ショーペンハウアー好きなので、購入。昔の絶版になった本は持っているが、活字が小さくて読みにくかったので、こちらを改めて購入しました。文字が大きめで読みやすい。3分冊になっているのも扱いやすくていいですね。
中身については改めていうまでもないですが、形而上学から芸術、宗教まで縦横無尽に論じる総合哲学です。カントやヘーゲル、ニーチェなどに比べても圧倒的に読みやすい。
また古代仏教の知見がベースになっており、西洋哲学の枠にとらわれない、現代社会でも注目に値する思想だと思います。
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意志と表象としての世界I (中公クラシックス) Kindle版
ショーペンハウアーの魅力は、ドイツ神秘主義と18世紀啓蒙思想という相反する二要素を一身に合流させていたその矛盾と二重性にある。いまその哲学を再評価する時節を迎えつつある。
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2004/8/10
- ファイルサイズ1487 KB
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登録情報
- ASIN : B00LMB2SPQ
- 出版社 : 中央公論新社 (2004/8/10)
- 発売日 : 2004/8/10
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 1487 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効にされていません
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 400ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 66,203位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
- - 22位中公クラシックス
- - 1,039位思想
- - 1,302位哲学・思想 (Kindleストア)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2019年12月26日に日本でレビュー済み
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厭世の哲学などという評価をショーペンハウアーの著作について下すことは「私は凡人である」と自ら認めて述べるに等しい。それは本著を正しく理解するなら直ちに判明することである。真に天才である芸術家が、(それ故に平凡なまわりの人間たちには理解されないために)孤独を感じざる得ないことは、本著第3部でも言及されている通りだが、つまるところ、天才の境地がかくのごとく孤高であるように、またそれを理解できる人も限られる。著者の言を借りれば、数百年のうちにもわずかしかあらわれない、ほんの一握りの人である。その境地に近ければ近いほどに、人は孤独であるだろう。
19世紀以降に科学の発達により(言い換えれば唯物論が幅を利かせることによって)文明は物質的には一見とても進歩したように見えるし、現に生活水準の豊かさとそれに伴う人口のかつてない爆発的な増加ということは、生物学的に見れば人類という種の繁栄であり、成功のようにもみえる。ところが、その一方で個としての人間である自分自身においては、この世界で生きるための術を得るためにますます細分化・専門家された領域へと向かって分断されざるを得ず、そのことがかえって個の孤立化・孤独化を招いていることは、二重の意味で人間相互の理解を妨げている。多様化する個性などと表現すれば聞こえはいいが、単に断片化したカオスとも言えるのである。そのような見通しのきかない、なにやら窮屈で息苦しくなってしまった人間社会(あるいは単に個人と言い換えてもいいが)において、明るく差し込む一筋の光。暗黒の迷妄から我々人間の健常な知性を導いて、今一度正しい方向へと指し示すもの。それが本著に他ならない。しかし、かといって、やはり誠に残念というほかはないが、この著作の価値を理解し、自分の生きる糧とすることのできる人間からして、真の天才の生まれる数の希少さほどではないにせよ非常に少数派であって、なかなか周囲の一般大衆までには広く受け入れられることは永久になさそうだと思われる。私はちょうどこの天才と凡人の中間あたりに属するらしく、ショーペンハウアーの思想には深く感銘をうけ、私の孤独を慰め、勇気づけてくれた。彼の述べるところの『意思と表象としての世界』を知ってしまえば、なるほどこれを知らない人間はもはや同じ種であるにもかかわらず、なにやら単に生命として生きているだけの動物のようにも見えてきてしまうのである。(これはあくまで私個人の卑しい感想であり、彼の著作の意図するところではない)おそらく多くのその他凡人から見れば、すでに私は『厭世の』境地に足を踏み入れてしまった人、ということになるのだろう。芸術すべてに惹かれる。絵も音楽も詩も彫刻もその他芸術であるものは何でも。現実一般に属するものには全くあるいはほとんど関心がない。政治も経済も法律も実際的な社会すべてが本音のところはどうでもよく、興味のある人が勝手にやったらいいと思っている。科学だけは生活の役に立つ部分だけ都合よく上手に取り入れたいが、それは概念を別の概念で言い換えるだけの堂々巡りと悟った今は、科学に過剰な期待をすることをすっかりやめた。
