『偶然性・アイロニー・連帯(Contingency, Irony, and Solidarity)』は、アメリカ合衆国の哲学者、リチャード・ローティの本。ローティがユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(1986年)とケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ(1987年)で行った2組の講義が基になっている。本書は1989年にケンブリッジ大学出版局から出版された。
ローティはジョン・デューイのプラグマティズムや分析哲学、ポストモダン哲学などに影響を受けたネオプラグマティズムの立場から近代哲学史を批判的に再検討し、現代の哲学や政治に関する議論に広範な影響を与えた人物として知られている。
ローティは本書で、人々が自分の正しさを他者と共有することが困難になった現代のポストモダン状況において「人間の連帯」はいかにして可能かというテーマを扱っている。
ローティによると、ヘーゲル以後の歴史主義的な哲学においては、人間の言語や良心、共同体は歴史的な偶然性の産物と見なされ、客観的な真理や普遍的な人間性といったプラトン主義的な観念は棄却される。
その結果として、知識人は自分の信念や欲求が歴史的な偶然性の産物であることを知っているため、自分の正しさに対して常に疑いを抱くことを強いられる。ローティはそれを「アイロニズム」と呼んでいる。
ローティは「リベラル」という言葉の定義をラトビアのリガ生まれの政治学者のジュディス・シュクラーから借りている。シュクラーによると、残酷さこそがわれわれがなしうる最悪のことだと考える人々がリベラルである。
ローティによると、アイロニストにとっては私的なものと公共的なものを統合する理論は存在せず、自己創造の欲求と人間の連帯の欲求は共約不可能である。それゆえ、政治的にリベラルであろうとするアイロニストは私的な自律と他者に対する残酷さの回避をいかに両立させるかという問題に直面する。それは、リベラルなアイロニズムはいかにして可能かという問いである。
ローティは以上のような見地から、リベラルなアイロニストにとっての「リベラル・ユートピアの可能性」を探る。
ローティは、人間の連帯は他者に対する残酷さ、すなわち他者の苦痛と屈辱に対する感性の拡張によって達成されるべき目標であると主張する。
「私のいうユートピアにおいては、人間の連帯は『偏見』を拭い去ったり、これまで隠されていた深みにまで潜り込んだりして認識されるべき事実ではなく、むしろ、達成されるべき一つの目標だ、とみなされることになる。この目標は探究によってではなく想像力によって、つまり見知らぬ人びとを苦しみに悩む仲間だとみなすことを可能にする想像力によって、達成されるべきなのである。連帯は反省によって発見されるのではなく、創造されるのだ。私たちが、僻遠の他者の苦痛や屈辱に対して、その詳細な細部にまで自らの感性を拡張することによって、連帯は創造される。」(「序論」、齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳、岩波書店、2000年)
人間の連帯はいかにして可能かという本書の中心的なテーマは、人間の本性や理性と良心の普遍性といった啓蒙の合理主義の理念を措定できないわれわれにとっては一種のアポリア(難題)である。
ヒューマニズムがわれわれが実際に所属している個々の集団や共同体に根を持たない空疎な概念だとすると、われわれの他者に対する憐れみは、自己愛や共同体のエゴの延長にすぎないのか? われわれの倫理は一体何に基礎を置くべきなのか?
