冒頭から数学の詩的根源性に誘われ、新しい発見の喜びがありました!
以下↓独創的な本文から、ほんの少し。
<はじめに>
人はみな、とうの昔に始まってしまった世界に、ある日突然生まれ落ちる。
自分が果たして「はじまり」からどれほど離れた場所にいるのか、それを推し量ることすらできない。
そんな人間が、1から数を数える。
・・・
これは、数学に再び、身体の伊吹を取り戻そうとする試みである。
全編を読み通すために、数学的な予備知識は必要ない。
数学とは何か、数学にとって身体とは何かを、ゼロから考え直していく旅である。
・・・
目次
第一章 数学する身体
・・・
数学者というと、夢中になって記号や数式を書いているイメージが湧くかもしれないが、
古代の数学者を想像するときは、その印象を改める必要がある。
彼らは書くというよりも描き、語る人々である。
そもそも古代ギリシャには、記号もなければ数式もない。
その思考を支えるテクノロジーは、わずかに「図」と「自然言語」だけである。・・・・
そうした道具を駆使しながら「証明」という、新しい数学的行為の形式を生み出していった。
<対話としての証明>
・・・ギリシャの数学者の思考の大部分は、数学者の外の空間に「露出」している。
それは他者に開かれ、ある種の公共性を帯びた思考である。科学史家の下村寅太郎はその代表作
『科学史の哲学』の中で次のように述べている。
ギリシャ人においては思惟は単なる意識における内的思惟ではない。
積極的に言えば、独立なる個人を前提し、公的に対する私的な思惟をゆるす立場ではない。
内心における思惟でなく、外的表出において成立する思惟である。常に言葉を持つ思惟である。
さらに具体的に言えば、単独孤独において行われる思惟ではなく、共同的対話的な思惟である。
かくの如き思惟あるいは思惟法が、証明的、論証的形態をとるのは自然であり、当然であろう。
けだし「証明」は本来個人が単独に私的に独断的に思惟することでなく、公開的に示し、
公共的な承認を要求することにほかならぬ。
ここで指摘されている通り「証明」は、 そもそも他者の存在を前提としている。
第二章 計算する機械
第三章 風景の始原
第四章 零の場所
終章 生成する風景
・・・
動かぬ芯としての心、変わらぬ中心としての数学などというものは幻想である。
心は変容し続けるものであり、数学もまた動き続けるものだからだ。
肝心なのは動かぬ中心ではなくて、絶えず動き続ける生成の過程そのものである。
だからこそ、
心を知るためにはまず心に「なる」こと、数学を知るためにはまず数学「する」こと。
そこから始めるしかないのである。
数学と数学する身体とは、これからも互いに互いを編みながら、
私たちの知らない新たな風景を、生み出し続けることになるだろう。
「証明」は、そもそも他者の存在を前提としている・・・、ああ、やっぱり!
「夫れ心は独り生ぜず、必ず縁に託して起こる。竜樹」
数学には、原初の物語の「証明」を追求する喜びが宿っているのではないか、
そんな文学的イメージが広がって、数学者の数学する態度に心(情緒)洗われました。
現代社会にあっては津田一郎先生のように、カオスの「証明」にもチャレンジしていただきたいですが、
そもそも文系にしろ、あえて数学を用いていると言わなくても、
簡単な数理的思考、経験に基づく数理的能力を絶えず働かせ、新たな"風景"と向き合っているわけです。
※通俗的な『吾輩は子猫である・総集編/友情と物語で解く複雑系の科学』との併読をおススメです。

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数学する身体 単行本 – 2015/10/19
森田 真生
(著)
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第15回小林秀雄賞受賞!
思考の道具として身体から生まれた数学。
身体を離れ、高度な抽象化の果てにある可能性とは?
音楽や美術のように、数学も表現の行為だ。
数学を通して「人間」に迫る、
30歳、若き異能の躍動するデビュー作!
思考の道具として身体から生まれた数学。
ものを数える手足の指、記号や計算……
道具の変遷は数学者の行為を変え、
記号化の徹底は抽象化を究めていく。
コンピュータや人工知能の誕生で、
人間の思考は変貌を遂げるのか?
