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ホモ・ルーデンス (中公文庫 ホ 1-7) 文庫 – 2019/1/22

4.0 5つ星のうち4.0 46個の評価

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「人間は遊ぶ存在である」。人間のもろもろのはたらき、生活行為の本質は、人間存在の根源的な様態は何かとの問いに、二十世紀最大の文化史家が確信した結論がここにある。文化人類学と歴史学を綜合する雄大な構想で論証し、遊びの退廃の危機に立つ現代に冷徹な診断を下す記念碑的名著。
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商品の説明

著者について

ホイジンガ
一八七二年、オランダに生まれる。一九〇五年、フローニンゲン大学教授。一九一五年、ライデン大学外国史・歴史地理学教授。古代インド学で学位を得たが、のちにヨーロッパ中世史に転じ、一九一九年に『中世の秋』を発表し、大きな反響を呼ぶ。ライデン大学学長をも務める。主な著書に『エラスムス』『朝の影のなかに』『ホモ・ルーデンス』など。一九四五年、死去。

高橋英夫
昭和五年(一九三〇)、東京に生まれる。東京大学独文科卒業。文芸評論家。『批評の精神』(中公叢書、一九七〇年)で亀井勝一郎賞、ケレーニイ『神話と古代宗教』(新潮社、一九七二年)日本翻訳文化賞を受賞。主な著訳書はほかに『役割としての神』『神話の森の中で』『小林秀雄 歩行と思索』、ケレーニイ『ギリシアの神話』上下、シュタイガー『詩学の根本概念』などがある。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 中央公論新社 (2019/1/22)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2019/1/22
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 531ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4122066859
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122066854
  • 寸法 ‏ : ‎ 10.6 x 2.1 x 15.2 cm
  • カスタマーレビュー:
    4.0 5つ星のうち4.0 46個の評価

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ホイジンガ
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シラー・ホイジンガの“遊美学”(形象化) VS カイヨワの遊びの拡大理論 (非現実化)
5 星
シラー・ホイジンガの“遊美学”(形象化) VS カイヨワの遊びの拡大理論 (非現実化)
18世紀のシラーは 文化や美が 遊び(遊戯衝動) であるとした。140年後のホイジンガは 文化より根源的な、動物の時代からある劇的な秩序づけが 美的因子や遊び であるとした。遊びは、文化・文明よりも古く、動物の時代から行われ、想像力で現実を形象化することにより、一時的に非日常的で美的な意味合いを生活に添える行為。その事実を 古今東西の文化を紐解くことで実証した名著。特にスポイルスポート(遊び破り)やピュエリリズム(文化的小児病)といった概念を用い、遊びの中にあることを忘れ、堕落した現代諸文化の道徳的退廃に警鐘を鳴らす、衝撃的な啓蒙書になっている。20年後、本書を批判的に継承したロジェ・カイヨワは、遊びは特定の性質ではなく、4つの全く違った別の性質を、名目上だけ1つの名前「遊び」と呼んでいるだけだとし、4類型 「競争」「運」「模擬」「目眩」を提示した(1958年『遊びと人間』)。カイヨワの理論が正しいとすれば、文化創造機能を持たぬ単なる気晴らしや思いつきや暇つぶしまでもが遊びに含まれてしまうし、反対に、のっぴきならぬ真面目な行為も「これは遊びだ」と強弁することができる。心乱れる「目眩」など、遊戯というより、本当にタダの気晴らしなのではないか? ブランコに乗るという行為に精神性は無い。それゆえ文化に発展しない(空中ブランコは遊び破り。芸人は昔は「河原乞食」と呼ばれて軽蔑される存在だったが、今では庶民より偉い存在になってしまっている)。ホイジンガの「美的な非日常化」と カイヨワの「イレアリゼ(非現実化)」 には違いがある。 本書 :シラーの美や遊戯を、文化より上位に昇格させた理想的な遊び。カイヨワ:文化より下位の、さらに言えば現実より下位でもいいから、すべての非現実化を遊びの範疇に含めた、彼の用語で言う「遊びの拡大理論」。本書の方が正しいとすると、遊びという一つの性質がある事になる。4つに区分できる多様な気晴らし方法の総称ではなく、文化へと至る一本の道。文明を生む根源的衝動。140年前の先駆者シラーはそれを「遊戯衝動」と説いた(1795年『人間の美的教育について』。形象化という意味ではホイジンガと同様の遊び論)。しかし現実的には、野蛮な遊び破りや、遊びを僭称する真面目を批判するのは難しい。遊びか否かを判断する道徳心には、正義と寛容という二面性があるので、結局、遊びか真面目かの判断を下せないという 悩ましい問題を提起し、本書は終わっている。「それゆえに、チートや遊び破りは文明そのものを破壊してしまう」ヨハン・ホイジンガ政治と違い、文化は退廃しても人が死ぬようなことはないので、「寛容に」許されることがほとんど。それが次第に政治や経済や共同体の在り方等に悪い影響を与えていっても、人々は気づきにくい。「模擬と目眩が人間にとっての永遠の誘惑であるなら、これらを集団生活から排除し、子供の楽しみや異状の振る舞いとしてだけ許しておくということは、容易にできることではあるまい」ロジェ・カイヨワカイヨワはホイジンガを批判しながらも、モラルの大切さは力説する。しかし、現実との妥協を一切図らず モラルの再興を主張した『ホモ・ルーデンス』の方が、長い目で見れば、文化・文明へ、我らホモ・サピエンス(理性の人)の存続・進化へ、果たす役割は大きいだろう。ホモ・デウス(神性の人)はフェアプレイしかしないはず。最後に言っておきたいのは、貴族的とも言える崇高なホイジンガの遊び論を説明すると、インテリ勢は必ず「それはナチスを批判する目的で書いたに違いない!」と必死で反論し、本書(ナチスへの言及は一切無し)の本筋とは離れた事で肝心の「遊び=イメージ化」という核の部分に焦点が当たらないようにし、あまつさえ本書は文化相対主義だとウソのレビューまで書く始末。本書について「それはナチスがぁ~」と必死で言ってくる人がいたら、その人は間違いなく本書やホイジンガの学説をスポイルしようとしているスポイル・スポート(遊び破り)のインテリ(左翼)です。ホイジンガの過激な批判が、「真面目」にではなく、ナチスやヒトラーに向けられたものだとゴマかすなら、次の批判も彼らに向けられたものなのでしょうか?「物を創る仕事、勤勉な手仕事、職業といった性格が、造形芸術に対して遊びの因子が働くのを阻止している」「物を製作する人間の課題は真面目なもの、責任重大なものである。すなわち、 遊びめいたものは、一切それとは無縁なのである」「手仕事に属するものと見なされる造型芸術には、ミューズの女神は割り当てられないのだ」「このように、造形芸術の創作の経路は、まったく遊びの領域の外をたどっている」文化史家ホイジンガが本当に伝えたかった事を、リベラルや解放主義者の都合で歪曲しないでほしい。
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上位レビュー、対象国: 日本

