自然の美しさを想像することから始まった。五つの物語すべてで、情景や、登場人物の顔や仕草や喋り方などが思い浮かんで場面が移り進み、映画をみているように読むことができた。ペチョーリンもグルシニツキーもメリーもヴェーラもすぐ近くにいる人のように感じる。マクシム・マクシームイチも。
解説では、五つの観点から主人公を分析していて、これをもとにまた読みたいと思った。あとがきでは、原作の雰囲気を伝えるため翻訳家が日本の言葉を選んでいく様子が書かれていて心を動かされた。ほかの作品も読んでみたい。
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現代の英雄 (光文社古典新訳文庫 Aレ 1-1) 文庫 – 2020/10/8
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- 本の長さ371ページ
- 言語日本語
- 出版社光文社
- 発売日2020/10/8
- ISBN-104334754333
- ISBN-13978-4334754334
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登録情報
- 出版社 : 光文社 (2020/10/8)
- 発売日 : 2020/10/8
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 371ページ
- ISBN-10 : 4334754333
- ISBN-13 : 978-4334754334
- Amazon 売れ筋ランキング: - 168,490位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 140位ロシア・ソビエト文学 (本)
- - 377位光文社古典新訳文庫
- カスタマーレビュー:
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2021年2月2日に日本でレビュー済み
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著者レールモントフ(1814-1841)は帝政ロシアのモスクワ生まれ。モスクワ大学中退後、ペテルスブルグの士官学校に入学。旧友との決闘に敗れ、若くして落命している(享年26)。本書は、レールモントフによって1839~1840年にかけて発表された短編の連作であり、紀行文、冒険小説、社交界小説という雑多な側面をもって構成されている。連作形式の長編小説としているが、個々の短編作品にはペチョーリンという人物以外の連続性はない。1841年に刊行された第2版の前書きに、本書への世間の評価に対する著者の感想が、以下のように書き加えられている。「ある者は、かくも不道徳な人間を【現代の英雄】として例示するとは何事か、と息巻いている。またある者は、作者は自己および知人の肖像画を描いてみせた、と賢しらに述べている…。おなじみの憐れむべき与太話!」。遅れてきた200年後の読者としては、作者によって与太話とされた当時の批評に納得しながら読み進めるしかない。
本書の主人公ペチョーリンは、自惚れの強いレールモントフにとっての【現代の英雄】である。現代用語風には自意識過剰なアウトサイダーであり、文学史的に見ればその存在はロシア文学で名高い<余計者>である。あり余る知性と感性をもっているが、現実の社会と人生に幻滅し、その魂は倦怠感に蝕まれている。自己疎外された余計者は、恋愛や暴力沙汰という退屈しのぎの行為でこの世に生かされている。読者は、余計者ペチョーリンが繰り広げる恋愛と暴力沙汰が入れ混じった冒険譚を堪能させられることになる。
ロシア国境のカフカス、黒海とカスピ海に挟まれた辺境の地が、本作品の舞台である。描写される自然の姿の形容が詩的で凄まじい。馬車による旅路の途中を、「山の頂には雪が積もっていた。日は沈み、夜は間髪を容れず昼のあとを襲った」と描く。決闘に臨む道すがら、「若々しい朝の浮かれた日差しは、谷間にはまだ届いていない。光は、私たちの頭上に左右から覆いかぶさる断崖絶壁のてっぺんをわずかに金色に染めるのみ。その深い裂け目に生い茂った鬱蒼たる叢は、風のかすかな吐息にも、銀色の雨を振りまくのだった」と描写する。また、カフカス地方に居留するチェルケス、コサック、チェチェン、グルジア、オセット等々、さまざまな民族が出現する。