論考はチューリング、岡潔を経て生成していく。
身体を離れ、高度な抽象化の果てにある、
新たな可能性を探る。
第一章 数学する身体
人工物としての〝数〟
道具の生態系
形や大きさ
よく見る
手許にあるものを掴みとる
脳から漏れ出す
行為としての数学
数学の中に住まう
天命を反転する
第二章 計算する機械
I 証明の原風景
証明を支える「認識の道具」
対話としての証明
II 記号の発見
アルジャブル
記号化する代数
普遍性の希求
「無限」の世界へ
「意味」を超える
「基礎」の不安
「数学」を数学する
III 計算する機械
心と機械
計算する数
暗号解読
計算する機械の誕生
「人工知能」へ
イミテーション・ゲーム
解ける問題と解けない問題
第三章 風景の始原
紀見峠へ
数学者、岡潔
少年と蝶
風景の始原
魔術化された世界
不都合な脳
脳の外へ
「わかる」ということ
第四章 零の場所
パリでの日々
精神の系図
峻険なる山岳地帯
出離の道
零の場所
「情」と「情緒」
晩年の夢
情緒の彩り
終章 生成する風景
思考の道具として身体から生まれた数学。
身体を離れ、高度な抽象化の果てにある可能性とは?
音楽や美術のように、数学も表現の行為だ。
数学を通して「人間」に迫る、
30歳、若き異能の躍動するデビュー作!
思考の道具として身体から生まれた数学。
ものを数える手足の指、記号や計算……
道具の変遷は数学者の行為を変え、
記号化の徹底は抽象化を究めていく。
コンピュータや人工知能の誕生で、
人間の思考は変貌を遂げるのか?
論考はチューリング、岡潔を経て生成していく。
身体を離れ、高度な抽象化の果てにある、
新たな可能性を探る。
第一章 数学する身体
人工物としての〝数〟
道具の生態系
形や大きさ
よく見る
手許にあるものを掴みとる
脳から漏れ出す
行為としての数学
数学の中に住まう
天命を反転する
第二章 計算する機械
I 証明の原風景
証明を支える「認識の道具」
対話としての証明
II 記号の発見
アルジャブル
記号化する代数
普遍性の希求
「無限」の世界へ
「意味」を超える
「基礎」の不安
「数学」を数学する
III 計算する機械
心と機械
計算する数
暗号解読
計算する機械の誕生
「人工知能」へ
イミテーション・ゲーム
解ける問題と解けない問題
第三章 風景の始原
紀見峠へ
数学者、岡潔
少年と蝶
風景の始原
魔術化された世界
不都合な脳
脳の外へ
「わかる」ということ
第四章 零の場所
パリでの日々
精神の系図
峻険なる山岳地帯
出離の道
零の場所
「情」と「情緒」
晩年の夢
情緒の彩り
終章 生成する風景
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2015/10/19
- 寸法13.8 x 2.2 x 19.8 cm
- ISBN-104103396512
- ISBN-13978-4103396512
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商品の説明
著者について
森田真生(モリタ・マサオ)
1985年、東京都生まれ。独立研究者。東京大学理学部数学科を卒業後、独立。
現在は京都に拠点を構え、在野で研究活動を続ける傍ら、全国各地で「数学の演奏会」や
「大人のための数学講座」など、ライブ活動を行っている。
1985年、東京都生まれ。独立研究者。東京大学理学部数学科を卒業後、独立。
現在は京都に拠点を構え、在野で研究活動を続ける傍ら、全国各地で「数学の演奏会」や
「大人のための数学講座」など、ライブ活動を行っている。
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2015/10/19)
- 発売日 : 2015/10/19
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 208ページ
- ISBN-10 : 4103396512
- ISBN-13 : 978-4103396512