2019年1月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)、ホイジンガ、教科書では教わり、堅っ苦しい授業の中で輝いていた言葉であり「なんだかイイな」と思っていた。

実際に著書を読んでみると興味深い本であることを知った。

なるほどと思ったのは、「奉献の目的のために場を画することと、純粋な遊びのためにそれをすることとは、まったく同じものだと言える。競馬場、テニス・コート、舗道上に描かれた子供の石蹴りの目、チェス盤は、形式的には神殿や魔法の圏と変わらない。地球上どこへ行ってみても著しく目につくのは、多くの奉献式の風習のあいだに判然とした同質性があることだが、これは、そういう慣習が人間の心のきわめて根源的な、基本的特性に根ざしている事実を示している」という記述である。

例えばメキシコのコラ・インディアン族は聖祭を「遊び」と呼び、
真の遊びには、形式的かつ歓びに沸き立つ気分のほかに、「ただ本当らしく見せかけて、そのふりをしてやっているだけなのだ」という意識があるのだという。

「ただ本当のようなふりをしている」としても夢中で遊んで恍惚状態で、完全に虜にすることが出来るのも「遊び」である。
このような状況はある種の「ゾーン」にはいっていることを意味するのかもしれない。

日本語における「遊び」の表現として、
茶の湯、武士道も遊びの領域で展開されたものとし、「おつき遊ばせ」などといった高貴な貴族の言葉遣いについても述べていることは興味深い。

極楽鳥のような鳥を例に挙げ、遊びの基礎因子の競争や誇示は、文化の中から発達するのでなく、文化に先んじているのだという。

曰く、学問も闘技的性格を持ちながらも本質的には遊びの性格を有している、のだという。

難解な箇所もあるが興味あるところから読んでみると良いと思う。

「遊び」という観点から社会を日々の生活を見つめてみると、案外パラダイムシフトに繋がるかもしらない。

また本改版が多くの方の手に取るきっかけになるとよいと思う。
28人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2023年8月27日に日本でレビュー済み
ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」読了。一言、遊びと言っても丁寧に紐解くと奥深く、人の営みにおいてとても重要な意義がある事が本書からわかったように思う。そして遊びの要素が日々の生活から切り離される事で苦しみが生じる事ととても大切な気づきを得た。遊んでないで勉強しなさいも少し控えるか。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2022年7月24日に日本でレビュー済み
「ホモ・ルーデンス」は「遊ぶ人」を意味し、文化がどこまで遊びの性格を持っているかを問う著書となっている。本文約480ページで全12章。大まかに分けると、1~3章が総論、4~10章が各論、そして11章が18世紀までの時代ごとの文化における遊びの要素を扱い、最終の12章では19世紀と現代について考察する。