帝政ロシアの青年将校ペチョーリンは20歳台半ばで、カフカスのロシア軍守備隊に配属されている。彼の容貌は、「笑っているときにも目だけは笑わない。滑らかな金属の光沢にも似た、まばゆく冷たいきらめきなのだ」「総じてなかなかの美男子で、とりわけ社交界の女性に好まれそうな、独特の風貌を有している」と形容されている。「天邪鬼にふるまうことは、自分の生来の情熱だ」と自分を語り、「人生は、心や分別に虚しく逆らってばかりいる日々が陰気に連なる鎖にすぎない」と省みている。
5編の短編の中で、165頁を占める『公爵令嬢メリー』はストーリー展開に起伏があり、【現代の英雄】であるペチョーリンの実像が赤裸々に描かれている。舞台は、北カフカスの保養地として賑わうエリザヴェータ鉱泉である。当時、ペテルスブルグの社交界の貴族、軍人が温泉治療に利用していたらしい。病の回復を待つ人々や、何かよいことが起こらないかと待つ人々が、散文的な暮らしを営んでいたという。そこで、ペチョーリンは、士官候補生グルシニツキーと出会う。年若く詩情なきグルシニツキーは、全人類に対して敵意を燃やすタイプの雄弁家であった。公爵令嬢メリーを巡って、彼はペチョーリンとことを構えることになる。その他、ペチョーリンの昔の恋人で、今は人妻のヴェーラ、皮肉屋の医者ヴェルネルが登場して舞台を整え、その中でメリーとペチョーリンの恋の駆け引きが展開される。ペチョーリンを中心とした登場人物の配置に過不足がない。「お楽しみはこれからだ」のセリフよろしく、令嬢メリーとの感傷的会話や医者ヴェルネルとの衒学的会話の応酬が楽しませる。ペチョーリンはメリーとの会話の中で、愛想のよさと快活な笑いの陰に隠された自分の絶望を告白する。「死に絶えた魂の半分は投げ捨て、残りの半分は誰彼構わず奉仕して、ゆらゆらとふらつきながら、自分は現世を生きている」とメリーに吐露する。メリーから求愛されると、「あなたのことは愛していません」と冷たく拒否する。
そうした中で、見かけ上の恋敵であるグルシニツキーとペチョーリンの間で、ピストルによる<決闘>が仕組まれる。ペチョーリンは「自分を死地に追いやるくらい、いつでも結構。とはいえ、今生における自分の未来を全部おじゃんにするのは御免被る」と、決闘を前に人生への未練を語る。といいながら、「退屈しきった身には死ぬときは死ぬのみ」の覚悟を決めて、決闘相手グルシニツキーの発射を待つ。相手が撃ち損じた後、ペチョーリンは決闘の中止を提案する。グルシニツキーは、「私を殺さないなら、夜に待ち伏せして切り殺す。この世にわれわれ2人分の場所はない」と返答する。ペチョーリンは撃ち、「喜劇は終わりぬ」と呟く。決闘場面は介添人を含めた息遣いが聞こえ、その描写に緊迫感が溢れている。形式を踏まえた決闘の緊迫した情景と、そこに至る決闘者の心理的葛藤は、本作品の特徴とする点である。
本作品での決闘に至る経過は次の通りである。グルシニツキーは、ペチョーリンが深夜に公爵令嬢メリーの部屋から出てきたと中傷した。ペチョーリンは、誹謗中傷だとしてその撤回を求めて決闘を申し入れる。真実は、ペチョーリンは人妻のヴェーラとの逢引きからの帰途であった。しかし、考えてみると、そんな相手側の単なる誤解に基づく中傷に対して、誤解を解く努力もしないで<決闘>を申し入れるだろうか?2人の決闘について、それが誰の名誉を守るためであったのか、公爵夫人、令嬢メリー、人妻ヴェーラ、医者ヴェルネルなど、関係者それぞれが、自分の都合に合わせて理解している。その他の連中も、ペチョーリンはメリーの名誉を守るために決闘を申し入れたと誤解している。ペチョーリン自身、ことの成り行きに従い、グルシニツキーと再会したときの予感に殉じたに過ぎない。誤解に基づいた決闘であることを承知で、誤解の行く末を試そうとする余計者ペチョーリンの生きざまを、著者レールモントフは描いてみせた。
