「近代」の特質である対象化・実体化は、私たちと他者・自然との共鳴を消失させた。
身体そのものも同様、対象化・実体化され心・体に分離された。それは、壁と言ってもよい。
だが、実体化とは見えない虚構である。その結果、命が見失われてしまった。
日本の古典芸能は、他者や自然との壁が高いと演じる事が出来ない。
楽譜も曖昧で指揮者もいない。予定調和は、否定されている。その場その場で互いに呼吸を合わせる。
境界が曖昧であれば他人の苦しみは、我が苦しみとなり喜びは、我が喜びとなる。自然との関わりも同様となる。
西洋流は、心身二元論であり明治以降怒涛のように流入しこれを受け入れた。
それ以前は、未分且つ曖昧であった。体を鍛えるなど有りもしなかった。メンタル・トレーニングは、奇妙奇天烈という事になる。
現代に於いても子供の頃は、未分化であり身の時代である。だが、大人になれば虚構の自我=心が全てを取り仕切っていると考えられる時代となった。
心は、都合の良い物語を作成する。その代償は、素朴な感情・記憶の喪失である。そして、無心となることが非常に困難となった。
物語の前提は、四次元宇宙且つ過去・現在・未来の時制である。
古代の人たちは、脱魂・憑依により神霊等と交信した。無我の境地とは「忘」であり、「楽」は霊を招くのであった。巫祝=「而」であり、「望」は見えないものを見る。「聖」は、聴こえない声を聞くである。神や死者のである。
それを思えば、現代人は本来の意味から遠く隔たった痩せた解釈しか出来なくなっている。
能は、曖昧な身体の芸術である。特に、「夢幻能」」は、現代の演劇とは全く異なる。
「シテ」、「ワキ」、「地謡」、「観客」の境界が曖昧である。「シテ」は、神・幽霊・精霊・天女・狂女等であり「ワキ」は必ず現世の存在である。そして、時間も経過する時間とは異なる。自由に過去・現在・未来を行き来する。無時間もある。
私たちは、「思ひ」(=万人の奥に隠れている絶対に入手できないものを希求するという欠落の感情)を持つ。それは、神ならざる身ゆえだからであろう。そして、それが出て来る糸口を情緒(感情の糸口=情緒)と言いそれに刺激されて私たちの感情は、風景の中の糸口(情緒)に刺激されて溢れ出し、風景の中にも流れ出す。「懐かしい」、「悲しい」など感情表現の言葉を使う必要は一切ない。ただ、風景を詠うだけで良い。風景と人は、別々に存在してはいない。
「草木国土悉皆成仏」である。
植物は、動物と違い大気と大地にからだを開放している「仏存」である。昔の日本人は、それを目指していた。「目」、「鼻」、「口」、「肛門」、「性器」等の粘膜器官は、体壁の外に露出したアンテナのような存在であり動物の植物器官である。
腹が立つ、腹を据える、腹を決めるは、頭の志向でなく「思ひ」や感情と結びついている。「腹蔵なく話す」、太息(=太い息)や長嘘(=長い呼気=コミ)、あわれ(=深い溜息=宣長のもののあわれ)という言葉もある。
自我をコントロール出来るようになったのである。
また、日本の歌の本質は、無音(=世阿弥のせぬ隙)である。ことばは、現象の一部をあらわすに過ぎない。
「こころ」は表層で、「思ひ」が深層で更なる深層が(心=(シン)=芯=神)である。
「こころ」は、古代中国では男性性器であり古代オリエントでは、女性の子宮であった。
日本人の「境界」(=あわい)とは、点や線でなくそこら辺一帯を云う。
古い時代の日本語には、「あいさつ言葉」がない。破るべき境界がなかったのである。
世界を対象化し分割してしまった世界及びそれ以前の曖昧さを保った世界の決定的差を描いた力作である。
頭で思考するより腹で感じるである。
道元に「而今」の言葉がある。過去・未来を含まない今である。
「而」の語源は、巫祝であった。知的理解と宗教の懸崖を思い知らされた。
不生不滅・無始無終にしても仏教の言葉になった時点で本来の意味から隔たり知的理解に堕していると思う。
何らかの不都合に出会うと「税金を払った」として整理する人がいるが割り切れぬ思いの処理方法として曖昧を最大限生かしているのではないだろうか。
「かんがふ」(=考える)の語源は、「か身交う」と云う本居宣長説を知った。これは、文殊の智慧である。