現に最高度まで発達した物質文明(唯物論として)のこの世に生を受け、その恩恵に浴して便利極まりない今を謳歌しておきながら、このような私見を暴露せざる得ないことはまことに後ろめたい思いではあるのだが、人はすべからく自己の選択によってこの世に生を受けたものではない以上、私のような態度が非難されることはないはずなのである。内なる世界には無限の楽しみがある。真理を知ったものにだけ開かれた地平を歩く自由がある。唯物論がとうとうその限界をさらけ出し、社会全体が亀裂を見せ始め、加速度的に化けの皮が剥がれ落ちる予兆が見え隠れする今の時世にこそ、読まれてしかるべき書である。観念論が見直される夜明けも近い。その最も優れた成果がショーペンハウアーの『意思と表象としての世界』である。人類の最高に輝かしい知的財産であり、われわれはこの著作があらわされた19世紀というひとつの時代を境に、急激に現代へと舵をきったことを忘れてはなるまい。おかしな流れの源流となった時代まで遡って反省する時がきている。彼のような偉大な哲人がその19世紀に出現したことは、全くそれは偶然ではなく必然であったと気がつくはずだ。そして『厭世』なる烙印の意味するところは、しょせんは唯物論を受け入れないという態度について、唯物論を担ぐ人々たちによって、それをそっくり言い換えただけの無明であることにも気がつかれるだろう。彼の哲学はただひたすら観念で到達しうるひとつの真理を述べている。あるいは諦念といってもよいが、それは読者自身がこの著作を読んで確かめていただくより他ない。
19世紀以降に科学の発達により(言い換えれば唯物論が幅を利かせることによって)文明は物質的には一見とても進歩したように見えるし、現に生活水準の豊かさとそれに伴う人口のかつてない爆発的な増加ということは、生物学的に見れば人類という種の繁栄であり、成功のようにもみえる。ところが、その一方で個としての人間である自分自身においては、この世界で生きるための術を得るためにますます細分化・専門家された領域へと向かって分断されざるを得ず、そのことがかえって個の孤立化・孤独化を招いていることは、二重の意味で人間相互の理解を妨げている。多様化する個性などと表現すれば聞こえはいいが、単に断片化したカオスとも言えるのである。そのような見通しのきかない、なにやら窮屈で息苦しくなってしまった人間社会(あるいは単に個人と言い換えてもいいが)において、明るく差し込む一筋の光。暗黒の迷妄から我々人間の健常な知性を導いて、今一度正しい方向へと指し示すもの。それが本著に他ならない。しかし、かといって、やはり誠に残念というほかはないが、この著作の価値を理解し、自分の生きる糧とすることのできる人間からして、真の天才の生まれる数の希少さほどではないにせよ非常に少数派であって、なかなか周囲の一般大衆までには広く受け入れられることは永久になさそうだと思われる。私はちょうどこの天才と凡人の中間あたりに属するらしく、ショーペンハウアーの思想には深く感銘をうけ、私の孤独を慰め、勇気づけてくれた。彼の述べるところの『意思と表象としての世界』を知ってしまえば、なるほどこれを知らない人間はもはや同じ種であるにもかかわらず、なにやら単に生命として生きているだけの動物のようにも見えてきてしまうのである。(これはあくまで私個人の卑しい感想であり、彼の著作の意図するところではない)おそらく多くのその他凡人から見れば、すでに私は『厭世の』境地に足を踏み入れてしまった人、ということになるのだろう。芸術すべてに惹かれる。絵も音楽も詩も彫刻もその他芸術であるものは何でも。現実一般に属するものには全くあるいはほとんど関心がない。政治も経済も法律も実際的な社会すべてが本音のところはどうでもよく、興味のある人が勝手にやったらいいと思っている。科学だけは生活の役に立つ部分だけ都合よく上手に取り入れたいが、それは概念を別の概念で言い換えるだけの堂々巡りと悟った今は、科学に過剰な期待をすることをすっかりやめた。