小説の中で描かれる「恋愛と暴力沙汰が入れ混じった冒険譚」には、21世紀の読者は食傷している。本書は、日本でいえば江戸時代後期に書かれたロシアの小説であり、まあ、古臭い恋愛と暴力が描かれているに過ぎない。恋愛模様に関しては現代と異なる点はなく、愛欲描写もささやかである。暴力沙汰に関しては<決闘>がある。これは漫画の世界はいざ知らず、現代小説には殆ど出てこない。生活に倦怠したから、決闘でもして憂さを晴らそう、とでもいうかのような余計者ペチョーリンの態度は理解しがたい。しかし、その当時の<余計者>の価値観からすれば、それもあり得たのかとも思わせる。自他に対して不満を募らせ、幻滅の日々を送る人間にとっての決闘への想いは、単なる死に何倍か重層した思念を必要としたに違いない。レールモントフは、彼自身決闘によって26歳の生を終えている。自分のリアルな決闘においても、ペチョーリンと同様に、死と退屈の恐怖の相剋があったに違いない。
本書には、訳者高橋知之による32頁に及ぶ詳細な解説がある。レールモントフという【現代の英雄】について、彼の生い立ちから、ロシア皇帝ニコライ一世の治世、軍人としての生活、そして決闘による死を解題している。7頁に及ぶ「年譜」、訳注も丁寧に挿入されている。評論家沼野充義は、「レールモントフはこの1冊において、トルストイの卓越した自然描写と人間心理の分析、ドストエフスキーの底知れぬ悪の探求、そしてチェーホフの明晰でしなやかな文体のすべてを先取りしている」と評している。何よりも、時代の余計者であった著者が、自分の想像力によって<余計者>を【現代の英雄】として描いている点が本書の特徴といえる。
本書の主人公ペチョーリンは、自惚れの強いレールモントフにとっての【現代の英雄】である。現代用語風には自意識過剰なアウトサイダーであり、文学史的に見ればその存在はロシア文学で名高い<余計者>である。あり余る知性と感性をもっているが、現実の社会と人生に幻滅し、その魂は倦怠感に蝕まれている。自己疎外された余計者は、恋愛や暴力沙汰という退屈しのぎの行為でこの世に生かされている。読者は、余計者ペチョーリンが繰り広げる恋愛と暴力沙汰が入れ混じった冒険譚を堪能させられることになる。
ロシア国境のカフカス、黒海とカスピ海に挟まれた辺境の地が、本作品の舞台である。描写される自然の姿の形容が詩的で凄まじい。馬車による旅路の途中を、「山の頂には雪が積もっていた。日は沈み、夜は間髪を容れず昼のあとを襲った」と描く。決闘に臨む道すがら、「若々しい朝の浮かれた日差しは、谷間にはまだ届いていない。光は、私たちの頭上に左右から覆いかぶさる断崖絶壁のてっぺんをわずかに金色に染めるのみ。その深い裂け目に生い茂った鬱蒼たる叢は、風のかすかな吐息にも、銀色の雨を振りまくのだった」と描写する。また、カフカス地方に居留するチェルケス、コサック、チェチェン、グルジア、オセット等々、さまざまな民族が出現する。
帝政ロシアの青年将校ペチョーリンは20歳台半ばで、カフカスのロシア軍守備隊に配属されている。彼の容貌は、「笑っているときにも目だけは笑わない。滑らかな金属の光沢にも似た、まばゆく冷たいきらめきなのだ」「総じてなかなかの美男子で、とりわけ社交界の女性に好まれそうな、独特の風貌を有している」と形容されている。「天邪鬼にふるまうことは、自分の生来の情熱だ」と自分を語り、「人生は、心や分別に虚しく逆らってばかりいる日々が陰気に連なる鎖にすぎない」と省みている。
5編の短編の中で、165頁を占める『公爵令嬢メリー』はストーリー展開に起伏があり、【現代の英雄】であるペチョーリンの実像が赤裸々に描かれている。舞台は、北カフカスの保養地として賑わうエリザヴェータ鉱泉である。当時、ペテルスブルグの社交界の貴族、軍人が温泉治療に利用していたらしい。病の回復を待つ人々や、何かよいことが起こらないかと待つ人々が、散文的な暮らしを営んでいたという。そこで、ペチョーリンは、士官候補生グルシニツキーと出会う。年若く詩情なきグルシニツキーは、全人類に対して敵意を燃やすタイプの雄弁家であった。公爵令嬢メリーを巡って、彼はペチョーリンとことを構えることになる。その他、ペチョーリンの昔の恋人で、今は人妻のヴェーラ、皮肉屋の医者ヴェルネルが登場して舞台を整え、その中でメリーとペチョーリンの恋の駆け引きが展開される。ペチョーリンを中心とした登場人物の配置に過不足がない。「お楽しみはこれからだ」のセリフよろしく、令嬢メリーとの感傷的会話や医者ヴェルネルとの衒学的会話の応酬が楽しませる。ペチョーリンはメリーとの会話の中で、愛想のよさと快活な笑いの陰に隠された自分の絶望を告白する。「死に絶えた魂の半分は投げ捨て、残りの半分は誰彼構わず奉仕して、ゆらゆらとふらつきながら、自分は現世を生きている」とメリーに吐露する。メリーから求愛されると、「あなたのことは愛していません」と冷たく拒否する。
