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憲法の無意識 (岩波新書) 新書 – 2016/4/21
柄谷 行人
(著)
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なぜ戦後70年を経てもなお改憲は実現しないのか。なぜ九条は実行されていないのに残されているのか。改憲、護憲の議論が見逃しているものは何か。糸口は「無意識」である。日本人の歴史的・集団的無意識に分け入り、「戦争の末の」平和ではない、世界平和への道筋を示す。デモで社会を変え、国際社会に九条を贈与しよう。「憲法の無意識」が政治の危機に立ち現れる。
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2016/4/21
- 寸法10.7 x 0.8 x 17.3 cm
- ISBN-104004316006
- ISBN-13978-4004316008
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2016/4/21)
- 発売日 : 2016/4/21
- 言語 : 日本語
- 新書 : 208ページ
- ISBN-10 : 4004316006
- ISBN-13 : 978-4004316008
- 寸法 : 10.7 x 0.8 x 17.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 246,051位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1941年生まれ。評論家 (「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 世界史の構造 (ISBN-13: 978-4000236935 )』が刊行された当時に掲載されていたものです。)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年1月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「哲学の起源」と一緒に読むと、世界の見方を変えられました。
2021年1月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
図書館で見つけて借りだして読む打ちに、是非自分も持っておきたいと思い買った。
憲法9条について賛否両論あるが、初めて納得できる説明に出会ったような気がする。理想論という向きもあろうが、誰かがやらなければ、ものごおは進まない。
柄谷氏の慧眼に敬服。広めたい。
憲法9条について賛否両論あるが、初めて納得できる説明に出会ったような気がする。理想論という向きもあろうが、誰かがやらなければ、ものごおは進まない。
柄谷氏の慧眼に敬服。広めたい。
2018年1月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
理念が、表層的なもの、実用性のない単なる綺麗事、などとして片づけられるものではなく、政治経済等の社会構成に影響を受けつつ、無意識から不可避的に生み出されてくるものであることを、日本の憲法9条を題材に分析している。
例えば、著者は、フロイトを引用してこう記している。
「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれる考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心という形で表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。(「マゾヒズムの経済論的問題」『フロイト全集18』岩波書店)
フロイトのこの見方は、憲法九条が外部の力、すなわち占領軍の指令によって生まれたにもかかわらず、日本人の無意識に深く定着した過程を見事に説明するものです。先ず、外部の力による戦争(攻撃性)の断念があり、それが良心(超自我)を生み出し、さらにそれが戦争の断念をいっそう求めることになったのです。
憲法九条は自発的ないしによってできたのではない。外部からの押し付けによるものです。しかしだからこそ、それはその後に、深く定着した。それは、もし人々の「意識」あるいは「自由意志」によるものであれば成立しなかったし、たと成立したとしてもとうに廃棄されていたでしょう。フロイトのような見方をしないならば、こんなことが成立したのは、先に紹介した江藤淳のように、よほど巧妙な「国民心理の操作誘導」があったからだろう、というほかないのです。しかし、「無意識」は「心理操作誘導」によってつくられたり除去されたりするものではありません。」
なお、このようにも書いている。