腑に落ちることの多い内容であった。
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日本人の身体 (ちくま新書) 新書 – 2014/9/8
安田 登
(著)
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本来おおざっぱで曖昧であったがゆえに、他人や自然と共鳴できていた日本人の身体観を、古今東西の文献を検証しつつ振り返り、現代の窮屈な身体観から解き放つ。
- 本の長さ254ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2014/9/8
- 寸法10.7 x 1.4 x 17.4 cm
- ISBN-104480067949
- ISBN-13978-4480067944
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2014/9/8)
- 発売日 : 2014/9/8
- 言語 : 日本語
- 新書 : 254ページ
- ISBN-10 : 4480067949
- ISBN-13 : 978-4480067944
- 寸法 : 10.7 x 1.4 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 37,702位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 127位ちくま新書
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2022年2月7日に日本でレビュー済み
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この本を読んで能を見に行きます
2014年10月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
子供時代、身と心は一緒だったという著者の体験と解説、深く納得しました。
私も最初の記憶は、「なぁんて貧しい家に生まれてきたのだろう」でした。2歳頃だと思います。
3歳、4歳頃は、祖母を引き連れて、村の中を草履を履いて着物を着て、おもちゃの刀を腰にさして闊歩していたそうです。
そうです、というのはその記憶がなくて、それでも物心ついたあとで、家族や親戚から言われて恥ずかしい思いをしたことがあるからです。その後、信頼できる霊能者の先生から、江戸時代に侍だった、剣術が得意で、蘭学を学んでいた、蘭学の本を小脇に抱えている姿が見えます、などと教わりました。
その頃、明らかに、身と心は一緒でした。
しかし、その後、どんどん離れてゆきました。
そして、心身を、もう一度、統一したいと思うようになったのは40代の後半。
瞑想指導家の山田孝男先生と出会い、瞑想のイロハを教わった頃からです。
その後、偉大な足跡を残された塩谷信男医学博士と出会い、西式健康法の第一人者であった山崎佳三郎先生と出会って、心身一如だという考え方を深めてゆきました。
私のこの20年近くの体験は、著者が明らかにされた、明治以降の身と体の分離という文明の流れを、逆にたどるものだったと、本書を読んで理解できました。
みそぎや丹田呼吸法、瞑想、その他を色々とやってきて、いまでは、「運動など一切必要ない」と考えるようになりました。
心身一如は、らくらく毛管運動&不動真言の高速音読で実現できると考え、8年くらい行い、現在も継続中です。
もう少しで、無我の境地でできるようになるのではないかと期待しています。
今年63歳になりました。
63歳になって、目指す境地を心に描きました。
「あの世もこの世も同じ界」です。
同じ界=同じ世界、という意味です。
この世は物質界と意識界が心身一如のごとく融合した世界であり、あの世は意識=魂のみの世界ですが、成長した魂はこの世にメッセージを伝えることができる、という風に考えています。
著者が能について説明されていることは、本当にそうだと思います。
意識界からメッセージがいただけるのです。
