着眼、着想は新鮮。気付きを与えてくれるところもある。しかし論、記述の進め方が強引で、結論に達せんがため一面誇張的になってはいないか。取り分け司馬遼の章に顕著。諄いし、貶めるための論、記述になっている嫌いがある。地下の司馬遼は、きっと苦笑を禁じ得ないであろう。
また司馬遼、小津、小松3人の日本の過去、現在、未来への向かい方に対し、では著者自身「日本の近現代の思想の歩み」を如何に捉え、「近現代の日本の思想史の大きな断面」を如何に見ているのか、となるとそれらが皆目見当たらない。法学専攻の大学教授にして、これは如何にと考える。テーマが大きく、重要なだけに、大いに疑問に思う。著者の意図が見えにくい分、気味悪くもある。因みに司馬遼が説いたのは、合理性と節操であろう。そのどちらもが、本書には欠けている。
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見果てぬ日本: 司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦 単行本 – 2015/11/27
片山 杜秀
(著)
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購入オプションとあわせ買い
総力戦か、持久戦か、それともロマンか? 「持たざる国」の戦い方とは――。原子力文明と未来における破局にこだわったSF作家、日常の光景をとらえ現在を描き続けた映画監督、現代を批判しながら過去にユートピアを求めた歴史小説家……巨匠たちの思想と方法論を通して、この国の過去・現在・未来のかたちを解き明かす。『未完のファシズム』で司馬遼太郎賞を受賞した著者による、瞠目の長篇評論!
- 本の長さ354ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2015/11/27
- 寸法14 x 2.6 x 19.8 cm
- ISBN-10410339711X
- ISBN-13978-4103397113
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2015/11/27)
- 発売日 : 2015/11/27
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 354ページ
- ISBN-10 : 410339711X
- ISBN-13 : 978-4103397113
- 寸法 : 14 x 2.6 x 19.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 517,206位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2015年12月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2021年2月5日に日本でレビュー済み
本書を読んで、小松左京という作家が何を目指していたのかをはじめて知ることができた。
現代版の「神曲」を著すべく、世界の"総体”を描こうとしていた。そして原子力のエネルギーを信奉し、原子力によって破滅が回避される物語を描いた。
作家としての原点に、青春時代に出会った神曲と原子力があったことがわかり、全貌を掴みかねていた小松左京への理解が一気に深まった。
現代版の「神曲」を著すべく、世界の"総体”を描こうとしていた。そして原子力のエネルギーを信奉し、原子力によって破滅が回避される物語を描いた。
作家としての原点に、青春時代に出会った神曲と原子力があったことがわかり、全貌を掴みかねていた小松左京への理解が一気に深まった。
2019年3月29日に日本でレビュー済み
このところ片山氏の作品を立て続けに読んでいるのだが、この作品も思った以上の力作。出版された直後は、「今さら司馬遼太郎、小松左京、そして小津なんて」というguts reactionで、読む気も起きなかったのだが、今回じっくり読んでみると、実に見事なテーゼ(未来・過去・現在という時間認識)の下で、この3人の特徴と果たした役割が整理されており、予想もしなかった新しい視点も提示されており、「まいりました」という感に堪えない。テーゼは、著者の「未完のファシズム」で提出された持たざる国、日本の総力戦構想に潜む拘束と陥穽の解明にもつながっており、それへの対応という優れて現代的な問題関心も背後に潜ませているのだ。
今ではもうかなり忘れ去られしまった小松の作品だが、そこに潜む終末論、科学技術信仰、そして総力戦体制に強みを発揮するソヴィエト共産主義への親和性(電力化こそが共産主義!)などが見事にえぐりだされており、その歴史性と限界が解明されていく。そしてもう一つ、粉々にそして華麗に粉砕されていくのが、司馬遼太郎の奇妙なロマンチシズムだ。決して明治中期以降の日本を描くことはなく、それ以降の日本が明治中期までの日本の延長線上にこそ生み出されという歴史の基本を無視し、事実を都合よく選択して自分の頭の中で作り上げた「過去の理想」との非歴史的な比較を通じて、ある意味で「無責任」で「ロマンティック」な歴史解釈のtemplateを多数の昭和期の日本人に提示した司馬遼太郎の夢想の発端が、その処女作と彼の経歴(旧制高校という階段からの落伍者)にさかのぼって解明されていくのだ。土地公有化というこれまたソヴィエト共産主義にも通底する夢想を唱えるようになった司馬のかなりの作品が、海と草原というある意味では「無主」の領域への憧憬に基づいて描かれているというのは慧眼だ。議論は、ロシアとモンゴルの矛盾した交錯と絡めながら、明治以降の近代史と絡めて展開されていく。そしてマイノリティを自任ながらも結局のところマジョリティの渇望を満たす役割を果たした存在が司馬だったというわけだ。
ある意味で著者が一番リアルな存在と捉えたのが小津安二郎だ。私自身は前の二人と違い、あまり小津の作品には触れていないので、映画批評を中心としたこの部分についてはコメントはできないが、笠置衆という役者の特徴と小津の従軍後の変貌を丁寧にたどりながら、日本という拘束と限界をふまえた中で、作品を作り上げた小津こそが、著者にとっての究極の現実的な理想としての「生き様」そして「政治」なのだ。
今ではもうかなり忘れ去られしまった小松の作品だが、そこに潜む終末論、科学技術信仰、そして総力戦体制に強みを発揮するソヴィエト共産主義への親和性(電力化こそが共産主義!)などが見事にえぐりだされており、その歴史性と限界が解明されていく。そしてもう一つ、粉々にそして華麗に粉砕されていくのが、司馬遼太郎の奇妙なロマンチシズムだ。決して明治中期以降の日本を描くことはなく、それ以降の日本が明治中期までの日本の延長線上にこそ生み出されという歴史の基本を無視し、事実を都合よく選択して自分の頭の中で作り上げた「過去の理想」との非歴史的な比較を通じて、ある意味で「無責任」で「ロマンティック」な歴史解釈のtemplateを多数の昭和期の日本人に提示した司馬遼太郎の夢想の発端が、その処女作と彼の経歴(旧制高校という階段からの落伍者)にさかのぼって解明されていくのだ。土地公有化というこれまたソヴィエト共産主義にも通底する夢想を唱えるようになった司馬のかなりの作品が、海と草原というある意味では「無主」の領域への憧憬に基づいて描かれているというのは慧眼だ。議論は、ロシアとモンゴルの矛盾した交錯と絡めながら、明治以降の近代史と絡めて展開されていく。そしてマイノリティを自任ながらも結局のところマジョリティの渇望を満たす役割を果たした存在が司馬だったというわけだ。
ある意味で著者が一番リアルな存在と捉えたのが小津安二郎だ。私自身は前の二人と違い、あまり小津の作品には触れていないので、映画批評を中心としたこの部分についてはコメントはできないが、笠置衆という役者の特徴と小津の従軍後の変貌を丁寧にたどりながら、日本という拘束と限界をふまえた中で、作品を作り上げた小津こそが、著者にとっての究極の現実的な理想としての「生き様」そして「政治」なのだ。