「 要するに私がいいたいのは、憲法九条が無意識の超自我であるということは、心理的な憶測ではなく、統計学的に裏付けられるということです。最後に、世論と選挙の関係んちういて一言述べておきます。結論から言うと、総選挙は「集団的無意識」としての「世論」をあらわすものにはなりません。なぜなら、争点があいまいな上、投票率も概して低く、投票者の地域や年齢などに割合にも偏りがあるためです。ただ、総選挙を通して、憲法九条を改正しようとする場合、最後に国民投票を行う必要があります。国民投票も、なんらかの操作・策動が可能だから、世論を十分反映するものとは言えません。しかし、争点がはっきりしているうえ、投票率も高いので、「無意識」が全面的に出てきます。」
憲法九条の改憲が、非常に難しいものである、ということは、改憲をすすめたい政治家にも深く理解されている。
そのために、計画的かつ慎重に、手続きが進められているのだと思う。
今度の総選挙でマニフェストとして出される、とうわさされている、9条への自衛隊の存在を明記する、という加憲は、当初の自民党が提出していた憲法草案と比べれば、非常にトーンダウンさせたものであるし、目下、トランプ大統領を手を組んで、北朝鮮との間に緊迫した状況を作った上で、選挙を行う、という手続きにもそれが表れている。
著者が言う通り、このような操作・策動によっても、無意識に深く定着しているという倫理性が、除去されることなく全面的に出てくることになるのか。
いよいよ、これから 現実にこのプロセスに直面することになる。
例えば、著者は、フロイトを引用してこう記している。
「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれる考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心という形で表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。(「マゾヒズムの経済論的問題」『フロイト全集18』岩波書店)
フロイトのこの見方は、憲法九条が外部の力、すなわち占領軍の指令によって生まれたにもかかわらず、日本人の無意識に深く定着した過程を見事に説明するものです。先ず、外部の力による戦争(攻撃性)の断念があり、それが良心(超自我)を生み出し、さらにそれが戦争の断念をいっそう求めることになったのです。
憲法九条は自発的ないしによってできたのではない。外部からの押し付けによるものです。しかしだからこそ、それはその後に、深く定着した。それは、もし人々の「意識」あるいは「自由意志」によるものであれば成立しなかったし、たと成立したとしてもとうに廃棄されていたでしょう。フロイトのような見方をしないならば、こんなことが成立したのは、先に紹介した江藤淳のように、よほど巧妙な「国民心理の操作誘導」があったからだろう、というほかないのです。しかし、「無意識」は「心理操作誘導」によってつくられたり除去されたりするものではありません。」
なお、このようにも書いている。
「 要するに私がいいたいのは、憲法九条が無意識の超自我であるということは、心理的な憶測ではなく、統計学的に裏付けられるということです。最後に、世論と選挙の関係んちういて一言述べておきます。結論から言うと、総選挙は「集団的無意識」としての「世論」をあらわすものにはなりません。なぜなら、争点があいまいな上、投票率も概して低く、投票者の地域や年齢などに割合にも偏りがあるためです。ただ、総選挙を通して、憲法九条を改正しようとする場合、最後に国民投票を行う必要があります。国民投票も、なんらかの操作・策動が可能だから、世論を十分反映するものとは言えません。しかし、争点がはっきりしているうえ、投票率も高いので、「無意識」が全面的に出てきます。」
憲法九条の改憲が、非常に難しいものである、ということは、改憲をすすめたい政治家にも深く理解されている。
そのために、計画的かつ慎重に、手続きが進められているのだと思う。
今度の総選挙でマニフェストとして出される、とうわさされている、9条への自衛隊の存在を明記する、という加憲は、当初の自民党が提出していた憲法草案と比べれば、非常にトーンダウンさせたものであるし、目下、トランプ大統領を手を組んで、北朝鮮との間に緊迫した状況を作った上で、選挙を行う、という手続きにもそれが表れている。
著者が言う通り、このような操作・策動によっても、無意識に深く定着しているという倫理性が、除去されることなく全面的に出てくることになるのか。
いよいよ、これから 現実にこのプロセスに直面することになる。
2016年4月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2006年から2015年の間に実施された、憲法を中心とした講演を
4本収録しています。
最初の2本の憲法に関するものは、実に斬新でした。
まずⅠでは、著者は憲法九条が改正されない要因として、後期
フロイトを援用しての、日本人の強迫神経症の一種としての
「無意識の罪悪感」を挙げています。
そして続くⅡでは、それが定着したのは、「徳川の平和」を破
ってきたことへの悔恨がベースにある為とされます。
憲法九条の強靭さが、納得できました。
次のⅢは、カントの平和論です。
カントの『永遠平和のために』は、『世界市民的見地における