私自身、あの世からのメッセージをいただくことが時々あって、それがたいへん役だっています。
話が「トンデモ」だと思われるかもしれませんが、そんなこともあるのかと思っていただければいいですが。
私の友人にはオーラを見ることのできる人が8人いますし、知人には霊を見ることのできる人も何人かいます。
能があれほどのリアリティをもって私たちに迫ってくるのは、真実を表現できているからだと思われます。
何度も読み返してみたくなる深い内容でした。
私も最初の記憶は、「なぁんて貧しい家に生まれてきたのだろう」でした。2歳頃だと思います。
3歳、4歳頃は、祖母を引き連れて、村の中を草履を履いて着物を着て、おもちゃの刀を腰にさして闊歩していたそうです。
そうです、というのはその記憶がなくて、それでも物心ついたあとで、家族や親戚から言われて恥ずかしい思いをしたことがあるからです。その後、信頼できる霊能者の先生から、江戸時代に侍だった、剣術が得意で、蘭学を学んでいた、蘭学の本を小脇に抱えている姿が見えます、などと教わりました。
その頃、明らかに、身と心は一緒でした。
しかし、その後、どんどん離れてゆきました。
そして、心身を、もう一度、統一したいと思うようになったのは40代の後半。
瞑想指導家の山田孝男先生と出会い、瞑想のイロハを教わった頃からです。
その後、偉大な足跡を残された塩谷信男医学博士と出会い、西式健康法の第一人者であった山崎佳三郎先生と出会って、心身一如だという考え方を深めてゆきました。
私のこの20年近くの体験は、著者が明らかにされた、明治以降の身と体の分離という文明の流れを、逆にたどるものだったと、本書を読んで理解できました。
みそぎや丹田呼吸法、瞑想、その他を色々とやってきて、いまでは、「運動など一切必要ない」と考えるようになりました。
心身一如は、らくらく毛管運動&不動真言の高速音読で実現できると考え、8年くらい行い、現在も継続中です。
もう少しで、無我の境地でできるようになるのではないかと期待しています。
今年63歳になりました。
63歳になって、目指す境地を心に描きました。
「あの世もこの世も同じ界」です。
同じ界=同じ世界、という意味です。
この世は物質界と意識界が心身一如のごとく融合した世界であり、あの世は意識=魂のみの世界ですが、成長した魂はこの世にメッセージを伝えることができる、という風に考えています。
著者が能について説明されていることは、本当にそうだと思います。
意識界からメッセージがいただけるのです。
私自身、あの世からのメッセージをいただくことが時々あって、それがたいへん役だっています。
話が「トンデモ」だと思われるかもしれませんが、そんなこともあるのかと思っていただければいいですが。
私の友人にはオーラを見ることのできる人が8人いますし、知人には霊を見ることのできる人も何人かいます。
能があれほどのリアリティをもって私たちに迫ってくるのは、真実を表現できているからだと思われます。
何度も読み返してみたくなる深い内容でした。
2015年4月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
先ずは、なぜこの本を購入したかと言うと、古武術家・甲野善紀氏の著書『身体から革命を起こす』の流れを組む本かなと思ったからです。著者は能楽師ですから、能の観点からの身体の所作とかそんなことかなと…。全然違いました。
『身体から革命を起こす』のポイントは、日本人の身体の動きは西洋人の身体の動きと物理的に違っていた。「文明開化」の時期に日本政府が西洋の運動の理論を受け入れたので、日本人の身体は本来の自然との調和を離れて違うものになってしまった。と、簡単におおざっぱに言うとそんなところです。そしてその違うものになってしまった現代人の身体をどのように取り戻せることができるか…、という具体的な対策とその理論的解説がこの本でした。
『日本人の身体』の方は、基本的には同じ考えですが、「身体」本来の動きを取り戻そうというプロパガンダではなく、どう違うかを丁寧に歴史から説き起こしています。つまり、観念的に「日本人の身体」をどうとらえるべきかを説いていて随所に興味を惹かれます。
