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母性のディストピア 単行本 – 2017/10/26
宇野 常寛
(著)
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宮崎駿、富野由悠季、押井守--戦後アニメーションの巨人たちの可能性と限界はどこにあったのか?
宮崎駿論4万字、富野由悠季論10万字、押井守論10万字の作家論を中核に、アニメから戦後という時代の精神をいま、総括する。
そして『シン・ゴジラ』『君の名は』『この世界の片隅に』――現代のアニメ・特撮が象徴するさまよえるこの国の想像力はどこにあるのか?
『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』とその射程を拡大してきた著者の新たな代表作にして、戦後サブカルチャー論の決定版。
【目次】
序にかえて
第1部 戦後社会のパースペクティブ
第2部 戦後アニメーションの「政治と文学」
第3部 宮崎駿と「母性のユートピア」
第4部 富野由悠季と「母性のディストピア」
第5部 押井守と「映像の世紀」
第6部 「政治と文学」の再設定
結びにかえて
【著者略歴】
宇野 常寛(うの つねひろ)
1978年生まれ。評論家。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)など多数。企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部非常勤講師、立教大学兼任講師。
宮崎駿論4万字、富野由悠季論10万字、押井守論10万字の作家論を中核に、アニメから戦後という時代の精神をいま、総括する。
そして『シン・ゴジラ』『君の名は』『この世界の片隅に』――現代のアニメ・特撮が象徴するさまよえるこの国の想像力はどこにあるのか?
『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』とその射程を拡大してきた著者の新たな代表作にして、戦後サブカルチャー論の決定版。
【目次】
序にかえて
第1部 戦後社会のパースペクティブ
第2部 戦後アニメーションの「政治と文学」
第3部 宮崎駿と「母性のユートピア」
第4部 富野由悠季と「母性のディストピア」
第5部 押井守と「映像の世紀」
第6部 「政治と文学」の再設定
結びにかえて
【著者略歴】
宇野 常寛(うの つねひろ)
1978年生まれ。評論家。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)など多数。企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部非常勤講師、立教大学兼任講師。
- 本の長さ512ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日2017/10/26
- ISBN-104087711196
- ISBN-13978-4087711196
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登録情報
- 出版社 : 集英社 (2017/10/26)
- 発売日 : 2017/10/26
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 512ページ
- ISBN-10 : 4087711196
- ISBN-13 : 978-4087711196
- Amazon 売れ筋ランキング: - 34,282位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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- - 514位社会一般関連書籍
- - 8,284位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。
著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『原子爆弾とジョーカーなき世界』(メディアファクトリー)、『楽器と武器だけが人を殺すことができる』(KADOKAWA/メディアファクトリー)。