普遍史の理念』とセットで読まれる必要があることが説かれま
す。
著者の前著である『世界共和国へ』(岩波新書)でお馴染みの、
憲法九条の実行は真の国連改革への「贈与」となることが、ここ
でも表明されています。
この講演は2006年と、1本だけ古いのですが、『世界共和国へ』
の出版と同年となります。
最後のⅣでは、新自由主義が取り上げられます。
ヘゲモニー国家の120年周期説が提示されています。
そこから、現在の世界状況を歴史的に類比するに際しては、フ
ァシズム期ではなく、その前の帝国主義時代を見る必要がある
ことが説かれます。
そして、この本の裏表紙の帯にも引用されている「あとがき」
です。
やはり白眉は、この引用部分となります。
4本収録しています。
最初の2本の憲法に関するものは、実に斬新でした。
まずⅠでは、著者は憲法九条が改正されない要因として、後期
フロイトを援用しての、日本人の強迫神経症の一種としての
「無意識の罪悪感」を挙げています。
そして続くⅡでは、それが定着したのは、「徳川の平和」を破
ってきたことへの悔恨がベースにある為とされます。
憲法九条の強靭さが、納得できました。
次のⅢは、カントの平和論です。
カントの『永遠平和のために』は、『世界市民的見地における
普遍史の理念』とセットで読まれる必要があることが説かれま
す。
著者の前著である『世界共和国へ』(岩波新書)でお馴染みの、
憲法九条の実行は真の国連改革への「贈与」となることが、ここ
でも表明されています。
この講演は2006年と、1本だけ古いのですが、『世界共和国へ』
の出版と同年となります。
最後のⅣでは、新自由主義が取り上げられます。
ヘゲモニー国家の120年周期説が提示されています。
そこから、現在の世界状況を歴史的に類比するに際しては、フ
ァシズム期ではなく、その前の帝国主義時代を見る必要がある
ことが説かれます。
そして、この本の裏表紙の帯にも引用されている「あとがき」
です。
やはり白眉は、この引用部分となります。
2017年11月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
安部内閣による憲法改正が現実的になって来た今、憲法、特に第九条について考える良い機会になる本です。
著者が憲法第九条について考える様になったのは湾岸戦争が始まった頃。自衛隊の海外派兵を巡ってその制約となる憲法第九条の改正を目指す保守勢力の動きが盛んになった時です。
本書はその様な時代背景の中で著者により行われた4つの講演内容を再構築したもの。
第1章では憲法の強制と自発性について内村鑑三のキリスト教観に触れながら考察を進め、強制憲法と言われる現憲法が実は自発的なものであることをフロイトの言う超自我の概念から説明しています。
第2章では戦後憲法の成立過程を概観した上で、その中に徳川時代の先行構造への回帰が見られると断じています。
そして第3章ではその題名通りカントの国家観を中心に他の思想家の考え方を織り込んで彼の交換形態による国家観を発展させています。
そして憲法第九条に基づく自衛権の放棄を国際社会に対する贈与として国連に力を与える革命に繋がると論じています。
第4章では第3章で述べられた交換様式を社会システムへ展開して、更に歴史的段階に紐づけた上で歴史の反復の概念を導入。
その中で自由主義と帝国主義をヘゲモニーの座を巡る視点で捉えて、現代は衰退しつつあるアメリカに変わる新たなヘゲモニーを争う段階であるが戦争によるヘゲモニーは破滅への道を進む事になり、日本にできる唯一のことは憲法第九条を実行して行くことであると結んでいる。
平易な文章で様々な思想家や国家観、歴史観を分析しているので、その結論は兎も角、その手法に触れる事は知の刺激となる。
著者が憲法第九条について考える様になったのは湾岸戦争が始まった頃。自衛隊の海外派兵を巡ってその制約となる憲法第九条の改正を目指す保守勢力の動きが盛んになった時です。
本書はその様な時代背景の中で著者により行われた4つの講演内容を再構築したもの。
第1章では憲法の強制と自発性について内村鑑三のキリスト教観に触れながら考察を進め、強制憲法と言われる現憲法が実は自発的なものであることをフロイトの言う超自我の概念から説明しています。
第2章では戦後憲法の成立過程を概観した上で、その中に徳川時代の先行構造への回帰が見られると断じています。
そして第3章ではその題名通りカントの国家観を中心に他の思想家の考え方を織り込んで彼の交換形態による国家観を発展させています。
そして憲法第九条に基づく自衛権の放棄を国際社会に対する贈与として国連に力を与える革命に繋がると論じています。
第4章では第3章で述べられた交換様式を社会システムへ展開して、更に歴史的段階に紐づけた上で歴史の反復の概念を導入。
その中で自由主義と帝国主義をヘゲモニーの座を巡る視点で捉えて、現代は衰退しつつあるアメリカに変わる新たなヘゲモニーを争う段階であるが戦争によるヘゲモニーは破滅への道を進む事になり、日本にできる唯一のことは憲法第九条を実行して行くことであると結んでいる。