現に最高度まで発達した物質文明(唯物論として)のこの世に生を受け、その恩恵に浴して便利極まりない今を謳歌しておきながら、このような私見を暴露せざる得ないことはまことに後ろめたい思いではあるのだが、人はすべからく自己の選択によってこの世に生を受けたものではない以上、私のような態度が非難されることはないはずなのである。内なる世界には無限の楽しみがある。真理を知ったものにだけ開かれた地平を歩く自由がある。唯物論がとうとうその限界をさらけ出し、社会全体が亀裂を見せ始め、加速度的に化けの皮が剥がれ落ちる予兆が見え隠れする今の時世にこそ、読まれてしかるべき書である。観念論が見直される夜明けも近い。その最も優れた成果がショーペンハウアーの『意思と表象としての世界』である。人類の最高に輝かしい知的財産であり、われわれはこの著作があらわされた19世紀というひとつの時代を境に、急激に現代へと舵をきったことを忘れてはなるまい。おかしな流れの源流となった時代まで遡って反省する時がきている。彼のような偉大な哲人がその19世紀に出現したことは、全くそれは偶然ではなく必然であったと気がつくはずだ。そして『厭世』なる烙印の意味するところは、しょせんは唯物論を受け入れないという態度について、唯物論を担ぐ人々たちによって、それをそっくり言い換えただけの無明であることにも気がつかれるだろう。彼の哲学はただひたすら観念で到達しうるひとつの真理を述べている。あるいは諦念といってもよいが、それは読者自身がこの著作を読んで確かめていただくより他ない。
2022年12月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
難しかったです。少なくとも活字慣れした程度では読破できるものではないなと
2018年7月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
はっきりと言って、長いです。だけどそれは人間のあらゆる分野を語り尽くそうとしたため。現代では判断が主観的と思え、いかにも時代遅れだと感じることもありますが、しかしそれがこの本の主旨にもあっている。
時間がないのならば、中巻の途中から始まる四章からでも、ショーペンハウアーの哲学を感じることができます。
時間がないのならば、中巻の途中から始まる四章からでも、ショーペンハウアーの哲学を感じることができます。
2022年6月21日に日本でレビュー済み
最初は単行本の西尾幹二訳で拝読。大変わかりやすい訳でもあり、また同時に巻頭に収録の論文もまたショーペンハウアーを理解するためにありがたい論文で、これ一冊あれば、このドイツの哲学者を十分に理解することができます。
2005年5月27日に日本でレビュー済み
「世界は私の表象Vorstellungである」『意志と表象としての世界』は四つの構成から成立している。第一考察で基本的かつ根源的な考えを述べた後、第二考察でそれぞれ第一考察がどのように用いられているか、事例を用いて表現される。第二考察は第一考察の基本的な枠組みを押し広げる発展的な役割も為している。「表象」とは「目前に思うように心に思い描くこと。心像・想像・観念など広い意味」である。一般的な「現象」である。表象は、四つの原理:時間・空間・物質・概念に拘束される。この四つの原理=物が存在するための原理を、根拠の原理と呼ぶ。あらゆる表象=現象は、この根拠の原理に拘束され、時間から継起・空間から位置・物質から因果性・概念から関係性が導き出される。各人は表象=現象を物事の認識として到達する。しかし「意志」は、根拠の原理から拘束されず独立している。カントは、目前のものから色・形・重さなどあらゆる性質を奪い去って、それでもなお取り除くことのできないものを時間・空間・因果性とした。ショーペンハウアーは、個体化の原理とされる時間・空間・因果性を通して物自体を把握できるとすることは誤りだと見る。動・凝集力・不可入性などの一般的な自然力や電気・磁気作用などの複合的な状況下でのみ作用する自然力は、時間・空間・因果性といった個体化の原理で理解することは誤りで、人間の認識作用・意志作用を通して解せられると指摘する。思考にレッテルを貼ったり、人物の生き方の趣向・イメージ(好嫌尊卑)を云々言うよりも、書き連ねられた言葉と直接闘うこと。そして個人的な好嫌尊卑を超えて自らも思考すること。なぜなら「ショーペンハウアーが世界をどう見ていたか」は「私は世界をどう見るか」という命題につながるからだ。好嫌尊卑を超えて思考すること。説得力を失うのはその人物の思考したものを自らも思考し乗り越えるときしかない。
2015年6月6日に日本でレビュー済み
『普通の人間と類人猿との差は、ショーペンハウアーと普通の人間の差よりは小さい』これは残念ながら史上屈指の極悪人の言葉ですが、『意志と表象としての世界』のすべてを言い表していると思えてなりません。
たとえばわれわれが犬猫など動物を飼育し観察するとき、かれら動物たちがどのように世界を眺めているか、外界をどのように把握し、いかなる目的で行動しているか、われわれはその限界を見てとることができる。
人間であっても、相手が幼稚園児や小学校の低学年たちであれば、おおむねかれらの思考と行動を『俯瞰する』ことができます。
猫には固体にそれぞれ個性がありますが行動や思考に本能と知能によるまったく同一の部分が多々あることをわれわれが直ちにみてとれるのは、猫より人間が数段上の知能を持っているからであります。
人間の子供でも同様です。しかし猫たち子供たちはそのことに気付いていないでしょう。
つまりわれわれの数段上の知能を持っている人間にしてはじめて、われわれの個体性に惑わされることなく、ホモ・サピエンスがどのように世界を認識しどういう目的に突き動かされているかを客観的に俯瞰してみることができる。