共著に石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント――この国の未来をつくる七つの対話』(共編著、河出書房新社)など。
企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)。NHK討論番組への出演、J-WAVE「THE HANGOUT」月曜日レギュラーパーソナリティとしても知られる。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年10月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本の状態は説明通りでした。配達日も予定通りに届きました。
2019年1月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
あまりよいやり方ではないかもしれないが、2冊の本を往復してみた。本書ともう一冊、アパルトヘイトや内戦という厳しい現実の世界で、紛争解決に取り組んできたアダム・カヘン氏の『Power and Love(邦題は『未来を変えるためにほんとうに必要なこと』英治出版、2010年)。
なぜこんなことをしたかといえば、書き出しが全く同じだったから。
『Power and Love』の内容は、実践には粘り強い修練が必要だが、シンプルだ。ひとことで言えば「愛のない力は暴力であり、力のない愛は無力だ。だから両方を使って、よろめきながらでも、前に進んでいこう」ということ。このことについて、南アフリカやコロンビア、グアテマラ、イスラエルなど、様々なステークホルダーが、厳しい対立構造にある中での経験、それも成功だけでなく失敗も含めて語られている。
他方、『母性のディストピア』の内容は、戦後アニメーションを基軸にしているが、政治や文学、テクノロジーが重ねられており、複雑だ。ただ、これから僕らが向き合うべき大きな問いが提示されていると思う。
『Power and Love』と『母性のディストピア』を往復しながら考えこんでしまったのは、戦後の日本ではパワー(父性)が挫折をしてしまったこと。だとすると、世界が変わる両輪の片方を、日本にいる僕らは欠いているということではないのか。
父性と母性がねじれてしまった日本を『母性のディストピア』はどう論じているのだろうか。
日本に降り立ったマッカーサー元帥は「日本(の民主主義)は12歳の少年」と言ったが、そこには幼いということだけでなく、成長する未来があるという意味もあった。
『母性のディストピア』では、しかしながら、その後、日本は成長・成熟することなかった。そして、そのことがアニメの世界の天才達の作品から読み取れるとする。
軍隊を持たず、したがって外交を大きく欠いたまま、経済成長に邁進してきた戦後の日本社会において、民主主義が成熟するというのは、ストレートな問いではなかった。それゆえ、アニメという虚構が一定の役割を引き受けてきた。
ひとつは、成長しない身体=キャラクターを用いて成熟を描く「アトムの命題」。もう一つは、虚構でしか描くことのできない現実(例:戦争)を捉える「ゴジラの命題」。ともに50年代に現れた。
70年代後半になり、アニメは児童向けから、若者文化を牽引するようになり、国民的なものとなった。平成が終わる今、定期的にアニメを見る国民は3千万人に達している。
その流れを決定づけた機動戦士ガンダム(79年)は、宇宙世紀という緻密な虚構で「ゴジラの命題」に応えつつ、少年のままでも、ニュータイプという認識力の拡大によって相互理解が深まる革新によって、「アトムの命題」にも突破口を開くものだった。それは「世の中ではなく自己の内面を変える」という世界的な若者文化の潮流にものっていた。
距離を超えて人間が他の人間の存在を感じ、触れ合うという富野由悠季が描いた世界は、30数年後に、ソーシャルネットワークが張り巡らされた現代の情報社会を予見している。
しかし「12歳」が成熟する物語は生まれなかった。そして、1作目以降のガンダムでは、認識力の拡大によって、相互理解が進むことよりも、逆にエゴのぶつかり合いや分断が強まる、という世界観となった。