ローティは本書でこの倫理的相対主義の問題をリベラリズムの立場から考究している。読者に自らの倫理観についての内省を促す、刺激的な本である。
本書はジャーゴンを排した平易な言葉で書かれている。幅広い読者層に対して開かれた、読みやすい本である。
ローティが言う目標としての「人間の連帯」は、カントが『純粋理性批判』の付論で論じた「統制的理念」(regulative Idee)として理解することができる。つまり、われわれは単一の倫理観に基づいて「われわれ」という感覚を全人類に対して拡張することは決してできないという意味ではそれは到達不可能な目標だが、倫理的な実践においては有益かつ不可欠な理念である。
本書に対して寄せられる主な反論の一つは、本書が私的なものと公共的なものの分離を強調し過ぎているということである。ローティは私的なものと公共的なものの共約不可能性を強調しているが、実際には人は他者との関係を通して個人となる。本書は個人を社会的な諸関係の産物として捉える視点を欠いている。
本書におけるローティの哲学観と政治的な姿勢にはおおむね共感するが、読んでいて疑問に感じたのは、(ローティが最終章で述べている)「われわれ」の拡張が共同体の拡張主義に似ているように思える点である。
「僻遠の他者の苦痛や屈辱に対する感性の拡張」は、共同体の拡張でも他者の我有化でもない筈である。それは共同体の利害や自民族中心主義を超えた他者との出会いの過程における、「社会的諸関係の総体」(マルクス『フォイエルバッハに関するテーゼ』)としての自己の再編であるべきである。
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偶然性・アイロニー・連帯: リベラル・ユートピアの可能性 単行本 – 2000/10/26
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人間の連帯は,いかにして可能になるのか
- 本の長さ456ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2000/10/26
- 寸法12.8 x 2.6 x 18.8 cm
- ISBN-104000004492
- ISBN-13978-4000004497
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内容(「MARC」データベースより)
哲学者ローティが、ありうべき社会はいかに構想されるかという課題を、永遠に自由を実現してゆく終わりなき過程である「リベラル・ユートピア」として描き直す。93年刊「哲学と自然の鏡」に続く政治哲学的帰結。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2000/10/26)
- 発売日 : 2000/10/26
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 456ページ
- ISBN-10 : 4000004492
- ISBN-13 : 978-4000004497
- 寸法 : 12.8 x 2.6 x 18.8 cm
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2010年11月2日に日本でレビュー済み
正しくあることと、幸せであることは両立できないこともあるし、それでもいいじゃないか。私は私の好きな生き方を最大限享受するし、他人の好みや生き方をとやかく言うつもりはない。私的な楽しみと、公的、政治的な正しさは一貫する必要はない。そんなことで悩むのはばかげている。ただし、残酷さを最大限に避けるように努力しよう。仲間や他者の苦しみやそこここにある残酷さを避けるためならば、私自身の私的な幸福を少しだけ我慢しよう。そして残酷さを避けるように、仲間や他者を説得しよう。メタファーを使って。
くだけすぎかもしれないが、基本的にはローティの勧める<生き方>は以上のようなものであり、徹頭徹尾、プラグマティックであり、正義と善を別の領域に置く、リベラリズムの理想である。
さらにローティは、そのようなリベラルの考え方は、現代の西欧社会に歴史を通じて偶然出来上がってきた考え方、思想であり、論理的に証明できたり、絶対的に正しい考えであるともいえない、とまで言い切る。
残酷さを回避することを最大の正義として、その正しさを確信しつつも、その考え方の歴史的偶然性と自己の考えの正しさの限界に自覚的であり、公的領域と私的領域の衝突を極力避けようとするリベラルなアイロニストの<生き方>は、連帯の基礎としてはとても弱いように思えるが、私自身は大変共感を覚える。
また、リベラリズムが、西欧社会コミュニティの歴史に根差した思想であるとの主張は、いわゆるコミュニタリズムとリベラリズムは本質的に対立するものではなく、リベラリズムもまた、西欧社会というコミュニティのなかで培われてきた考え方であることを再認識させてくれる。
翻訳は日本語として読みやすく、配慮が行き届いていると感じられる。
正義論の論争をはなれて、少し自分の頭でゆっくりと考えてみたいときにおススメできる傑作だと思います。
くだけすぎかもしれないが、基本的にはローティの勧める<生き方>は以上のようなものであり、徹頭徹尾、プラグマティックであり、正義と善を別の領域に置く、リベラリズムの理想である。
さらにローティは、そのようなリベラルの考え方は、現代の西欧社会に歴史を通じて偶然出来上がってきた考え方、思想であり、論理的に証明できたり、絶対的に正しい考えであるともいえない、とまで言い切る。
残酷さを回避することを最大の正義として、その正しさを確信しつつも、その考え方の歴史的偶然性と自己の考えの正しさの限界に自覚的であり、公的領域と私的領域の衝突を極力避けようとするリベラルなアイロニストの<生き方>は、連帯の基礎としてはとても弱いように思えるが、私自身は大変共感を覚える。
また、リベラリズムが、西欧社会コミュニティの歴史に根差した思想であるとの主張は、いわゆるコミュニタリズムとリベラリズムは本質的に対立するものではなく、リベラリズムもまた、西欧社会というコミュニティのなかで培われてきた考え方であることを再認識させてくれる。
翻訳は日本語として読みやすく、配慮が行き届いていると感じられる。
正義論の論争をはなれて、少し自分の頭でゆっくりと考えてみたいときにおススメできる傑作だと思います。
2020年11月10日に日本でレビュー済み
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他の人が良いレビューをしているので、敢えて解説は避けたい。この本は1回目読んで5年間放置していて、最近再読したにもかかわらず、私個人にとってはもう「必要の無い」本になってしまった。理由は、過去にこだわりを捨てたからだ。個人的に思ったことを書きたい。
こういう大学教授は専門を抱えると、その分野の用語でもって論理を展開しないといけない無意識的な<不自由>を抱えてしまう。もっと相対化して、現代思想とか哲学的用語とかのタームを捨てきってしまえば、もっとわかりやすい内容に出来たはずだ。それをなぜ出来なかったのか?
