に成長して、やり場のない怒りとともに父を見つめるうち、自分が本当に殺したい相手は、あそこで本を読むあの老人ではないと思うようにもなった。(p357)
最初の引用文は、父親のラムジー氏に対する暴力的な心理描写で驚かされる。このエレガントな小説の意外なテーマが告知された場面だ。当時、末っ子のジェイムズは6歳の子どもだったが、彼の内心はなぜか妙に大人びている。実際に「斧か火かき棒」があったとして、幼い彼に何ができただろう。ふたつ目の引用文は、10年後、灯台へ向かう小舟に乗ったジェイムズの心理描写で、彼はすでに分別のある青年に成長している。ラムジー家の子どもたちは、だれもが極端なまでに自分の内心を押し隠していて、親子喧嘩のひとつも起こさない。当時の父親の権威からすると、子どもたちの葛藤は心の奥に仕舞い込むべきものだったらしい。小説のモデルは、作者自身の家族だったといわれ、作者の父親もラムジー氏と同じ哲学者で、彼の周辺にはヴィクトリア朝最高の知性が集まったのだそうだ。偉大すぎる父親を持った子どもの精神的重圧が容易に想像できるエピソードだ。
・…その時リリーはわれに返って彼が何をしているのかに気づき、打ち据えようと振り上げられた手を見た犬のように、一瞬たじろいだ。すぐに絵をイーゼルから取りはずそうかとも考えたが、耐えなければ、と思い直した。…それでも、他人の目が自分の三十三年間の人生の残滓を見つめるということ、自ら語ったり示したりしてきたものより、もっと内密なものと混ざり合った毎日の暮らしの堆積物が見届けられるということは、やはり苦痛だった。(p95-p96)
この引用文は、画家のリリーが、ラムジー家の別荘の庭で絵を描いているとき、自分の絵を知人の男性に見られた場面だ。たったそれだけのことなのに、この体験は彼女の痛手となって、後々まで尾を引くことになる。彼女の過剰な反応は、33歳の画家というより、はにかみがちな少女のようだ。しかし、作者はそんなふうには考えていない。リリーが描いている絵は、彼女の内心で「人生の残滓」や「毎日の暮らしの堆積物」にたとえられ、絵を見られることには、秘密の漏洩に相当する重みが付与される。リリーは、登場人物を客観的に批評する特別な役目を負わされ、事実上、作者の分身だったといわれている。だとすると、私たちの前にひとつの疑問が浮上する。作者がこの『灯台へ』という小説を公表するのは、自分の絵を見られるよりもっと「苦痛」だったはずではないのか。なぜなら、内心の言葉は、言語表現のほうがより直截的なのだから。
・春が来たが、まだ風に揺れる木の葉一枚なく、貞潔ゆえに厳しく、純粋ゆえに冷笑的な乙女のように、むき出しの輝かしさをまとって、野山にその姿を現わした。春は大きく目を開いて、あたりの様子をうかがっていたが、その姿を見る人が何をし何を考えているのかについては、まったく無頓着だった。(p252)
第2部では、ラムジー一家が立ち去った後の海辺の別荘に風が吹き込み、小動物が侵入し、植物が繁茂するようすが延々と描写される。この自然描写の意味はわかりにくいし、物語的な展開がないので、無駄な部分だともいえなくもない。だが、作者の筆致は、そういう自然の営みになぜか親和的だ。この引用文では、春が「乙女」にたとえられ、「大きく目を開いて、あたりの様子をうかがっていた」などと擬人化される。感情移入による平凡なレトリックのように思えるが、「意識の流れ」からすると、沈黙する自然にも生命の営みという「内心」が隠されていると解釈できそうだ。そうだとすると、この詩的な自然描写には、おそらく、作者独特の汎神論的な感性が忍び込んでいる。