アニメが日本社会を映し出す優れた鏡だとすれば、日本において、父性は矮小化し、母性は肥大化したと言える。
『母性のディストピア』には父性と母性の上に、重要な概念が重ねられている。「映像の世紀」の終わりだ。そこから、吉本隆明の『共同幻想論』に接続するし、直接触れられてはいないがハラリの『サピエンス』にもつながってくる。
人間がどのように幻想/物語/虚構を共有するか。そしてそのことの変化がどのように起こっているかということだ。
20世紀は「映像の世紀」と言われる。映像が、さまざまな物語を、これまでとは比較にならない深さと広さで共有することを可能にした。戦後の日本では、天才が集まったアニメーションが、独自の進化を遂げながら、大きな役割を果たした。そうした前提に本書は立っている。
1995年は、Windows95によってインターネットの普及が加速し、映像の世紀の終わりが始まり、大きな物語の共有が難しくなっていったと言われている。
この年に、地下鉄サリン事件が起こった。アニメブームが頂点に達したと言われる1984年に設立された「オウム神仙の会」が、精神世界だけで充足できずに、現実世界で毒ガスを撒くというテロ行為に及んでしまったのはなぜなのか。それは「虚構」が機能しなくなったからだという。
同じ95年に社会現象となった『新世紀エヴァンゲリオン』は、これまでのアニメの潮流を引き継ぎつつ、最終2話で主人公が自己開発セミナーで内面を吐露し、周囲の人物から承認されて終わるという、制作的には破綻していると言われる結末となった。虚構としてのアニメは終わりを迎えた。
一連の考察から導き出される課題認識は、ガンダム、エヴァンゲリオンを通して、「自己の内面が変わることが、世界の変革につながる」という物語が、日本では力を失ったということ。
アニメ、それも一部の作品と社会をここまで重ねられるのか。そうした疑問も当然あると思うけれど、僕はこの問題提起はとても重要だと思っている。
平成は、日本がグローバル化と情報化に失敗した時代、と『母性のディストピア』では総括している。そして、政治にしろ、経済にしろ、この国の現実について語るべきものは何もないと。そこで、虚構、その中でももっとも才能が集まったアニメーションについて戦後にさかのぼって考察したのが本書だ。しかし、アニメでつむがれた虚構では、父性は矮小化/母性は肥大化し、自己の変化から世界が変わるという希望も失われた。さらに、その虚構の力も1995年を境に、機能しなくなり始め、20余年が経つ。
平成が終わるいま、2つの問いがあると思う。
・「映像の世紀」は、意識の高い「市民」と受け身の「大衆」を生んだ。「ネットワークの世紀」といわれる今世紀は、どのように虚構/物語が共有され、それは何を生むのだろうか。
・その物語では、父性と母性のバランスは、どのように語られるのだろうか。
なぜこんなことをしたかといえば、書き出しが全く同じだったから。
『Power and Love』の内容は、実践には粘り強い修練が必要だが、シンプルだ。ひとことで言えば「愛のない力は暴力であり、力のない愛は無力だ。だから両方を使って、よろめきながらでも、前に進んでいこう」ということ。このことについて、南アフリカやコロンビア、グアテマラ、イスラエルなど、様々なステークホルダーが、厳しい対立構造にある中での経験、それも成功だけでなく失敗も含めて語られている。
他方、『母性のディストピア』の内容は、戦後アニメーションを基軸にしているが、政治や文学、テクノロジーが重ねられており、複雑だ。ただ、これから僕らが向き合うべき大きな問いが提示されていると思う。
『Power and Love』と『母性のディストピア』を往復しながら考えこんでしまったのは、戦後の日本ではパワー(父性)が挫折をしてしまったこと。だとすると、世界が変わる両輪の片方を、日本にいる僕らは欠いているということではないのか。
父性と母性がねじれてしまった日本を『母性のディストピア』はどう論じているのだろうか。
日本に降り立ったマッカーサー元帥は「日本(の民主主義)は12歳の少年」と言ったが、そこには幼いということだけでなく、成長する未来があるという意味もあった。