ショーペンハウアーはそのような天才だったのだと思います。
たぶんやっと現代科学が追い付いたかどうかというレベルでしょう。
哲学界でショーペンハウアーが二流だともくされているのは当然です。
かれはチェスや将棋でいうなれば必勝パターンを産み出すところまでいってしまった。
将棋やチェスのプロが生き残るにはその存在を黙殺するしかないでしょう。そういうことです。
たとえばわれわれが犬猫など動物を飼育し観察するとき、かれら動物たちがどのように世界を眺めているか、外界をどのように把握し、いかなる目的で行動しているか、われわれはその限界を見てとることができる。
人間であっても、相手が幼稚園児や小学校の低学年たちであれば、おおむねかれらの思考と行動を『俯瞰する』ことができます。
猫には固体にそれぞれ個性がありますが行動や思考に本能と知能によるまったく同一の部分が多々あることをわれわれが直ちにみてとれるのは、猫より人間が数段上の知能を持っているからであります。
人間の子供でも同様です。しかし猫たち子供たちはそのことに気付いていないでしょう。
つまりわれわれの数段上の知能を持っている人間にしてはじめて、われわれの個体性に惑わされることなく、ホモ・サピエンスがどのように世界を認識しどういう目的に突き動かされているかを客観的に俯瞰してみることができる。
ショーペンハウアーはそのような天才だったのだと思います。
たぶんやっと現代科学が追い付いたかどうかというレベルでしょう。
哲学界でショーペンハウアーが二流だともくされているのは当然です。
かれはチェスや将棋でいうなれば必勝パターンを産み出すところまでいってしまった。
将棋やチェスのプロが生き残るにはその存在を黙殺するしかないでしょう。そういうことです。
2009年5月18日に日本でレビュー済み
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ニーチェに影響を与えた実存主義哲学者として、ヘーゲルと犬猿の仲だった在野哲学者として、数々のアフォリズムを残した厭世哲学者として、間接的に名前だけは知られているショーペンハウアーを、直接読もうとする読者があまりにも少ないのが残念で仕方が無い。これほど分かりやすく、面白く、魅力的な哲学者は滅多にいないというのに。
ドイツ本国でさえ発売当時見向きもされなかった『意志と表象としての世界(正篇)』の難点は、ショーペンハウアー哲学の独創性が遺憾なく発揮されている第三巻と第四巻が、その前置きに過ぎない第一巻と第二巻の背後に隠れている点であろう。その第一巻と第二巻が収められた本書は、ショーペンハウアー哲学の理解にとって避けては通れない鬼門であるとは言える。
しかしながら内容は決して難解でも退屈でもない。「世界は私の表象である」の一文で幕を開ける第一巻「表象としての世界の第一考察」は、その名のとおりわれわれが認識している世界の哲学的分析に終始している。第二巻「意志としての世界の第一考察」で論じられる「意志」は、ショーペンハウアー哲学最大のキーワードであろう。それを「神」の言い換えに過ぎないと断ずる評者もいるようだが、時間・空間・因果性によってフォーマットされる以前の世界をあえて「意志」と名づけた辺りは、感情によって世界が形成される実存主義哲学の先駆ともいえ興味深い。
『意志と表象としての世界(正篇)』はショーペンハウアーの主著であり、邦訳はほかに白水社の全集版と理想社版があるが、入手のしやすさと分かりやすさでは西尾幹二訳の本書が群を抜いている。このまま忘れ去られてしまうのはあまりにも惜しい、特に若い読者に読んでもらいたい古典的名著であり名訳である。
ドイツ本国でさえ発売当時見向きもされなかった『意志と表象としての世界(正篇)』の難点は、ショーペンハウアー哲学の独創性が遺憾なく発揮されている第三巻と第四巻が、その前置きに過ぎない第一巻と第二巻の背後に隠れている点であろう。その第一巻と第二巻が収められた本書は、ショーペンハウアー哲学の理解にとって避けては通れない鬼門であるとは言える。
しかしながら内容は決して難解でも退屈でもない。「世界は私の表象である」の一文で幕を開ける第一巻「表象としての世界の第一考察」は、その名のとおりわれわれが認識している世界の哲学的分析に終始している。第二巻「意志としての世界の第一考察」で論じられる「意志」は、ショーペンハウアー哲学最大のキーワードであろう。それを「神」の言い換えに過ぎないと断ずる評者もいるようだが、時間・空間・因果性によってフォーマットされる以前の世界をあえて「意志」と名づけた辺りは、感情によって世界が形成される実存主義哲学の先駆ともいえ興味深い。
『意志と表象としての世界(正篇)』はショーペンハウアーの主著であり、邦訳はほかに白水社の全集版と理想社版があるが、入手のしやすさと分かりやすさでは西尾幹二訳の本書が群を抜いている。このまま忘れ去られてしまうのはあまりにも惜しい、特に若い読者に読んでもらいたい古典的名著であり名訳である。