リチャード・ローティはすでに亡くなっているので、それももう叶わないが、正しくあろうとすることと、共同体の中で正義と善を違うものとして考え、私的な小さな幸福と、メタファーを使い直接的な説得を避け、残酷にならないように努めて、一貫した正しさなど必要なく、小さくとも幸せを感じれば良いと、こう書けば多くの人が納得出来たはずだ。
著者はマルセル・プルーストやナボコフ、オーウェルなどの小説家を遡上に挙げて、そこから垣間見える<偶有性>に対して意識的であろうとし、その偶然の「出会い」を大切にし、必然性によるごりごりの論理を破綻させてやろうとする戦略の様だ。だが、それをするあまりに、言い回しがかなりまどろっこしくなっている気がする。個人的にこの辺は読むに堪えない。★を減らした理由の大部分はここにある。
私の「嫌い」な哲学者(とも認めないが)ジャック・デリダの様に論理をずらす(脱構築)などして、「偶有性」でもって哲学的必然性を解体していこうと目論んでいる感じがする。このやり方は、日本なら自称・デリダリアンの東浩紀氏が自らのオタク性でもって、デリダや思想の「ツール」を使ったて切り刻んだ「批評料理」の拘りに近い。こういうやり方は、スラヴォイ・ジジェクがジャック・ラカンの理論でもってヒッチコックやスティーヴン・キングなどを取り上げ、ラカンの理論と思想を「ツール」として使って、矛盾や論理的破綻を浮上させ「方法」が有名である。
古くは、蓮實重彦氏が提案した「倒錯者の戦略」(参照:「 表層批評宣言 」)と呼ばれるもので、徹底的にその「虚偽」を過剰に「演技」してその論理的矛盾を浮上させて破綻させる方法だ。もっとわかりやすく言えば村松友視「 私、プロレスの味方です―金曜午後八時の論理 」の様な本にあるプロレス的方法の方がもっと良い。
「物語」、共同体内にある「共同幻想」、忖度すること、「不自由」な「演技」を強いられたリチャード・ローティなりの「遊び」なのだろう(この場合の「遊び」は<遊戯>という意味と思索と表現の「あいだ」にある本質的空隙も意味する)。
けれど、私はこういう本を読む前に、故郷や言語などの正真正銘、過去の拘りを捨てた反哲学者・シオランを読んでしまったが故に、もっとはっきり言いたかったことがあるのがわかってくる。シオランを読むと、晩年には多幸感に包まれたニーチェに愛想を尽かして、徹底的な最悪主義を貫いていき、リベラルなユートピアなど唾棄している。非常に貧困に苦しんだシオランは、一方では論壇など全く考えなくて良い立場にあったことが大きい。
リチャード・ローティは、そこまで何故「希望」を持とうとするかと、疑問に思う。逆にそれ故にアイロニー(表面的な立ち居振る舞いによって本質を隠すこと、無知の状態を演じること)に満ちているとも思われる。本来は絶望していたのかもしれないが、職業上それは難しかったのだろう。リチャード・ローティもある意味可哀そうな気になる。何より論壇「政治」に巻き込まれると「本当に思っていること」が実は言えなくなるのだ。
こういう大学教授は専門を抱えると、その分野の用語でもって論理を展開しないといけない無意識的な<不自由>を抱えてしまう。もっと相対化して、現代思想とか哲学的用語とかのタームを捨てきってしまえば、もっとわかりやすい内容に出来たはずだ。それをなぜ出来なかったのか?