『母性のディストピア』では、しかしながら、その後、日本は成長・成熟することなかった。そして、そのことがアニメの世界の天才達の作品から読み取れるとする。
軍隊を持たず、したがって外交を大きく欠いたまま、経済成長に邁進してきた戦後の日本社会において、民主主義が成熟するというのは、ストレートな問いではなかった。それゆえ、アニメという虚構が一定の役割を引き受けてきた。
ひとつは、成長しない身体=キャラクターを用いて成熟を描く「アトムの命題」。もう一つは、虚構でしか描くことのできない現実(例:戦争)を捉える「ゴジラの命題」。ともに50年代に現れた。
70年代後半になり、アニメは児童向けから、若者文化を牽引するようになり、国民的なものとなった。平成が終わる今、定期的にアニメを見る国民は3千万人に達している。
その流れを決定づけた機動戦士ガンダム(79年)は、宇宙世紀という緻密な虚構で「ゴジラの命題」に応えつつ、少年のままでも、ニュータイプという認識力の拡大によって相互理解が深まる革新によって、「アトムの命題」にも突破口を開くものだった。それは「世の中ではなく自己の内面を変える」という世界的な若者文化の潮流にものっていた。
距離を超えて人間が他の人間の存在を感じ、触れ合うという富野由悠季が描いた世界は、30数年後に、ソーシャルネットワークが張り巡らされた現代の情報社会を予見している。
しかし「12歳」が成熟する物語は生まれなかった。そして、1作目以降のガンダムでは、認識力の拡大によって、相互理解が進むことよりも、逆にエゴのぶつかり合いや分断が強まる、という世界観となった。
アニメが日本社会を映し出す優れた鏡だとすれば、日本において、父性は矮小化し、母性は肥大化したと言える。
『母性のディストピア』には父性と母性の上に、重要な概念が重ねられている。「映像の世紀」の終わりだ。そこから、吉本隆明の『共同幻想論』に接続するし、直接触れられてはいないがハラリの『サピエンス』にもつながってくる。
人間がどのように幻想/物語/虚構を共有するか。そしてそのことの変化がどのように起こっているかということだ。
20世紀は「映像の世紀」と言われる。映像が、さまざまな物語を、これまでとは比較にならない深さと広さで共有することを可能にした。戦後の日本では、天才が集まったアニメーションが、独自の進化を遂げながら、大きな役割を果たした。そうした前提に本書は立っている。
1995年は、Windows95によってインターネットの普及が加速し、映像の世紀の終わりが始まり、大きな物語の共有が難しくなっていったと言われている。
この年に、地下鉄サリン事件が起こった。アニメブームが頂点に達したと言われる1984年に設立された「オウム神仙の会」が、精神世界だけで充足できずに、現実世界で毒ガスを撒くというテロ行為に及んでしまったのはなぜなのか。それは「虚構」が機能しなくなったからだという。
同じ95年に社会現象となった『新世紀エヴァンゲリオン』は、これまでのアニメの潮流を引き継ぎつつ、最終2話で主人公が自己開発セミナーで内面を吐露し、周囲の人物から承認されて終わるという、制作的には破綻していると言われる結末となった。虚構としてのアニメは終わりを迎えた。
一連の考察から導き出される課題認識は、ガンダム、エヴァンゲリオンを通して、「自己の内面が変わることが、世界の変革につながる」という物語が、日本では力を失ったということ。
アニメ、それも一部の作品と社会をここまで重ねられるのか。そうした疑問も当然あると思うけれど、僕はこの問題提起はとても重要だと思っている。
平成は、日本がグローバル化と情報化に失敗した時代、と『母性のディストピア』では総括している。そして、政治にしろ、経済にしろ、この国の現実について語るべきものは何もないと。そこで、虚構、その中でももっとも才能が集まったアニメーションについて戦後にさかのぼって考察したのが本書だ。しかし、アニメでつむがれた虚構では、父性は矮小化/母性は肥大化し、自己の変化から世界が変わるという希望も失われた。さらに、その虚構の力も1995年を境に、機能しなくなり始め、20余年が経つ。
平成が終わるいま、2つの問いがあると思う。
・「映像の世紀」は、意識の高い「市民」と受け身の「大衆」を生んだ。「ネットワークの世紀」といわれる今世紀は、どのように虚構/物語が共有され、それは何を生むのだろうか。
