「生きる勇気」は「存在への勇気」とも訳されます。「存在」とは「ある」「いる」という意味ですが、人間の場合は「生きる」といってもいいでしょう。
「勇気」とは何でしょうか。ティリッヒは本書でそれを歴史上の諸思想に言及しつついくつかの角度から述べています。「生きる勇気」「存在への勇気」とは、「わたしたちが、死、不安、罪責を負っているにもかかわらず、絶対者(神)が肯定してくれることを、わたしたち自身が肯定する勇気」のことです。「わたしはだめだとしか思えないにもかかわらず、神がよしとしてくれていることを受けいれる勇気」のことです。自分を肯定することにも、神が自分を肯定してくれることを肯定することにも、勇気が必要なのです。
わたしたちは、全体の部分として生きることで、生きがいを持ち、自分を肯定しようとします。しかし、それは、個人としての自分が、全体の中で押しつぶされることにつながりかねません。ファシズム下のように。
あるいは、自分一人で生きることで、生きる勇気を持とうとします。しかし、それは、自分の周りの世界、人びととのつながりを失うことにもなりかねません。
このふたつを乗り越える道が、超越に根差した生き方です。集団でもなく自分でもなく、神を「生きる勇気の源泉」とする生き方です。
ティリッヒによれば、神は「存在それ自体」です。わたしたちは「存在それ自体」というよりは「存在している者」「存在させてもらっている者」「存在を与えられている者」です。そうすると、「存在への勇気」とは「存在する勇気」であると同時に、「神への勇気」であり「神を受け入れる勇気」であり、「神がわたしを受け入れてくれていることを受け入れる勇気」なのです。
「『不義なる者が義とされる』というルターの言葉、あるいはそれをより近代的な言葉でいえば、『受け容れられえないものが受け容れられる』ということだ・・・生きる勇気とは、われわれが受け容れられえない者であるにもかかわらず受け容れられているそのわれわれ自身をわれわれが受け容れる勇気である」(p.249)。
死、運命、自分の無意味さ、罪責を前にして、わたしたちは自分を受け容れられなくなってしまいます。けれども、ティリッヒは、存在は無も含む、と言います。つまり、死、絶望、失敗、不安、虚無も、存在に含まれるのです。すると、わたしたちはどこまでも存在の中にあることになります。それが神に受け容れられているということではないでしょうか。ダメなわたし、死ぬわたし、弱いわたし、価のないわたしも存在の中にある、神の中にある、そして、そのことが、それを受け入れることが、生きる勇気になる、とティリッヒは言うのです。
ここには、神との「出会い」があります。集団への「埋没」にでもなく、他からの「孤立」にでもなく、超越との「出会い」にこそ、わたしたちが生きる勇気、存在する勇気の源泉があるのです。わたしたちは、存在そのものである神との出会いによって、存在する者とされているのです。
「出会い」とは、わたしたちが死、絶望、虚無感にあっても存在の中に含まれることに気づき、その存在に、主よ、あなたはどなたですか、と語りかけ、わたしを満たしてください、と祈ることでありましょう。
野の花は、気づいていなくても、すでに土に根差しています。花は、自分の花びらだけでなく、根にも心を向けると良いのかもしれません。
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生きる勇気 (平凡社ライブラリー) 文庫 – 1995/6/12
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欧米を代表する神学者が、西欧哲学史の深い理解に支えられた独自の哲学的神学に基づき、現代人が抱える不安や苦悩、絶望を克服するための真の「勇気」を示す。解説=近藤勝彦
- 本の長さ296ページ
- 言語日本語
- 出版社平凡社
- 発売日1995/6/12
- 寸法11.1 x 1.3 x 16 cm
- ISBN-10458276102X
- ISBN-13978-4582761023
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
神学と哲学、宗教と心理学のはざまに立ちながら、現代人を脅かす無意味への深刻な不安を存在論的深みから理解し、苦悩と虚無と絶望からの救済=癒し、生きるための真の「勇気」を示す。
著者について
神学者
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上位レビュー、対象国: 日本