著者によりますと、日本には「からだ」という言葉がなかったそうです。「身」という言葉はありました。身は「実」と同源の言葉で、中身の詰まった「身体」です。中身とは命や魂で、つまり「身体と魂(精神)」という二元論ではなかった。すべてを抱合していたのです。わたしはこれまで身体と魂を分化して考えることに納得できませんでした。この物質的な身体に精神的な魂が存在するという考えが納得できません。我々の身体は所詮物質なのです。で、我が意を至りでした。
日本には、その頃「魂」という言葉はなかったのです。著者は、『古事記』の中に「たま」という言葉は出てくるが、そのほとんどが「勾玉」のことを言っていると指摘しています。西洋では、紀元前8世紀半ばのホメロスの『イーリアス』で、すでに身体と魂が「言葉として」分離しているとか。
しかし、東洋でも身体と魂が分離して理解されるようになってきます。東洋哲学はその分離をひとつに戻そうとする試みと感じます。荘子や孔子しかり。己の身体を意識しないようにするところから心身の一体化が生まれ、何も考えることなく身体を動かすことができるようになります。一流のスポーツ選手や武術家あるいは演奏家や俳優、芸術家も「無我」になるという修行を経てきたのではないでしょうか(そして身体を意識しなくなる)。
この何事も「分化しない」ということが、東洋のそして日本人の特徴と思われます。つまり、境界線が曖昧ということ。あなたとわたしの境界線が曖昧、内と外が曖昧(空間的意味です)、いろいろなことを「曖昧にしておく」ことこそ「世界平和」と「宇宙との一体感」を得る極意なのです。ちょっと飛躍しすぎですか。
「溜息と内臓」という章は、とても刺激的です。ヒトは内臓を内に秘めています(だから内臓か)。つまり、外の世界と断絶して進化に励んだということ。内臓とは粘膜。我々の粘膜が外と繋がっているところは、眼、鼻、口、閘門そして女性の場合はSEX機関です。しかし、植物は内臓を外に出していると著者は言っています。ちょっと理解不能ですが、そう理解します。で、植物は内臓を外に出しているから、宇宙と繋がっていると。環境との間に境界がないという意味です。だから、草木そのものは、神と繋がっているのです。私の言う神は、自然です。宇宙です。
そして、この「内臓」がただ者ではない。つまり、内臓に「魂」が宿っているのです。脳ではない、心臓でもない…。脳と内臓は、かなり親密な関係にあります。例えば、悩むと胃潰瘍になるとか…、そんなところです。「断腸の思い」という言葉もそれを表しています。日本人は、かなり前から(著者は古事記の例を取っています。)内臓に心があったと感じていました。しかし、腹にある脳は、情動とか「思い」を司っていたようで、理性的な思考は「脳」ということ。しかし、我々が幸せに生きるにはどちらが重要かということです。理性か情緒か(まあ、人それぞれですが)。
そして「息」。私たちは、「息を吹き込む」とか「息を合わせる」とかいう言葉を持っています。引用しますとこんな風です。
日本人の身体の基本は、自他の区別もなく、また環境と自己との差別もない曖昧な身体でした。ふだんはそれは曖昧な境界線の中に留まっていますが、なにかあるとすぐに溢れ出し、他人と一体化し、自然と一体化しようとします。「あはれ」とは、他人や環境と一体化せんとあふれ出した、蠢く自己の霊性そのものなのです。
つまり、息を合わせることによって、人類は発展してきたということ。息を合わせなければ、ヒトは、獲物を狩ることすらできなかったのです。いくらテクノロジー(弓とか矢とか)が発達しても。これがハーモニーです。インディビジュアリティを志向する産業革命以降のアイディアよりも、それ以前のハーモニーを大切にする世界こそ「生物として」我々が目指すべきところではないでしょうか。我々とは言えませんね。私が思うところです。
『身体から革命を起こす』のポイントは、日本人の身体の動きは西洋人の身体の動きと物理的に違っていた。「文明開化」の時期に日本政府が西洋の運動の理論を受け入れたので、日本人の身体は本来の自然との調和を離れて違うものになってしまった。と、簡単におおざっぱに言うとそんなところです。そしてその違うものになってしまった現代人の身体をどのように取り戻せることができるか…、という具体的な対策とその理論的解説がこの本でした。