そうした中で、見かけ上の恋敵であるグルシニツキーとペチョーリンの間で、ピストルによる<決闘>が仕組まれる。ペチョーリンは「自分を死地に追いやるくらい、いつでも結構。とはいえ、今生における自分の未来を全部おじゃんにするのは御免被る」と、決闘を前に人生への未練を語る。といいながら、「退屈しきった身には死ぬときは死ぬのみ」の覚悟を決めて、決闘相手グルシニツキーの発射を待つ。相手が撃ち損じた後、ペチョーリンは決闘の中止を提案する。グルシニツキーは、「私を殺さないなら、夜に待ち伏せして切り殺す。この世にわれわれ2人分の場所はない」と返答する。ペチョーリンは撃ち、「喜劇は終わりぬ」と呟く。決闘場面は介添人を含めた息遣いが聞こえ、その描写に緊迫感が溢れている。形式を踏まえた決闘の緊迫した情景と、そこに至る決闘者の心理的葛藤は、本作品の特徴とする点である。
本作品での決闘に至る経過は次の通りである。グルシニツキーは、ペチョーリンが深夜に公爵令嬢メリーの部屋から出てきたと中傷した。ペチョーリンは、誹謗中傷だとしてその撤回を求めて決闘を申し入れる。真実は、ペチョーリンは人妻のヴェーラとの逢引きからの帰途であった。しかし、考えてみると、そんな相手側の単なる誤解に基づく中傷に対して、誤解を解く努力もしないで<決闘>を申し入れるだろうか?2人の決闘について、それが誰の名誉を守るためであったのか、公爵夫人、令嬢メリー、人妻ヴェーラ、医者ヴェルネルなど、関係者それぞれが、自分の都合に合わせて理解している。その他の連中も、ペチョーリンはメリーの名誉を守るために決闘を申し入れたと誤解している。ペチョーリン自身、ことの成り行きに従い、グルシニツキーと再会したときの予感に殉じたに過ぎない。誤解に基づいた決闘であることを承知で、誤解の行く末を試そうとする余計者ペチョーリンの生きざまを、著者レールモントフは描いてみせた。
小説の中で描かれる「恋愛と暴力沙汰が入れ混じった冒険譚」には、21世紀の読者は食傷している。本書は、日本でいえば江戸時代後期に書かれたロシアの小説であり、まあ、古臭い恋愛と暴力が描かれているに過ぎない。恋愛模様に関しては現代と異なる点はなく、愛欲描写もささやかである。暴力沙汰に関しては<決闘>がある。これは漫画の世界はいざ知らず、現代小説には殆ど出てこない。生活に倦怠したから、決闘でもして憂さを晴らそう、とでもいうかのような余計者ペチョーリンの態度は理解しがたい。しかし、その当時の<余計者>の価値観からすれば、それもあり得たのかとも思わせる。自他に対して不満を募らせ、幻滅の日々を送る人間にとっての決闘への想いは、単なる死に何倍か重層した思念を必要としたに違いない。レールモントフは、彼自身決闘によって26歳の生を終えている。自分のリアルな決闘においても、ペチョーリンと同様に、死と退屈の恐怖の相剋があったに違いない。
本書には、訳者高橋知之による32頁に及ぶ詳細な解説がある。レールモントフという【現代の英雄】について、彼の生い立ちから、ロシア皇帝ニコライ一世の治世、軍人としての生活、そして決闘による死を解題している。7頁に及ぶ「年譜」、訳注も丁寧に挿入されている。評論家沼野充義は、「レールモントフはこの1冊において、トルストイの卓越した自然描写と人間心理の分析、ドストエフスキーの底知れぬ悪の探求、そしてチェーホフの明晰でしなやかな文体のすべてを先取りしている」と評している。何よりも、時代の余計者であった著者が、自分の想像力によって<余計者>を【現代の英雄】として描いている点が本書の特徴といえる。
2021年2月23日に日本でレビュー済み
小説としてのたくらみにみちた小説だ。ロシア文学史上の先駆的な小説が、ほとんど前衛文学のような読後感を与えることに驚かされる。たとえば、何ともつかみどころのない「運命論者」の章が最後に置かれて、ぶつ切りのように作品が終わってしまうのだが、これは何なのだろう? どう読んでも普通の発想ではない。それが欠点ではなく、あとを引く謎となっているあたり、レールモントフの凄みなのだろうと思った。