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2015年8月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
個人的には、信仰の本懐とは「地上の事象、そして自らの知識をすべて集めても希望が見いだせない、まさにその時、「それでもなお」この世界、そして自分自身=この世界自身を認め信じること」にあると考えます。その時に陥りやすい「恐怖」の発生について、そして「世界観と自我の拡大」について、それを歴史的背景を含めて解説されています。キリスト教における、カトリックの「参与=一部になることの意義」、宇宙観や社会モデルが物理によって変更した後に生まれた、プロテスタントの「内的な神を見いだすことの意義」のそれぞれについて、明快な意味づけが為されています。そして「宗教が説明する余地を失う」現代において、「それでもなお」神を見いだすとは何か、存在が、今、ここに「在る」ことに対する絶対的な存在(あなたが信じるものなら、神でも仏でもブラフマンでも、何と呼んでも構いません)の赦しを進んで受けることこそ、まさに「生きる勇気」の根源なのだ、と彼は述べます。そして思います。「多くを語らぬ神」の時代にあって、私達は、「見えない神」だけに拠って生きることが求められているけれども、「人」は互いに助け合い、労り合うためにあると実感できることの喜び。そのような喜びに、この世が欠けることなく満たされる日を求めること。そしてそのような良い理想、夢が、「このような悲惨な時代にあっても、なお」心に願えることの価値。そのような事を思い起こさせてくれる1冊です。絶版のようですが、ぜひ再版して欲しいです。
2009年12月30日に日本でレビュー済み
「世の中には何ひとつ確かなものなど無い」と、漠然とした不安に陥ったことは無いだろうか。
2つの世界大戦を経て、ティリッヒの生きた時代はまさにそうした不安が世界を覆い尽くしていた。
ティリッヒによれば、我々の不安には3つの類型がある。
運命と死の不安、空虚と無意味の不安、そして、罪責と断罪の不安。
3つの不安の内、とりわけ現代の我々を脅かしているものは、空虚と無意味の不安であるとティリッヒは言う。
10年と少し前、少年法改正の契機となった連続児童殺傷事件が世間を騒がせた頃、
とある中学生がTVの討論番組で「なぜ人を殺してはいけないのか」と尋ねたことが話題となった。
大人達が皆回答に詰まったのは言うまでもない。それまでは自明とされ、問われることも無かった常識が、
指摘され、解体され、意味を失ってゆく。我々もティリッヒの生きた時代と変わらず、不安の中を生きている。
このあらゆることの無意味さという絶望の只中にあって、
一体何が己の生き方を肯定する勇気、すなわち「生きる勇気」を与えると言うのだろうか。
その答えは、是非本書を手にとって確かめて戴きたい。
存在論哲学を学ばぬ者にとっては難解な本書ではあるが、
良書を読むことは幾ら時間をかけても、かけ過ぎということはないのだから。
2つの世界大戦を経て、ティリッヒの生きた時代はまさにそうした不安が世界を覆い尽くしていた。
ティリッヒによれば、我々の不安には3つの類型がある。
運命と死の不安、空虚と無意味の不安、そして、罪責と断罪の不安。
3つの不安の内、とりわけ現代の我々を脅かしているものは、空虚と無意味の不安であるとティリッヒは言う。
10年と少し前、少年法改正の契機となった連続児童殺傷事件が世間を騒がせた頃、
とある中学生がTVの討論番組で「なぜ人を殺してはいけないのか」と尋ねたことが話題となった。
大人達が皆回答に詰まったのは言うまでもない。それまでは自明とされ、問われることも無かった常識が、
指摘され、解体され、意味を失ってゆく。我々もティリッヒの生きた時代と変わらず、不安の中を生きている。
このあらゆることの無意味さという絶望の只中にあって、
一体何が己の生き方を肯定する勇気、すなわち「生きる勇気」を与えると言うのだろうか。
その答えは、是非本書を手にとって確かめて戴きたい。
存在論哲学を学ばぬ者にとっては難解な本書ではあるが、
良書を読むことは幾ら時間をかけても、かけ過ぎということはないのだから。
2001年7月5日に日本でレビュー済み