- 寸法 : 13.8 x 2.2 x 19.8 cm
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2023年10月5日に日本でレビュー済み
数式は全く出てこない。数学史を題材とした哲学エッセイ。
岡潔が主役でその対比としてアラン・チューリングが登場。
著者は岡潔の「情緒」に共感しているようだ。
ギリシャ数学が計算主体では無く証明主体なのは、哲学者集団エレア派の影響があったのではないか?という説の紹介もある(^^;)
岡潔が主役でその対比としてアラン・チューリングが登場。
著者は岡潔の「情緒」に共感しているようだ。
ギリシャ数学が計算主体では無く証明主体なのは、哲学者集団エレア派の影響があったのではないか?という説の紹介もある(^^;)
2022年11月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
みなさん、数学をしましょう。
このあいだ「マイナス7キロの減量に成功!」という言葉を見かけて、数学的には増量しているな、と思い至りました。それが成功かどうかは情緒が決めることですね。数学、できているかなー。
みなさんも数学をしましょう。
このあいだ「マイナス7キロの減量に成功!」という言葉を見かけて、数学的には増量しているな、と思い至りました。それが成功かどうかは情緒が決めることですね。数学、できているかなー。
みなさんも数学をしましょう。
2016年5月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
世の中、「文転」はあっても、「理転」はなかなかない。
そんななか著者の森田さんは、東大文Ⅱから、工学・数学へ「理転」をし、
現在は数学のメディエーターとして、組織にも属さず、自営でご活躍されている。
そういった森田さんの世に臨む「スタンス」。私はこれがとても好きで、心から応援したい。
が、そのような気持ちがあるゆえ、この本は森田さんの「スタンス」に内容が負けていると
思えてしまう。いや、負けているどころか、その「スタンス」がなければ、本として成立
していなのではないかとすら思う。
他の方のレビューにもあるが、本書の内容は、はっきり言って巷間の数学啓蒙書にある
「逸話」の寄せ集め。「ああその話ね」みたいな感覚で読み進めてしまう。
それぞれの逸話に対して、著者独自の取材なり一次資料の検証があるわけでもない。
臆推なのだけれど、おそらく「理転」とはいえ森田さんが大学という場所で純粋数学に
触れたのは、学士入学から卒業までの2年間。しかも院ではなく学部、という点を考えると、
深く踏み込むほど数学の引出しがまだないのだろうと思う (もちろん今後には期待。
30歳を過ぎてなお数学的教養でレベルアップする論者があっていいじゃないか、と思う)
本書の核とも言うべき岡潔に関する論考にしても、Amazonで手軽に買えるような
岡が著した書籍の文章の一句一句を引用して、森田さんの一方的な解釈が延々とつづく。
そうした方法論の安上がりさも、成果が際立っていれば良いのだが
森田さんが繰り出す解釈はというと、岡の文章や、数学の思考過程を
「身体」や「情緒」というマジックワードにただ「関連づけ」して終わる。
「身体」や「情緒」の定義がユルユル (良くない意味で自然言語全開)なので
「何とでも言えるがな」状態なのである。
なんというか、森田さんは数学が好きというよりも数学者の「孤高性」とか
岡潔のような「在野」感、もっというとそういう「脱世間的ポジション」が好きなのだろうなと思う。
この本の登場人物を、例えば同じ和歌山の偉人・南方熊楠に置き換えても、
全く同じ展開へと運べそうな気配なのである。
おもしろいテーマであることは、間違いない。他の方もご指摘なさっているが、
AIとの絡みがやっぱり気になる。数学においてもっとも難解と呼ばれる抽象数学の先端では、
いまだに紙とペンの世界で、コンピュータのお世話になっていない。AIの過発達は、
この状況をどう変えるのか、いや変えないのか。