先ほど、「意識の流れ」では物語の簡素化が必要だ、と私は述べた。この言い方はじつはおかしい。「意識の流れ」を採用したところで、内心の言葉が描写される主体は、通常、主人公や語り手に限定されるからだ。けれども、『灯台へ』の場合は、すべての登場人物の内心が平等に描写されるため、人々の内心が複雑に交錯し、語り手の視点が統一されることがない。そういう叙述上の欠陥に眼をつぶってでも、作者は、自然の「内心」を造形する同じ手つきで、子ども時代の家族の心象風景を再現しようとした。だが、この小説が、意図したとおりの家族の肖像になりえたのかはわからない。6歳のジェイムズは妙に大人びていたし、33歳のリリーは少女のような一面を持つ人物として造形された。私の理解では、この小説の主題は、社会の諸制度によって抑圧された女性と子どもの内心の言葉を解放することだった。そして、この意欲的な試みは、『灯台へ』が刊行された1927年時点で相当の困難事だっただろう。執筆中の作者は、父親への憎悪をカミングアウトする「苦痛」に耐えていたに違いない。
・「でも」と、ちょうどその時客間の窓辺を通りかかった父親が足を止めて言った、「晴れにはならんだろう」/手近に斧か火かき棒があれば、あるいは父の胸に穴をこじ開け、その時その場で彼を殺せるようなどんな武器でもあれば、ジェイムズは迷わずそれを手に取っただろう。(p8-p9)
・このナイフで父の心臓を突き刺すというイメージは、ずいぶん以前から彼の心に宿っていた。ただ最近は彼も次第に成長して、やり場のない怒りとともに父を見つめるうち、自分が本当に殺したい相手は、あそこで本を読むあの老人ではないと思うようにもなった。(p357)
最初の引用文は、父親のラムジー氏に対する暴力的な心理描写で驚かされる。このエレガントな小説の意外なテーマが告知された場面だ。当時、末っ子のジェイムズは6歳の子どもだったが、彼の内心はなぜか妙に大人びている。実際に「斧か火かき棒」があったとして、幼い彼に何ができただろう。ふたつ目の引用文は、10年後、灯台へ向かう小舟に乗ったジェイムズの心理描写で、彼はすでに分別のある青年に成長している。ラムジー家の子どもたちは、だれもが極端なまでに自分の内心を押し隠していて、親子喧嘩のひとつも起こさない。当時の父親の権威からすると、子どもたちの葛藤は心の奥に仕舞い込むべきものだったらしい。小説のモデルは、作者自身の家族だったといわれ、作者の父親もラムジー氏と同じ哲学者で、彼の周辺にはヴィクトリア朝最高の知性が集まったのだそうだ。偉大すぎる父親を持った子どもの精神的重圧が容易に想像できるエピソードだ。
・…その時リリーはわれに返って彼が何をしているのかに気づき、打ち据えようと振り上げられた手を見た犬のように、一瞬たじろいだ。すぐに絵をイーゼルから取りはずそうかとも考えたが、耐えなければ、と思い直した。…それでも、他人の目が自分の三十三年間の人生の残滓を見つめるということ、自ら語ったり示したりしてきたものより、もっと内密なものと混ざり合った毎日の暮らしの堆積物が見届けられるということは、やはり苦痛だった。(p95-p96)
この引用文は、画家のリリーが、ラムジー家の別荘の庭で絵を描いているとき、自分の絵を知人の男性に見られた場面だ。たったそれだけのことなのに、この体験は彼女の痛手となって、後々まで尾を引くことになる。彼女の過剰な反応は、33歳の画家というより、はにかみがちな少女のようだ。しかし、作者はそんなふうには考えていない。リリーが描いている絵は、彼女の内心で「人生の残滓」や「毎日の暮らしの堆積物」にたとえられ、絵を見られることには、秘密の漏洩に相当する重みが付与される。リリーは、登場人物を客観的に批評する特別な役目を負わされ、事実上、作者の分身だったといわれている。だとすると、私たちの前にひとつの疑問が浮上する。作者がこの『灯台へ』という小説を公表するのは、自分の絵を見られるよりもっと「苦痛」だったはずではないのか。なぜなら、内心の言葉は、言語表現のほうがより直截的なのだから。