この本を読んだある女性が寸前で自殺を思いとどまり、後にティリッヒ自身に感謝を奉げたという逸話が残る名作。現代人が抱える「不安」に対する癒しのメッセージ。ティリッヒはスイスのカール・バルトと並ぶ20世紀最大の神学者。ドイツ生まれでナチスに反抗し国を追われる。ニューヨークの名門・ユニオン神学校で教鞭をとり、後にハーバード大学、シカゴ大学へと招聘される。かれの専門的著作は非常に難解だが、この作品は一般人に向けて書かれたものなので読みやすい。とはいえ、かれの幅広い哲学的教養が随所に見られる教養書でもある。ティリッヒは不安の分析から始め、不安を乗り越える実存的勇気を提示する。キリスト教神学者でありながら、宗教用語で語らず、全ての主義・宗派を超えたメッセージである。あらゆる不安・疑惑・罪責感にもかかわらず自己を肯定していく超越的勇気はティリッヒ自身が生きた勇気でもある。ぜひ御一読。
2002年6月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ティリッヒはまず「勇気」の構造を明らかにする。
「勇気とは『それにもかかわらず』自己を肯定することである」と。そして「それ」とは無と不安であるとする(ここに彼の精神医学の立場がある)。
そして「存在する勇気」には「個人として存在する勇気」と「全体の部分として存在する勇気」があり、実存主義を「個人として生きる勇気」として位置付け(ここに彼の哲学の視点がある)、また「全体の部分として存在する勇気」は神への参与でなければならないと訴える(ここに彼の神学者としての考えがある)。その上で、2つの勇気がそれぞれ「世界の喪失」と「自己の喪失」という結果に終わってきた人類の歴史を俯瞰する。
最後にあるべき「生きる勇気」を考察する。
「不安を臡ª塊·±自身のなかへ引きうける勇気は、人間の自己に固有な力あるいはこの世界が持つ力などよりももっと大きな『存在それ自身の力』に根ざしていなければならない」「生きる勇気とは信仰の一つの表現である」との立場から、「神を超える神」への絶対的信仰について考察し、「生きる勇気とは、神が懐疑の不安のなかで消滅してしまったときいにこそあらわれ出る神に基礎付けられている」と締めくくる。
<コメント>
平易な言葉で書かれてはいるが、存在論としての西洋哲学の全体像と、基本的な神学の構造を理解していなければ、彼の思想の偉大さと課題は理解できないであろう。ましてや、彼が残した課題を21世紀に生きる人間として受け止めて行くことは不可能である。
彼は英語が苦手であったにもかかわらずドイツからアメリカに亡命後は英語で本を書いた。この本もその一つである。そのため、訳は英語訳を基本としながら、独語と食い違うところは独語訳を優先している。とても丁寧に訳されていると感じる。
ただし、「The Courage to be」を「生きる勇気」と訳したのは、勇み足であろう。ここでいう「be」は「生きる」というよりかは、西洋哲学の存在論の立場に立った「存在する」というのが正しい。そして訳者もそれを知っていながら、あえてこのように訳している。
よって、タイトルから勘違いしてはならない、この本は安直な「癒し系」の哲学書であるどころか、不安と無を自己自身の中へ引き受ける「絶望する勇気」を要求する容赦ない哲学であり、その上で彼の考えに従えば「神を超えた神=存在そのものの力に既に受け入れられていることを受け入れる」ことを感じる事ができる者のみが「癒される」のである。あくまで彼が神学者であることを忘れてはならない。「本質存在から阻害された人間を全体の根底の一部へとならしめる」という彼の㡊!現代人の救済」は、西洋哲学独特の二元論的な存在論の範疇から出ようとしない彼の限界があることを、冷静に受け止めなければならない。
「勇気とは『それにもかかわらず』自己を肯定することである」と。そして「それ」とは無と不安であるとする(ここに彼の精神医学の立場がある)。
そして「存在する勇気」には「個人として存在する勇気」と「全体の部分として存在する勇気」があり、実存主義を「個人として生きる勇気」として位置付け(ここに彼の哲学の視点がある)、また「全体の部分として存在する勇気」は神への参与でなければならないと訴える(ここに彼の神学者としての考えがある)。その上で、2つの勇気がそれぞれ「世界の喪失」と「自己の喪失」という結果に終わってきた人類の歴史を俯瞰する。
最後にあるべき「生きる勇気」を考察する。