リチャード・ローティはすでに亡くなっているので、それももう叶わないが、正しくあろうとすることと、共同体の中で正義と善を違うものとして考え、私的な小さな幸福と、メタファーを使い直接的な説得を避け、残酷にならないように努めて、一貫した正しさなど必要なく、小さくとも幸せを感じれば良いと、こう書けば多くの人が納得出来たはずだ。
著者はマルセル・プルーストやナボコフ、オーウェルなどの小説家を遡上に挙げて、そこから垣間見える<偶有性>に対して意識的であろうとし、その偶然の「出会い」を大切にし、必然性によるごりごりの論理を破綻させてやろうとする戦略の様だ。だが、それをするあまりに、言い回しがかなりまどろっこしくなっている気がする。個人的にこの辺は読むに堪えない。★を減らした理由の大部分はここにある。
私の「嫌い」な哲学者(とも認めないが)ジャック・デリダの様に論理をずらす(脱構築)などして、「偶有性」でもって哲学的必然性を解体していこうと目論んでいる感じがする。このやり方は、日本なら自称・デリダリアンの東浩紀氏が自らのオタク性でもって、デリダや思想の「ツール」を使ったて切り刻んだ「批評料理」の拘りに近い。こういうやり方は、スラヴォイ・ジジェクがジャック・ラカンの理論でもってヒッチコックやスティーヴン・キングなどを取り上げ、ラカンの理論と思想を「ツール」として使って、矛盾や論理的破綻を浮上させ「方法」が有名である。
古くは、蓮實重彦氏が提案した「倒錯者の戦略」(参照:「 表層批評宣言 」)と呼ばれるもので、徹底的にその「虚偽」を過剰に「演技」してその論理的矛盾を浮上させて破綻させる方法だ。もっとわかりやすく言えば村松友視「 私、プロレスの味方です―金曜午後八時の論理 」の様な本にあるプロレス的方法の方がもっと良い。
「物語」、共同体内にある「共同幻想」、忖度すること、「不自由」な「演技」を強いられたリチャード・ローティなりの「遊び」なのだろう(この場合の「遊び」は<遊戯>という意味と思索と表現の「あいだ」にある本質的空隙も意味する)。
けれど、私はこういう本を読む前に、故郷や言語などの正真正銘、過去の拘りを捨てた反哲学者・シオランを読んでしまったが故に、もっとはっきり言いたかったことがあるのがわかってくる。シオランを読むと、晩年には多幸感に包まれたニーチェに愛想を尽かして、徹底的な最悪主義を貫いていき、リベラルなユートピアなど唾棄している。非常に貧困に苦しんだシオランは、一方では論壇など全く考えなくて良い立場にあったことが大きい。
リチャード・ローティは、そこまで何故「希望」を持とうとするかと、疑問に思う。逆にそれ故にアイロニー(表面的な立ち居振る舞いによって本質を隠すこと、無知の状態を演じること)に満ちているとも思われる。本来は絶望していたのかもしれないが、職業上それは難しかったのだろう。リチャード・ローティもある意味可哀そうな気になる。何より論壇「政治」に巻き込まれると「本当に思っていること」が実は言えなくなるのだ。
2004年3月1日に日本でレビュー済み
本書の序文は、上述のタイトル文で始まる。プラトンというヘレニズムの代表者と欧米哲学の背後を支えるキリスト教の主張を、公共的にも私的にも融合しようとする<欲張り(筆者)>にして、現実的で政治的な枠組みで人間と哲学の関係を検討しようとする。しかし、この二律背反的なテーマを棄て去り、公と私が共約不可能と居直られたときに、どう対応すれば良いのか、というのが本書が試そうとする議論である。そして、この矛盾に満ちた課題を解読するために、リベラル・アイロニストという人種を設定する。リベラルとは「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のこと」と考える人であり、アイロニストは「重要な信念や欲求は、時間と偶然性を超えた何ものかに関連して」いるという考えすら捨て去れる唯名論者を指す。
現実世界のアポリアを、徹底的な合理論で再検討しようとする著者の戦略的な議論は、まさに目から鱗が落ちる思いである。援用されるテキストも哲学者から文学者まで、哲学の終焉が、文学の始原と謂わんばかりに「言語論的転回(Linguistic turn: 言語それ自体への回帰)」を実行してみせ、実り豊かな議論のシンフォニーが響く。味読に値する1冊である。
現実世界のアポリアを、徹底的な合理論で再検討しようとする著者の戦略的な議論は、まさに目から鱗が落ちる思いである。援用されるテキストも哲学者から文学者まで、哲学の終焉が、文学の始原と謂わんばかりに「言語論的転回(Linguistic turn: 言語それ自体への回帰)」を実行してみせ、実り豊かな議論のシンフォニーが響く。味読に値する1冊である。