1980年代、主に「週刊ファイト」を愛読していました。
彼の生い立ち、デビューから日本マット上陸、全日から新日への移籍、そして1988年7月の「あの日」に至るまで。
断片的には知っていたブロディの人となりを、時系列に沿って再確認することが出来て、とても感慨深いものがあります。
本著の白眉は、計7回(1984年から1988年)、約90頁(当時の彼の動静記述を含む)に渡る、ご本人へのインタビューだと思います。
著者への信頼感もあるのでしょう、彼の人間哲学が存分に語られていると感じました。
中でも、「いちばん大切なことは、わたしにとってレスリングはライブラリーフッド(生活の糧)」「闘うことによって家族を守ってきた」「レスリングは生活をかけたビジネス」と言い切り、それを維持するプレッシャーとプライドについて吐露する場面には、強い感銘を受けました。
「真のプロフェッショナル」とは何か。
ジャンルは異なりますが、球史に残る大打者であり「オレ流」こと、落合博満さんの言葉と重なるリアリズムがあると思えます。
彼は1946年6月18日生まれですので、1979年1月の初来日時で32歳。
映像を振り返ると、「超獣」スタイルは未完成であるものの、フィジカル的には当時が全盛期だった様に見えます。
とは言え、海外映像と比較すると、来日の際は常にベスト・コンディションで望んでいてくれたことが解りますね。
(アメフトのキャリアを断念させた膝の痛みは相当なものだった様です。海外では足を引き摺る場面もありましたが、日本ではそんな姿は一切見せませんでした)
因みに、海外では彼のプロフィールが「主戦場:日本」と紹介されている映像もあり、ファンとして率直に嬉しいです。
「レスラーにとって必要なものは、フィットネス、クレバー、タフネス、テクニック、ハイ・スピリッツ。私はその全てを持っている」
1988年4月15日、天龍源一郎選手との三冠統一戦において、実況の倉持アナが、ブロディのその言葉を紹介していました。
「日本人のプロレス観」があるとすれば、ブロディこそ、それに最も適う外国人レスラーだと思います。
米国ではショーに過ぎないプロレスであっても、日本の観客はその中に一瞬の真実を見出すことを喜びとしていた。
「プロレスは底が丸見えの底なし沼」という、「週刊ファイト」編集長であった井上義啓さんの言葉が想起されます。
願わくば、本著の表紙写真は日本マットにおける彼のイメージに基づくものであって欲しかった。
1985年3月21日、後楽園ホールにおける新日本プロレスへの電撃参戦。
ベートーヴェンの「運命」が流れる中、チャコール・グレーのスーツ姿、右手に花束、左手にチェーンを持って彼は登場しました。
揺るがぬ意思、高いプライド、そして高揚感に溢れた知性的な眼差し。
当時のプロレス各誌を飾った、花束を胸に抱き入場を待つ写真、あるいは記者会見に臨む写真は、彼の真の姿を表すものだと今も思います。
とは言え、「プロレス革命」を標榜し、日本マットに最上位の価値観を持ってくれた希代のレスラーの生き様を、よくぞ描き切ってくれました。
「30年目の帰還」に、鎮魂の意を込めて合掌させて頂きます。
(2018/12/6追記)
本著を幾度か読み返していますが、いつも、巻末に記されている小さなエピソードに目が留まります。
今や格闘技界では聖地の一つとも言える都内の某ステーキハウスは、そもそもブロディが開拓したものだそうですね。
その店内で彼が大物外人レスラーとケンカになった時、ジャンボ鶴田さんが駆けつけて仲裁したというのです。
お店側からすればトンデモナイ出来事だったでしょうが、互いに最高のライバルと認め合った二人のプライベートでの素顔を想像すると感無量です。
この30年の間に、出身の国内外を問わず、日本(特に全日マット)で活躍された数多くのレスラーが物故者となられました。
その方々の魂にも、黙祷させて頂きたいと思います。