「不安を臡ª塊·±自身のなかへ引きうける勇気は、人間の自己に固有な力あるいはこの世界が持つ力などよりももっと大きな『存在それ自身の力』に根ざしていなければならない」「生きる勇気とは信仰の一つの表現である」との立場から、「神を超える神」への絶対的信仰について考察し、「生きる勇気とは、神が懐疑の不安のなかで消滅してしまったときいにこそあらわれ出る神に基礎付けられている」と締めくくる。
<コメント>
平易な言葉で書かれてはいるが、存在論としての西洋哲学の全体像と、基本的な神学の構造を理解していなければ、彼の思想の偉大さと課題は理解できないであろう。ましてや、彼が残した課題を21世紀に生きる人間として受け止めて行くことは不可能である。
彼は英語が苦手であったにもかかわらずドイツからアメリカに亡命後は英語で本を書いた。この本もその一つである。そのため、訳は英語訳を基本としながら、独語と食い違うところは独語訳を優先している。とても丁寧に訳されていると感じる。
ただし、「The Courage to be」を「生きる勇気」と訳したのは、勇み足であろう。ここでいう「be」は「生きる」というよりかは、西洋哲学の存在論の立場に立った「存在する」というのが正しい。そして訳者もそれを知っていながら、あえてこのように訳している。
よって、タイトルから勘違いしてはならない、この本は安直な「癒し系」の哲学書であるどころか、不安と無を自己自身の中へ引き受ける「絶望する勇気」を要求する容赦ない哲学であり、その上で彼の考えに従えば「神を超えた神=存在そのものの力に既に受け入れられていることを受け入れる」ことを感じる事ができる者のみが「癒される」のである。あくまで彼が神学者であることを忘れてはならない。「本質存在から阻害された人間を全体の根底の一部へとならしめる」という彼の㡊!現代人の救済」は、西洋哲学独特の二元論的な存在論の範疇から出ようとしない彼の限界があることを、冷静に受け止めなければならない。
2012年1月3日に日本でレビュー済み
ティリッヒは、ドイツ生まれのプロテスタント系の神学者・哲学者。ドイツでは、ホルクハイマーやアドルノに影響を与え、その後アメリカに渡り、現代を代表する神学者となった。
ティリッヒは、”勇気”についての、プラトンからニーチェまでのヨーロッパにおける考え方を紹介し、それを、”「それにもかかわらず」自己自身を肯定すること”と定義する。
その勇気を妨げる不安について、運命と死の不安、空虚と無意味の不安、罪責と断罪の不安の3つに類型化し、その不安に立ち向かい、生きていくための勇気について、哲学、医学、進学の様々な側面から論じている。
全体の部分として生きる勇気、個人として生きる勇気、を紹介し、現代における不安とは、無意味の不安が主であり、それを乗り越えるには、神を越える神といきる勇気(絶対的信仰)が必要であると締めくくっている。
日本では、経済状況が長く停滞しており、多くの人が将来に不安を感じている。そんな人々は、この書から何かを学べるのではないだろうか。
しかし、ヨーロッパ中心の記述であるため、日本人にはちょっとわかりにくい内容が多いのは残念だ。
東洋においては、釈迦牟尼が、ティリッヒの上げる3つの不安と非常に良く似た考え方で、人生を苦であるとし、そこから仏教が興った。
残念ながら、その後の仏教は、釈迦牟尼の思想とはかけ離れてしまったが、釈迦牟尼の本来の思想の系譜をたどると、日本人にとっての”生きる勇気”が見つかるかもしれない。
ティリッヒは、”勇気”についての、プラトンからニーチェまでのヨーロッパにおける考え方を紹介し、それを、”「それにもかかわらず」自己自身を肯定すること”と定義する。
その勇気を妨げる不安について、運命と死の不安、空虚と無意味の不安、罪責と断罪の不安の3つに類型化し、その不安に立ち向かい、生きていくための勇気について、哲学、医学、進学の様々な側面から論じている。
全体の部分として生きる勇気、個人として生きる勇気、を紹介し、現代における不安とは、無意味の不安が主であり、それを乗り越えるには、神を越える神といきる勇気(絶対的信仰)が必要であると締めくくっている。
日本では、経済状況が長く停滞しており、多くの人が将来に不安を感じている。そんな人々は、この書から何かを学べるのではないだろうか。
しかし、ヨーロッパ中心の記述であるため、日本人にはちょっとわかりにくい内容が多いのは残念だ。
東洋においては、釈迦牟尼が、ティリッヒの上げる3つの不安と非常に良く似た考え方で、人生を苦であるとし、そこから仏教が興った。
残念ながら、その後の仏教は、釈迦牟尼の思想とはかけ離れてしまったが、釈迦牟尼の本来の思想の系譜をたどると、日本人にとっての”生きる勇気”が見つかるかもしれない。