・その物語では、父性と母性のバランスは、どのように語られるのだろうか。
2017年11月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は著者宇野常寛がデビュー作『ゼロ年代の想像力』(以下『ゼロ想』)から繰り返し論じて
きた『母性のディストピア』をタイトルにも掲げ上梓した渾身の1作だ。
『ゼロ想』から数えると約10年の軌跡が伺える。
あいも変わらず挑発的で前置き(書き出し)が長いのは宇野の芸風だがポップカルチャー全般の
膨大なジャンルを押さえる宇野の網羅性を超える者はいない。
ただ本書には作品(登場人物も含めて)への著者の好き嫌いが随所に入っているのでそれを
前提に本書を論考した方がいいだろう。
全編に渡って繰り広げられる左右からの戦後民主主義への批判/擁護による論壇の形骸化の
指摘は決して珍しくはないし戦後の本質を語るには虚構というジャンルにおいてしか語れない
その現状は既に言及されているが戦後サブカルチャー史における「矮小化した父性」と「肥大化
した母性」という表現を用いることで戦後民主主義への批判/擁護をここまで定義したのは
本書の功績だろう。
そして3人の日本アニメーションの巨匠、宮崎駿、富野由悠季、押井守を本格的に比較作家論
として取り上げたのも初めての試みと言っていい。
偶然とはいえ押井守著『誰も語らなかったジブリを語ろう』が同時期に刊行されたことも興味
深い案件だ。
作品論における各論はともかくとして作家論においては補足することはほぼない。
富野由悠季がアニメーションをはじめて勧善懲悪から解き放ったーパンドラの箱を開けたことに
ついてもロボットアニメであることを逆手に取った富野のアプローチに多くの識者は否定しない
だろう。
各々の母性原理へのアプローチも三者三様で宮崎論には(嘘の希望で塗り固めた)
「母性のユートピア(否定しているわけではない)」、富野論には(真実ではあるが絶望をつきつける)
「母性のディストピア(文字通りの本題だが)」と皮肉を込めて命名したサブタイトルには十分愛情が
感じられる。
母性原理における押井論は後述するが理想的な共同体を信じることが出来ないという押井の述懐に
宇野がつい肩入れすることは分らなくもない。
比較作家論はどうしても自分の主張に近い方に肩入れしてしまう。それが批評家の業であり宿命だ。
無論その自覚はあるだろう。宇野の自覚はそれだけではない。宇野自身のねじれだ。
核の傘に隠れ12歳の少年のままで成熟出来ない日本があるからこそ、家父長制度というマチズモ
への批判と同時に去勢されたくないという意思も共存している。
このねじれも宇野の芸風の1つだとあえて言おう。
だが本書には何か欠けているものがある。
当事者であるはずの高橋留美子論がないのだ。
繰り返すが本書のタイトルで『ゼロ想』から掲げていた主題なのに結局はまるでお茶を濁した感じで
押井論の章に高橋の話を入れているだけなのはどういうことか?
実は文芸誌『新潮』連載時には高橋を論じた章があったにもかかわらず紙幅の都合で今回は男性
作家で統一させ別の機会に一冊にまとめたいという気持ちはあるらしい。
つまり収録されなかったのだ。
宇野に父性への警戒感だけでなく母性への警戒感をも持ち合わせていることはわかったし、
「矮小化した父性」の経緯もよく分かったが、これでは「肥大化した母性」と「矮小化した父性」の結託を
完全に論じることは出来ないし高橋の作風が母性原理支配に至った経緯はどうなるのか?
宇野が1章で看破したようにその理由は家庭内の性差別的な構造に依存していることは明白だが
その経緯は戦後民主主義批判を代表する江藤淳的なマチズモか戦後民主主義擁護を代表する
村上春樹的なマチズモなのかは筆者の読解力では分からずじまいだ。
その理由を解明することが宇野のライフワークなのではないのか?
押井初期代表作『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』の原作者が高橋であるだけでなく
宇野が富野と高橋はセットと言い切るなら尚更だ。主題に辿りつけていないのであれば本書の
タイトルは『父性のユートピア』にして続刊にこそ『母性のディストピア』を命名したらどうか?
1冊としてまとめるのもよし3年後の文庫本でもよし、収録されなかった部分の大量の加筆増補の