『日本人の身体』の方は、基本的には同じ考えですが、「身体」本来の動きを取り戻そうというプロパガンダではなく、どう違うかを丁寧に歴史から説き起こしています。つまり、観念的に「日本人の身体」をどうとらえるべきかを説いていて随所に興味を惹かれます。
著者によりますと、日本には「からだ」という言葉がなかったそうです。「身」という言葉はありました。身は「実」と同源の言葉で、中身の詰まった「身体」です。中身とは命や魂で、つまり「身体と魂(精神)」という二元論ではなかった。すべてを抱合していたのです。わたしはこれまで身体と魂を分化して考えることに納得できませんでした。この物質的な身体に精神的な魂が存在するという考えが納得できません。我々の身体は所詮物質なのです。で、我が意を至りでした。
日本には、その頃「魂」という言葉はなかったのです。著者は、『古事記』の中に「たま」という言葉は出てくるが、そのほとんどが「勾玉」のことを言っていると指摘しています。西洋では、紀元前8世紀半ばのホメロスの『イーリアス』で、すでに身体と魂が「言葉として」分離しているとか。
しかし、東洋でも身体と魂が分離して理解されるようになってきます。東洋哲学はその分離をひとつに戻そうとする試みと感じます。荘子や孔子しかり。己の身体を意識しないようにするところから心身の一体化が生まれ、何も考えることなく身体を動かすことができるようになります。一流のスポーツ選手や武術家あるいは演奏家や俳優、芸術家も「無我」になるという修行を経てきたのではないでしょうか(そして身体を意識しなくなる)。
この何事も「分化しない」ということが、東洋のそして日本人の特徴と思われます。つまり、境界線が曖昧ということ。あなたとわたしの境界線が曖昧、内と外が曖昧(空間的意味です)、いろいろなことを「曖昧にしておく」ことこそ「世界平和」と「宇宙との一体感」を得る極意なのです。ちょっと飛躍しすぎですか。
「溜息と内臓」という章は、とても刺激的です。ヒトは内臓を内に秘めています(だから内臓か)。つまり、外の世界と断絶して進化に励んだということ。内臓とは粘膜。我々の粘膜が外と繋がっているところは、眼、鼻、口、閘門そして女性の場合はSEX機関です。しかし、植物は内臓を外に出していると著者は言っています。ちょっと理解不能ですが、そう理解します。で、植物は内臓を外に出しているから、宇宙と繋がっていると。環境との間に境界がないという意味です。だから、草木そのものは、神と繋がっているのです。私の言う神は、自然です。宇宙です。
そして、この「内臓」がただ者ではない。つまり、内臓に「魂」が宿っているのです。脳ではない、心臓でもない…。脳と内臓は、かなり親密な関係にあります。例えば、悩むと胃潰瘍になるとか…、そんなところです。「断腸の思い」という言葉もそれを表しています。日本人は、かなり前から(著者は古事記の例を取っています。)内臓に心があったと感じていました。しかし、腹にある脳は、情動とか「思い」を司っていたようで、理性的な思考は「脳」ということ。しかし、我々が幸せに生きるにはどちらが重要かということです。理性か情緒か(まあ、人それぞれですが)。
そして「息」。私たちは、「息を吹き込む」とか「息を合わせる」とかいう言葉を持っています。引用しますとこんな風です。
日本人の身体の基本は、自他の区別もなく、また環境と自己との差別もない曖昧な身体でした。ふだんはそれは曖昧な境界線の中に留まっていますが、なにかあるとすぐに溢れ出し、他人と一体化し、自然と一体化しようとします。「あはれ」とは、他人や環境と一体化せんとあふれ出した、蠢く自己の霊性そのものなのです。
つまり、息を合わせることによって、人類は発展してきたということ。息を合わせなければ、ヒトは、獲物を狩ることすらできなかったのです。いくらテクノロジー(弓とか矢とか)が発達しても。これがハーモニーです。インディビジュアリティを志向する産業革命以降のアイディアよりも、それ以前のハーモニーを大切にする世界こそ「生物として」我々が目指すべきところではないでしょうか。我々とは言えませんね。私が思うところです。