遊びと文化の関係を探る本書だが、まず、動物の戯れとしても認められる遊びという行為は文化より古いことを前提として確認する。その遊びの主要な特徴は、「自由さ」「必要や欲望の直接的満足の外にあること」「現実から切り離された完結性と限定性」として挙げられる。これらの特徴を列挙したうえで、著者は遊びの定義を次のように定める。

「遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは「日常生活」とは「別のもの」という意識に裏づけられている。」

この定義は要所で何度も確認され、文化のうちに見られる遊びの特徴と照らし合わされることになる。なかでもとくに注目される遊びの特徴は、三番目に挙げられた「完結性と限定性」である。古代の文化から、というよりもむしろ古代の文化であるほどはっきりと、現代では正統に認められる文化の多くに、この遊びの特徴が認められる。それらを古代ギリシアやローマを中心に世界各地の文化の痕跡から検証するのが、4~10章の各論にあたる。そこで個々に取り上げられる主なカテゴリーが、法律、戦争、哲学、詩、音楽、舞踏などである。それらのうちに共通して認められものとして、遊びのもつ競技性も重要なポイントになっている。

本書のテーマである「遊び」の概念を捉えるために何度も対置して用いられるのは、「真面目」という言葉である。ただし、この「真面目」は必ずしも純粋な「遊び」の反対語ではなく条件付きとなっている。なぜなら、遊びが真面目に取り組まれることは普通のことだからだ。著者はこの点について、「遊びという概念そのものが、真面目よりも上の序列に位置し」、「遊びは真面目をも内包」するものという認識を示している。

終章での現代(出版は1938年)の文化における遊びのあり方としては、過去の文化は全般にわたって遊びの要素が色濃く反映されるものだったのに対して、19世紀を転機としたその後は文化における遊びの特徴が乏しくなっていったと指摘する。なかでも文化のなかで最も遊びの要素をわかりやすく認めることができるスポーツについても、「職業遊戯者のあり方には、もはや真の遊びの精神はない」として退けられてしまう。そして、「現代文化はもうほとんど、「遊ば」れてはいない」として危惧する著者は、「すべて遊びなり」という結語を残して本書を締めくくる。

文化は遊びのなかに含まれるという著者の示す遊びの適用範囲は非常に広く、広義には全ての文化は本来、遊びの一形態だとする主張と捉えて良さそうだ。逆にそれなら何が遊びではないのかが気になってくるが、その点についてはあまり触れられない。18世紀以前の文化は遊びの特徴に溢れていて、19世紀以後はそれらが乏しくなるという主張についても、その結論に反対ではないものの、納得できるだけの十分な根拠を示すには至っていないように思える。とはいえ、法廷のような格式を感じさせる、それこそ真面目一辺倒にみえる文化も、元をたどれば遊びのもつ競技性や限定性にあるという観点は興味深い発想だった。

ちなみに、ほどほどに読むならとりあえず1章と12章だけでも良いかもしれません。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2020年1月7日に日本でレビュー済み
18世紀のシラーは 文化や美が 遊び(遊戯衝動) であるとした。
140年後のホイジンガは 文化より根源的な、動物の時代からある劇的な秩序づけが 美的因子や遊び であるとした。

遊びは、文化・文明よりも古く、動物の時代から行われ、想像力で現実を形象化する
ことにより、一時的に非日常的で美的な意味合いを生活に添える行為。
その事実を 古今東西の文化を紐解くことで実証した名著。

特にスポイルスポート(遊び破り)やピュエリリズム(文化的小児病)といった概念を用い、遊びの中にあることを忘れ、堕落した現代諸文化の道徳的退廃に警鐘を鳴らす、衝撃的な啓蒙書になっている。

20年後、本書を批判的に継承したロジェ・カイヨワは、遊びは特定の性質ではなく、4つの全く違った別の性質を、名目上だけ1つの名前「遊び」と呼んでいるだけだとし、4類型 「競争」「運」「模擬」「目眩」を提示した(1958年『遊びと人間』)。