続刊をぜひとも期待する。
今さらの追記だが表紙の装丁のデザインも斬新で 目を引く。
テーマに直結する表紙のシアン(父性)からマゼンダ(母性)へのグラデーションは平積み前提の
宇野らしい強気な戦略だ。
普通の陳列棚に置かれたら書店で手に取る読者があの背表紙を見つけにくいのではないかと
思うが余計なお世話か。
きた『母性のディストピア』をタイトルにも掲げ上梓した渾身の1作だ。
『ゼロ想』から数えると約10年の軌跡が伺える。
あいも変わらず挑発的で前置き(書き出し)が長いのは宇野の芸風だがポップカルチャー全般の
膨大なジャンルを押さえる宇野の網羅性を超える者はいない。
ただ本書には作品(登場人物も含めて)への著者の好き嫌いが随所に入っているのでそれを
前提に本書を論考した方がいいだろう。
全編に渡って繰り広げられる左右からの戦後民主主義への批判/擁護による論壇の形骸化の
指摘は決して珍しくはないし戦後の本質を語るには虚構というジャンルにおいてしか語れない
その現状は既に言及されているが戦後サブカルチャー史における「矮小化した父性」と「肥大化
した母性」という表現を用いることで戦後民主主義への批判/擁護をここまで定義したのは
本書の功績だろう。
そして3人の日本アニメーションの巨匠、宮崎駿、富野由悠季、押井守を本格的に比較作家論
として取り上げたのも初めての試みと言っていい。
偶然とはいえ押井守著『誰も語らなかったジブリを語ろう』が同時期に刊行されたことも興味
深い案件だ。
作品論における各論はともかくとして作家論においては補足することはほぼない。
富野由悠季がアニメーションをはじめて勧善懲悪から解き放ったーパンドラの箱を開けたことに
ついてもロボットアニメであることを逆手に取った富野のアプローチに多くの識者は否定しない
だろう。
各々の母性原理へのアプローチも三者三様で宮崎論には(嘘の希望で塗り固めた)
「母性のユートピア(否定しているわけではない)」、富野論には(真実ではあるが絶望をつきつける)
「母性のディストピア(文字通りの本題だが)」と皮肉を込めて命名したサブタイトルには十分愛情が
感じられる。
母性原理における押井論は後述するが理想的な共同体を信じることが出来ないという押井の述懐に
宇野がつい肩入れすることは分らなくもない。
比較作家論はどうしても自分の主張に近い方に肩入れしてしまう。それが批評家の業であり宿命だ。
無論その自覚はあるだろう。宇野の自覚はそれだけではない。宇野自身のねじれだ。
核の傘に隠れ12歳の少年のままで成熟出来ない日本があるからこそ、家父長制度というマチズモ
への批判と同時に去勢されたくないという意思も共存している。
このねじれも宇野の芸風の1つだとあえて言おう。
だが本書には何か欠けているものがある。
当事者であるはずの高橋留美子論がないのだ。
繰り返すが本書のタイトルで『ゼロ想』から掲げていた主題なのに結局はまるでお茶を濁した感じで
押井論の章に高橋の話を入れているだけなのはどういうことか?
実は文芸誌『新潮』連載時には高橋を論じた章があったにもかかわらず紙幅の都合で今回は男性
作家で統一させ別の機会に一冊にまとめたいという気持ちはあるらしい。
つまり収録されなかったのだ。
宇野に父性への警戒感だけでなく母性への警戒感をも持ち合わせていることはわかったし、
「矮小化した父性」の経緯もよく分かったが、これでは「肥大化した母性」と「矮小化した父性」の結託を
完全に論じることは出来ないし高橋の作風が母性原理支配に至った経緯はどうなるのか?
宇野が1章で看破したようにその理由は家庭内の性差別的な構造に依存していることは明白だが
その経緯は戦後民主主義批判を代表する江藤淳的なマチズモか戦後民主主義擁護を代表する
村上春樹的なマチズモなのかは筆者の読解力では分からずじまいだ。
その理由を解明することが宇野のライフワークなのではないのか?
押井初期代表作『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』の原作者が高橋であるだけでなく
宇野が富野と高橋はセットと言い切るなら尚更だ。主題に辿りつけていないのであれば本書の
タイトルは『父性のユートピア』にして続刊にこそ『母性のディストピア』を命名したらどうか?