・春が来たが、まだ風に揺れる木の葉一枚なく、貞潔ゆえに厳しく、純粋ゆえに冷笑的な乙女のように、むき出しの輝かしさをまとって、野山にその姿を現わした。春は大きく目を開いて、あたりの様子をうかがっていたが、その姿を見る人が何をし何を考えているのかについては、まったく無頓着だった。(p252)
第2部では、ラムジー一家が立ち去った後の海辺の別荘に風が吹き込み、小動物が侵入し、植物が繁茂するようすが延々と描写される。この自然描写の意味はわかりにくいし、物語的な展開がないので、無駄な部分だともいえなくもない。だが、作者の筆致は、そういう自然の営みになぜか親和的だ。この引用文では、春が「乙女」にたとえられ、「大きく目を開いて、あたりの様子をうかがっていた」などと擬人化される。感情移入による平凡なレトリックのように思えるが、「意識の流れ」からすると、沈黙する自然にも生命の営みという「内心」が隠されていると解釈できそうだ。そうだとすると、この詩的な自然描写には、おそらく、作者独特の汎神論的な感性が忍び込んでいる。
先ほど、「意識の流れ」では物語の簡素化が必要だ、と私は述べた。この言い方はじつはおかしい。「意識の流れ」を採用したところで、内心の言葉が描写される主体は、通常、主人公や語り手に限定されるからだ。けれども、『灯台へ』の場合は、すべての登場人物の内心が平等に描写されるため、人々の内心が複雑に交錯し、語り手の視点が統一されることがない。そういう叙述上の欠陥に眼をつぶってでも、作者は、自然の「内心」を造形する同じ手つきで、子ども時代の家族の心象風景を再現しようとした。だが、この小説が、意図したとおりの家族の肖像になりえたのかはわからない。6歳のジェイムズは妙に大人びていたし、33歳のリリーは少女のような一面を持つ人物として造形された。私の理解では、この小説の主題は、社会の諸制度によって抑圧された女性と子どもの内心の言葉を解放することだった。そして、この意欲的な試みは、『灯台へ』が刊行された1927年時点で相当の困難事だっただろう。執筆中の作者は、父親への憎悪をカミングアウトする「苦痛」に耐えていたに違いない。
2020年4月15日に日本でレビュー済み
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Virginia Woolfの代表作であり、20世紀を代表する文学と言われている「To the Lighthouse」。
自分は原書と翻訳版のダブルで読んだが、読むのにとにかく時間がかかった。
特に何も起きず、平坦な毎日や心象風景を描いているだけなのに、すごい量と独特の表現を使うので、何が書いてあるのか全くわからなくなることが多い。
難解な純文学、と割り切って読むのがよい。
自分はおそらくWoolfの作品を読むことはもうないだろう...
とはいえ不朽のクラシックであることには変わりはないので、今後も読み継がれていくと思う。
自分は原書と翻訳版のダブルで読んだが、読むのにとにかく時間がかかった。
特に何も起きず、平坦な毎日や心象風景を描いているだけなのに、すごい量と独特の表現を使うので、何が書いてあるのか全くわからなくなることが多い。
難解な純文学、と割り切って読むのがよい。
自分はおそらくWoolfの作品を読むことはもうないだろう...