仮にAIが人間をおいてけぼりにして、抽象的な数学を自家発電で突き進むこと
ができるようになったなら、数学のアイデンティティとしてフォーカスされてきた
「抽象性≒難解性」はもはやアイデンティティとして影をひそめ、数学が与える
感情体験や身体感覚自体に、その種差性が求められる。
凡人が高校数学の問題を解くときに、やけに夢中になってしまうあの瞬間と、
天才数学者が問題に臨むときのその感覚が、案外、「数学」体験においてさして
変わらないことなのかも知れない、というような。さてその展開や、いかに。
繰り返すが、森田さんのその「スタンス」は、好きです。応援しています。
そんななか著者の森田さんは、東大文Ⅱから、工学・数学へ「理転」をし、
現在は数学のメディエーターとして、組織にも属さず、自営でご活躍されている。
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が、そのような気持ちがあるゆえ、この本は森田さんの「スタンス」に内容が負けていると
思えてしまう。いや、負けているどころか、その「スタンス」がなければ、本として成立
していなのではないかとすら思う。
他の方のレビューにもあるが、本書の内容は、はっきり言って巷間の数学啓蒙書にある
「逸話」の寄せ集め。「ああその話ね」みたいな感覚で読み進めてしまう。
それぞれの逸話に対して、著者独自の取材なり一次資料の検証があるわけでもない。
臆推なのだけれど、おそらく「理転」とはいえ森田さんが大学という場所で純粋数学に
触れたのは、学士入学から卒業までの2年間。しかも院ではなく学部、という点を考えると、
深く踏み込むほど数学の引出しがまだないのだろうと思う (もちろん今後には期待。
30歳を過ぎてなお数学的教養でレベルアップする論者があっていいじゃないか、と思う)
本書の核とも言うべき岡潔に関する論考にしても、Amazonで手軽に買えるような
岡が著した書籍の文章の一句一句を引用して、森田さんの一方的な解釈が延々とつづく。
そうした方法論の安上がりさも、成果が際立っていれば良いのだが
森田さんが繰り出す解釈はというと、岡の文章や、数学の思考過程を
「身体」や「情緒」というマジックワードにただ「関連づけ」して終わる。
「身体」や「情緒」の定義がユルユル (良くない意味で自然言語全開)なので
「何とでも言えるがな」状態なのである。
なんというか、森田さんは数学が好きというよりも数学者の「孤高性」とか
岡潔のような「在野」感、もっというとそういう「脱世間的ポジション」が好きなのだろうなと思う。
この本の登場人物を、例えば同じ和歌山の偉人・南方熊楠に置き換えても、
全く同じ展開へと運べそうな気配なのである。
おもしろいテーマであることは、間違いない。他の方もご指摘なさっているが、
AIとの絡みがやっぱり気になる。数学においてもっとも難解と呼ばれる抽象数学の先端では、
いまだに紙とペンの世界で、コンピュータのお世話になっていない。AIの過発達は、
この状況をどう変えるのか、いや変えないのか。
仮にAIが人間をおいてけぼりにして、抽象的な数学を自家発電で突き進むこと
ができるようになったなら、数学のアイデンティティとしてフォーカスされてきた
「抽象性≒難解性」はもはやアイデンティティとして影をひそめ、数学が与える
感情体験や身体感覚自体に、その種差性が求められる。
凡人が高校数学の問題を解くときに、やけに夢中になってしまうあの瞬間と、
天才数学者が問題に臨むときのその感覚が、案外、「数学」体験においてさして
変わらないことなのかも知れない、というような。さてその展開や、いかに。
繰り返すが、森田さんのその「スタンス」は、好きです。応援しています。
2021年12月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
刺激的な読書体験であった。関係性の中で数学が生まれたことに何気なく暮らしているだけでは気づけない。数学的アプローチが心の動きにさえ無関係ではないことを知った。
新しい何かを生み出す人は、読むべき!
新しい何かを生み出す人は、読むべき!