1冊としてまとめるのもよし3年後の文庫本でもよし、収録されなかった部分の大量の加筆増補の
続刊をぜひとも期待する。
今さらの追記だが表紙の装丁のデザインも斬新で 目を引く。
テーマに直結する表紙のシアン(父性)からマゼンダ(母性)へのグラデーションは平積み前提の
宇野らしい強気な戦略だ。
普通の陳列棚に置かれたら書店で手に取る読者があの背表紙を見つけにくいのではないかと
思うが余計なお世話か。
2017年10月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は日本の戦後が終わった、現代においてカルチャーはどうあるべきかを論じたものである。
以下は本書から得たインスピレーションを備忘的にまとめたものであり、正確に本書を再現したものではない。
まず日本の戦後サブカルチャーとは何だったか。それは母性のディストピアを暴露告発することにあった。母性のディストピアとは母性(文学、フィクション、サブカルチャーなど)の上に、内にしか父性(政治、言論、ノンフィクション)が存在しないという状況である。つまり父性の実質的な不在を暴露告発するカルチャーだったのだ。
翻って現代とは父が父性(偽りの)を演じなくなった社会である。父はその偽りを認め、自らはフィクションの中でしか生きれないのだと宣言してしまった様相である。これにより、父性は巧妙に母に内在化することになる。父を失った母はその暴露告発性を失い、カウンターカルチャーとしての魅力を失ってしまう。
父の敗北は母の氾濫をもたらした。母は時に父性を内在化している。これが母性のディストピアの二次形態、現代的な形態である。このような現代においてフィクションはフィクションとして自己完結的に質のいいものを作るか。既に公になった実質的な父の不在をノスタルジックに告発するか。現代への対応を模索し失敗するか。という様相である。
そして、戦後ではないという認識は、戦後、巧妙に父を遠ざけていたシステムが崩れ、わたしのすぐ近くに母のふりをした父が混在する状況を表している。ここでの父は戦争であり、テロや人災が隣り合わせの状況をあらわす。
このような状況で何が必要か。著者はここで新たな登場人物を設定する。それが兄弟姉妹である。親子の関係はフィクションであれノンフィクションであれ、親から提供されるもの、カルチャーであったが、兄弟姉妹とはパートナーとして、共に考えカルチャーを作っていく存在だ。
つまり、著者はもはや偽りの父も戦後を牽引した母も必要ではなく、母から学んだ創造性を武器に、兄弟姉妹とカルチャーを試行錯誤しながら作っていくことが必要だと考えているのではないか。
40万字にも及ぶ本書は戦後を牽引してきたサブカルチャーの母の弔いであり、母の元を発つことへの決意なのだろう。
i.masato
以下は本書から得たインスピレーションを備忘的にまとめたものであり、正確に本書を再現したものではない。
まず日本の戦後サブカルチャーとは何だったか。それは母性のディストピアを暴露告発することにあった。母性のディストピアとは母性(文学、フィクション、サブカルチャーなど)の上に、内にしか父性(政治、言論、ノンフィクション)が存在しないという状況である。つまり父性の実質的な不在を暴露告発するカルチャーだったのだ。
翻って現代とは父が父性(偽りの)を演じなくなった社会である。父はその偽りを認め、自らはフィクションの中でしか生きれないのだと宣言してしまった様相である。これにより、父性は巧妙に母に内在化することになる。父を失った母はその暴露告発性を失い、カウンターカルチャーとしての魅力を失ってしまう。
父の敗北は母の氾濫をもたらした。母は時に父性を内在化している。これが母性のディストピアの二次形態、現代的な形態である。このような現代においてフィクションはフィクションとして自己完結的に質のいいものを作るか。既に公になった実質的な父の不在をノスタルジックに告発するか。現代への対応を模索し失敗するか。という様相である。
そして、戦後ではないという認識は、戦後、巧妙に父を遠ざけていたシステムが崩れ、わたしのすぐ近くに母のふりをした父が混在する状況を表している。ここでの父は戦争であり、テロや人災が隣り合わせの状況をあらわす。
このような状況で何が必要か。著者はここで新たな登場人物を設定する。それが兄弟姉妹である。親子の関係はフィクションであれノンフィクションであれ、親から提供されるもの、カルチャーであったが、兄弟姉妹とはパートナーとして、共に考えカルチャーを作っていく存在だ。
つまり、著者はもはや偽りの父も戦後を牽引した母も必要ではなく、母から学んだ創造性を武器に、兄弟姉妹とカルチャーを試行錯誤しながら作っていくことが必要だと考えているのではないか。
40万字にも及ぶ本書は戦後を牽引してきたサブカルチャーの母の弔いであり、母の元を発つことへの決意なのだろう。
i.masato
2019年3月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
カバーデザインの麗しさについ表紙買い。表題と目次をみてフェミニズム的論考もあるかと期待して(誤解して)読み始めたが、さにあらず。内容は興味深かったが反江藤淳「成熟と喪失」論は著者と同年代の評論家も取り上げているので原本も読んでみようと思う。