カイヨワの理論が正しいとすれば、文化創造機能を持たぬ単なる気晴らしや思いつきや暇つぶしまでもが遊びに含まれてしまうし、反対に、のっぴきならぬ真面目な行為も「これは遊びだ」と強弁することができる。

心乱れる「目眩」など、遊戯というより、本当にタダの気晴らしなのではないか? ブランコに乗るという行為に精神性は無い。それゆえ文化に発展しない(空中ブランコは遊び破り。芸人は昔は「河原乞食」と呼ばれて軽蔑される存在だったが、今では庶民より偉い存在になってしまっている)。

ホイジンガの「美的な非日常化」と カイヨワの「イレアリゼ(非現実化)」 には違いがある。
 本書 :シラーの美や遊戯を、文化より上位に昇格させた理想的な遊び。
カイヨワ:文化より下位の、さらに言えば現実より下位でもいいから、すべての非現実化を遊びの範疇に含めた、彼の用語で言う「遊びの拡大理論」。

本書の方が正しいとすると、遊びという一つの性質がある事になる。4つに区分できる多様な気晴らし方法の総称ではなく、文化へと至る一本の道。文明を生む根源的衝動。140年前の先駆者シラーはそれを「遊戯衝動」と説いた(1795年『人間の美的教育について』。形象化という意味ではホイジンガと同様の遊び論)。

しかし現実的には、野蛮な遊び破りや、遊びを僭称する真面目を批判するのは難しい。遊びか否かを判断する道徳心には、正義と寛容という二面性があるので、結局、遊びか真面目かの判断を下せないという 悩ましい問題を提起し、本書は終わっている。

「それゆえに、チートや遊び破りは文明そのものを破壊してしまう」ヨハン・ホイジンガ

政治と違い、文化は退廃しても人が死ぬようなことはないので、「寛容に」許されることがほとんど。それが次第に政治や経済や共同体の在り方等に悪い影響を与えていっても、人々は気づきにくい。

「模擬と目眩が人間にとっての永遠の誘惑であるなら、これらを集団生活から排除し、子供の楽しみや異状の振る舞いとしてだけ許しておくということは、容易にできることではあるまい」ロジェ・カイヨワ

カイヨワはホイジンガを批判しながらも、モラルの大切さは力説する。しかし、現実との妥協を一切図らず モラルの再興を主張した『ホモ・ルーデンス』の方が、長い目で見れば、文化・文明へ、我らホモ・サピエンス(理性の人)の存続・進化へ、果たす役割は大きいだろう。ホモ・デウス(神性の人)はフェアプレイしかしないはず。

最後に言っておきたいのは、貴族的とも言える崇高なホイジンガの遊び論を説明すると、インテリ勢は必ず「それはナチスを批判する目的で書いたに違いない!」と必死で反論し、本書(ナチスへの言及は一切無し)の本筋とは離れた事で肝心の「遊び=イメージ化」という核の部分に焦点が当たらないようにし、あまつさえ本書は文化相対主義だとウソのレビューまで書く始末。

本書について「それはナチスがぁ~」と必死で言ってくる人がいたら、その人は間違いなく本書やホイジンガの学説をスポイルしようとしているスポイル・スポート(遊び破り)のインテリ(左翼)です。

ホイジンガの過激な批判が、「真面目」にではなく、ナチスやヒトラーに向けられたものだとゴマかすなら、
次の批判も彼らに向けられたものなのでしょうか?

「物を創る仕事、勤勉な手仕事、職業といった性格が、造形芸術に対して遊びの因子が働くのを阻止している」
「物を製作する人間の課題は真面目なもの、責任重大なものである。すなわち、
遊びめいたものは、一切それとは無縁なのである」
「手仕事に属するものと見なされる造型芸術には、ミューズの女神は割り当てられないのだ」
「このように、造形芸術の創作の経路は、まったく遊びの領域の外をたどっている」

文化史家ホイジンガが本当に伝えたかった事を、
リベラルや解放主義者の都合で歪曲しないでほしい。
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5つ星のうち5.0 シラー・ホイジンガの“遊美学”(形象化) VS カイヨワの遊びの拡大理論 (非現実化)
2020年1月7日に日本でレビュー済み
18世紀のシラーは 文化や美が 遊び(遊戯衝動) であるとした。
140年後のホイジンガは 文化より根源的な、動物の時代からある劇的な秩序づけが 美的因子や遊び であるとした。

遊びは、文化・文明よりも古く、動物の時代から行われ、想像力で現実を形象化する
ことにより、一時的に非日常的で美的な意味合いを生活に添える行為。
その事実を 古今東西の文化を紐解くことで実証した名著。