2015年11月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
面白く読みましたが、物足りなくもありました。
例えば第1章で紹介している人工進化の話は面白い(p32)。進化電子工学なるものによって作り出されたチップの話で、似たような例はダニエル・ヒリスの『思考する機械コンピュータ』で取り上げられていて、私もその本についてのここでのレビューでも触れたし、最近では松尾豊の『人工知能は人間を超えるか』へのレビューでも改めて紹介した。
でもこの著者は、話として紹介するだけで、あまり踏み込まないんですよね。それだったら私がここのレビューで触れたのと大差ないわけで、もう少し詳しく分析してほしかった。
また人工進化の話とも実は繋がるんだけど、著者はチューリングについて語りながら「間違う可能性」こそが「既存の機械と人の心を分かつ重大な能力」だと述べていて(p184)、私もそこは大賛成で、やはり上に触れた松尾豊の本へのレビューで似たようなことを書いたんだけど(全然賛成票が入らないw)、その話も大して深められずに放置されている印象がある。
機械に「学習」させるというアプローチはコネクショニズム系の人工知能の問題だと思うし、「間違う可能性」とヒューリスティックは表裏なんだけど、そういう切り込み方も皆無。
あるいは、この著者は、「無限」についてどう考えているんだろう。つまり、実無限を認めるのかどうかって問題で、数学と身体性を結びつける立論からすると、一言あっていいんじゃないか?
立場としてはどちらもありだと思うけど、その選択によって数学体系は大きく異なってくるはずで、その辺りも考えを聞きたかった。
あと、岡潔を持ち上げるのはいいんですが、話はほとんど「悟り」みたいな、論証不可能なところに踏み込んでしまい、「分かるヤツには分かる。分らないヤツには分からない」って話になっているんじゃないでしょうか?
著者は孤立した「脳」が全てを計算して決定するみたいな立場を批判して身体性や環世界を導入するんですけど、岡を論じている件りなんかを読んでいると、確かに環世界との身体的な交感は描かれているけれど、他我ってものが登場する余地を感じられないんですよね。社会性っていうか。そこは著者が批判気味に触れる西欧近代主義の方が視界に収めている気もする。
ま、最初に言ったように面白くなかったわけじゃないし、私が自分の関心で無いものねだりしている面もあると思うので、この辺にします。
今後に期待します、って感じかな。
例えば第1章で紹介している人工進化の話は面白い(p32)。進化電子工学なるものによって作り出されたチップの話で、似たような例はダニエル・ヒリスの『思考する機械コンピュータ』で取り上げられていて、私もその本についてのここでのレビューでも触れたし、最近では松尾豊の『人工知能は人間を超えるか』へのレビューでも改めて紹介した。
でもこの著者は、話として紹介するだけで、あまり踏み込まないんですよね。それだったら私がここのレビューで触れたのと大差ないわけで、もう少し詳しく分析してほしかった。
また人工進化の話とも実は繋がるんだけど、著者はチューリングについて語りながら「間違う可能性」こそが「既存の機械と人の心を分かつ重大な能力」だと述べていて(p184)、私もそこは大賛成で、やはり上に触れた松尾豊の本へのレビューで似たようなことを書いたんだけど(全然賛成票が入らないw)、その話も大して深められずに放置されている印象がある。
機械に「学習」させるというアプローチはコネクショニズム系の人工知能の問題だと思うし、「間違う可能性」とヒューリスティックは表裏なんだけど、そういう切り込み方も皆無。
あるいは、この著者は、「無限」についてどう考えているんだろう。つまり、実無限を認めるのかどうかって問題で、数学と身体性を結びつける立論からすると、一言あっていいんじゃないか?
立場としてはどちらもありだと思うけど、その選択によって数学体系は大きく異なってくるはずで、その辺りも考えを聞きたかった。
あと、岡潔を持ち上げるのはいいんですが、話はほとんど「悟り」みたいな、論証不可能なところに踏み込んでしまい、「分かるヤツには分かる。分らないヤツには分からない」って話になっているんじゃないでしょうか?
著者は孤立した「脳」が全てを計算して決定するみたいな立場を批判して身体性や環世界を導入するんですけど、岡を論じている件りなんかを読んでいると、確かに環世界との身体的な交感は描かれているけれど、他我ってものが登場する余地を感じられないんですよね。社会性っていうか。そこは著者が批判気味に触れる西欧近代主義の方が視界に収めている気もする。
ま、最初に言ったように面白くなかったわけじゃないし、私が自分の関心で無いものねだりしている面もあると思うので、この辺にします。
今後に期待します、って感じかな。