とはいえ不朽のクラシックであることには変わりはないので、今後も読み継がれていくと思う。
2016年4月5日に日本でレビュー済み
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ウルフの「灯台へ」を読み終えた。私には、ラムジー夫妻以外の登場人物は、全て著者の分身なのではないかと思えた。脚本を作り、あらゆる立場の人間達に、自らの感情や観ている世界を代弁させているかのように思えた。小説というよりは、随筆や打明け話のようにすら思えた。私にはその観ている世界が、現実世界でよく見える。それを言葉で表現する力量が無いだけで。どうやら、これらの観ている世界が見えない人々には、これらの世界は魅惑的に映るらしい。私には、「灯台へ」の文章は、読了後感じた感情は確かに清涼感のある良いものではあったが(リリーは、晩年詩人として成功したカーマイケルさんのように、タンズリー氏よりも、これから画家として成功するのだろう。そうであって欲しい。)私には現実的すぎるし、非常に生々しく感じられた。そしてこれらの世界の中に生きることは、時に素晴らしく瑞々しい感動をもたらすが、同時に痛々しく激しい苦痛と責苦の中に生きることを強制させる。
2014年5月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
きわめて美しいウルフの原文の趣をよく伝える訳文と、懇切な解説に感謝しています。
2021年6月27日に日本でレビュー済み
今までに読んだことがないタイプの作品。ストーリー性の排除、語り手が曖昧であること、比喩表現の美しさが特徴。
1. ストーリー性の排除
小説の場面自体は、前半がある日の夕食時を中心にしたほんのひととき、短い中休みの後、後半は灯台を目指す一行とラムジー家のことを思うリリーが過ごすひとときからなる。しかし、全編の多くの部分を、登場人物の意識の内容・流れが占める。この作品はストーリーを読むためのものではない。各人の心の中を垣間見ることで、あたかも自分がその人になりかわったかのように感じられる。
2. 語り手の曖昧さ
作品の語り手・視点が曖昧で、その曖昧さがかえって作品の良さとなっている。登場人物の意識がそれぞれ語られるが、その語り手は誰なのか、と考えながら読むだけでも楽しい。途中では「風」の視点で描かれている箇所もある。
3. 比喩表現の美しさ
作品中で用いられている比喩表現も素晴らしい。例えば次の表現は村上春樹が用いる比喩表現とはまた違うものがある。「今わたしが触れているこの女性の頭や心の部屋には、王侯の墳墓に収められた宝物のように、聖なる碑文を刻んだ石板が並べられていて、もしその碑文が解読されれば人生のさまざまな謎が解けるかもしれないのだが、あいにくその石板が公開されることは決してないだろう」「マクナブ婆さんは再び望遠鏡をのぞいているような気分になり、その端の薄明るい光の円の中に、今度は老紳士の姿を見た。」
岩波ジュニア新書「初めての文学講義」(中村邦生)で紹介されている読み方として、「ミメーシス」(アウエルバッハ)最終章を一緒に読むと、本作をより深く楽しむことができる。
1. ストーリー性の排除
小説の場面自体は、前半がある日の夕食時を中心にしたほんのひととき、短い中休みの後、後半は灯台を目指す一行とラムジー家のことを思うリリーが過ごすひとときからなる。しかし、全編の多くの部分を、登場人物の意識の内容・流れが占める。この作品はストーリーを読むためのものではない。各人の心の中を垣間見ることで、あたかも自分がその人になりかわったかのように感じられる。
2. 語り手の曖昧さ
作品の語り手・視点が曖昧で、その曖昧さがかえって作品の良さとなっている。登場人物の意識がそれぞれ語られるが、その語り手は誰なのか、と考えながら読むだけでも楽しい。途中では「風」の視点で描かれている箇所もある。
3. 比喩表現の美しさ
作品中で用いられている比喩表現も素晴らしい。例えば次の表現は村上春樹が用いる比喩表現とはまた違うものがある。「今わたしが触れているこの女性の頭や心の部屋には、王侯の墳墓に収められた宝物のように、聖なる碑文を刻んだ石板が並べられていて、もしその碑文が解読されれば人生のさまざまな謎が解けるかもしれないのだが、あいにくその石板が公開されることは決してないだろう」「マクナブ婆さんは再び望遠鏡をのぞいているような気分になり、その端の薄明るい光の円の中に、今度は老紳士の姿を見た。」
岩波ジュニア新書「初めての文学講義」(中村邦生)で紹介されている読み方として、「ミメーシス」(アウエルバッハ)最終章を一緒に読むと、本作をより深く楽しむことができる。