特にスポイルスポート(遊び破り)やピュエリリズム(文化的小児病)といった概念を用い、遊びの中にあることを忘れ、堕落した現代諸文化の道徳的退廃に警鐘を鳴らす、衝撃的な啓蒙書になっている。

20年後、本書を批判的に継承したロジェ・カイヨワは、遊びは特定の性質ではなく、4つの全く違った別の性質を、名目上だけ1つの名前「遊び」と呼んでいるだけだとし、4類型 「競争」「運」「模擬」「目眩」を提示した(1958年『遊びと人間』)。

カイヨワの理論が正しいとすれば、文化創造機能を持たぬ単なる気晴らしや思いつきや暇つぶしまでもが遊びに含まれてしまうし、反対に、のっぴきならぬ真面目な行為も「これは遊びだ」と強弁することができる。

心乱れる「目眩」など、遊戯というより、本当にタダの気晴らしなのではないか? ブランコに乗るという行為に精神性は無い。それゆえ文化に発展しない(空中ブランコは遊び破り。芸人は昔は「河原乞食」と呼ばれて軽蔑される存在だったが、今では庶民より偉い存在になってしまっている)。

ホイジンガの「美的な非日常化」と カイヨワの「イレアリゼ(非現実化)」 には違いがある。
 本書 :シラーの美や遊戯を、文化より上位に昇格させた理想的な遊び。
カイヨワ:文化より下位の、さらに言えば現実より下位でもいいから、すべての非現実化を遊びの範疇に含めた、彼の用語で言う「遊びの拡大理論」。

本書の方が正しいとすると、遊びという一つの性質がある事になる。4つに区分できる多様な気晴らし方法の総称ではなく、文化へと至る一本の道。文明を生む根源的衝動。140年前の先駆者シラーはそれを「遊戯衝動」と説いた(1795年『人間の美的教育について』。形象化という意味ではホイジンガと同様の遊び論)。

しかし現実的には、野蛮な遊び破りや、遊びを僭称する真面目を批判するのは難しい。遊びか否かを判断する道徳心には、正義と寛容という二面性があるので、結局、遊びか真面目かの判断を下せないという 悩ましい問題を提起し、本書は終わっている。

「それゆえに、チートや遊び破りは文明そのものを破壊してしまう」ヨハン・ホイジンガ

政治と違い、文化は退廃しても人が死ぬようなことはないので、「寛容に」許されることがほとんど。それが次第に政治や経済や共同体の在り方等に悪い影響を与えていっても、人々は気づきにくい。

「模擬と目眩が人間にとっての永遠の誘惑であるなら、これらを集団生活から排除し、子供の楽しみや異状の振る舞いとしてだけ許しておくということは、容易にできることではあるまい」ロジェ・カイヨワ

カイヨワはホイジンガを批判しながらも、モラルの大切さは力説する。しかし、現実との妥協を一切図らず モラルの再興を主張した『ホモ・ルーデンス』の方が、長い目で見れば、文化・文明へ、我らホモ・サピエンス(理性の人)の存続・進化へ、果たす役割は大きいだろう。ホモ・デウス(神性の人)はフェアプレイしかしないはず。

最後に言っておきたいのは、貴族的とも言える崇高なホイジンガの遊び論を説明すると、インテリ勢は必ず「それはナチスを批判する目的で書いたに違いない!」と必死で反論し、本書(ナチスへの言及は一切無し)の本筋とは離れた事で肝心の「遊び=イメージ化」という核の部分に焦点が当たらないようにし、あまつさえ本書は文化相対主義だとウソのレビューまで書く始末。

本書について「それはナチスがぁ~」と必死で言ってくる人がいたら、その人は間違いなく本書やホイジンガの学説をスポイルしようとしているスポイル・スポート(遊び破り)のインテリ(左翼)です。

ホイジンガの過激な批判が、「真面目」にではなく、ナチスやヒトラーに向けられたものだとゴマかすなら、
次の批判も彼らに向けられたものなのでしょうか?

「物を創る仕事、勤勉な手仕事、職業といった性格が、造形芸術に対して遊びの因子が働くのを阻止している」
「物を製作する人間の課題は真面目なもの、責任重大なものである。すなわち、
遊びめいたものは、一切それとは無縁なのである」
「手仕事に属するものと見なされる造型芸術には、ミューズの女神は割り当てられないのだ」
「このように、造形芸術の創作の経路は、まったく遊びの領域の外をたどっている」

文化史家ホイジンガが本当に伝えたかった事を、
リベラルや解放主義者の都合で歪曲しないでほしい。
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