平易な文章で様々な思想家や国家観、歴史観を分析しているので、その結論は兎も角、その手法に触れる事は知の刺激となる。
2021年1月10日に日本でレビュー済み
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憲法は日本人が考えた天皇を含めた包括的な倫理観である
2016年5月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
憲法九条は、アメリカから押し付けられたものでしょうか。あるいは、日本人が自主的に選択したものでしょうか。柄谷(カラタニ)さんは、それ以前に、日本人の集団的無意識の問題だと唱えます。
無意識と言えばフロイトですが、フロイトによると、戦争を経験した人を悩ませる戦争神経症の患者さんに繰り返し起こる強迫(手を何度も洗わないではいられないとか、夢で思い出してうなされるとか)は、自分の持つ攻撃性への糾弾、そして、戦争への無意識の批判を意味するそうです。
それになぞらえて言えば、憲法九条は直近の侵略戦争批判ということになりそうですが、柄谷さんは「憲法九条が根ざすのは、明治維新以後七七年、日本人が目指してきたことの総体に対する悔恨」「『徳川の平和』を破って急激にたどった道程への悔恨」「徳川の『国制』こそ、戦後憲法九条の先行形態」と言うのです。ただし、九条が日本文化に根ざしているとか、徳川時代を賞賛するとかいうことではない、と付け加えられています。
徳川時代と第二次大戦後の日本にはいくつか共通点があると柄谷さんは言います。象徴天皇制、非軍事化、戦闘をしない武士と自衛隊員・・・。
こうした歴史の反復、あるいは集団的無意識は、人間の意識的な選択よりも根が深く、信頼ができるということでしょうか。
人間の意識を超えているという意味では、憲法九条には、ある種の良質な宗教性があるのかも知れません。柄谷さんによれば、右の頬を打たれれば左の頬を出す、というイエスの態度は、「贈与」の態度です。「しかし、それはお返しを迫るような贈与とは違います。たとえば、神に祈るとき、それはたんに祈るのであって、神に願いごとをかなえるよう迫ることではない。だから、私はこのような贈与を純粋贈与と呼びます」「日本の戦後憲法における戦争放棄は、敗戦国が強制的に武力を放棄させられることとは違います。それは何というべきでしょうか。私は、贈与と呼ぶべきだと、思います」(p.128)。日本はすすんで武力を放棄したという事実を、他国に贈与するのです。
歴史は良いことばかりを反復するわけではありませんし、無意識のなかには攻撃的なもの、私利私欲的なものが多いのではないかとも思います。
けれども、九条の文言は、薄っぺらな人間の考えではなく、歴史や無意識の分厚い良質の部分に根ざしているように思います。そして、九条は、諸外国への贈与であるばかりでなく、住民への贈与であり、さらに言えば、歴史、無意識から、わたしたち人間への贈与ではないでしょうか。
無意識と言えばフロイトですが、フロイトによると、戦争を経験した人を悩ませる戦争神経症の患者さんに繰り返し起こる強迫(手を何度も洗わないではいられないとか、夢で思い出してうなされるとか)は、自分の持つ攻撃性への糾弾、そして、戦争への無意識の批判を意味するそうです。
それになぞらえて言えば、憲法九条は直近の侵略戦争批判ということになりそうですが、柄谷さんは「憲法九条が根ざすのは、明治維新以後七七年、日本人が目指してきたことの総体に対する悔恨」「『徳川の平和』を破って急激にたどった道程への悔恨」「徳川の『国制』こそ、戦後憲法九条の先行形態」と言うのです。ただし、九条が日本文化に根ざしているとか、徳川時代を賞賛するとかいうことではない、と付け加えられています。
徳川時代と第二次大戦後の日本にはいくつか共通点があると柄谷さんは言います。象徴天皇制、非軍事化、戦闘をしない武士と自衛隊員・・・。
こうした歴史の反復、あるいは集団的無意識は、人間の意識的な選択よりも根が深く、信頼ができるということでしょうか。
人間の意識を超えているという意味では、憲法九条には、ある種の良質な宗教性があるのかも知れません。柄谷さんによれば、右の頬を打たれれば左の頬を出す、というイエスの態度は、「贈与」の態度です。「しかし、それはお返しを迫るような贈与とは違います。たとえば、神に祈るとき、それはたんに祈るのであって、神に願いごとをかなえるよう迫ることではない。だから、私はこのような贈与を純粋贈与と呼びます」「日本の戦後憲法における戦争放棄は、敗戦国が強制的に武力を放棄させられることとは違います。それは何というべきでしょうか。私は、贈与と呼ぶべきだと、思います」(p.128)。日本はすすんで武力を放棄したという事実を、他国に贈与するのです。
歴史は良いことばかりを反復するわけではありませんし、無意識のなかには攻撃的なもの、私利私欲的なものが多いのではないかとも思います。
けれども、九条の文言は、薄っぺらな人間の考えではなく、歴史や無意識の分厚い良質の部分に根ざしているように思います。そして、九条は、諸外国への贈与であるばかりでなく、住民への贈与であり、さらに言えば、歴史、無意識から、わたしたち人間への贈与ではないでしょうか。