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動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学 単行本 – 2013/10/23
千葉 雅也
(著)
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つながりすぎ、動きすぎで〈接続過剰〉になった世界で「切断の哲学」を思考する画期的ドゥルーズ論----浅田彰、東浩紀両氏が絶賛する思想界の超新星、衝撃のデビュー!
“もっと動けばもっとよくなる"
“もっともっとつながりたい"
……動きすぎ、関係しすぎて、ついには身動きがとれなくなった世界でいかに生きるか。
待望のドゥルーズ入門。
ドゥルーズ哲学の正しい解説? そんなことは退屈な優等生どもに任せておけ。
ドゥルーズ哲学を変奏し、自らもそれに従って変身しつつ、
「その場にいるままでも速くある」ための、これは素敵にワイルドな導きの書だ。
----浅田彰
超越論的でも経験的でもなく、父でもなく母でもない「中途半端」な哲学。
本書は『存在論的、郵便的』の、15年後に産まれた存在論的継承者だ。
----東浩紀
【目次】
【序----切断論】
0-1 『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』
0-2 非意味的切断の原理
0-3 接続的/切断的ドゥルーズ
0-4 CsO、LSD、H!O
0-5 生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない
0-6 方法----ドゥルーズ哲学の幼年期へ
0-7 セルフエンジョイメント
【第1章】 生成変化の原理
1-1 物化と生成変化----万物斉同に抗する区別
1-2 生成変化論のレトリック(1)----区別のある匿名性
1-3 生成変化論のレトリック(2)----微粒子の関係
1-4 出来事と身体をパフォームする
1-5 心身並行論と薬毒分析
1-6 スピノザ主義から関係の外在性へ
【第2章】 関係の外在性----ドゥルーズのヒューム主義
2-1 『経験論と主体性』によるカント批判
2-2 差異=分離の原理
2-3 空間と恩寵
2-4 メイヤスーとハーマン
2-5 事情、因果性の部分化
2-6 結果=効果の存在論
2-7 原子論に対する思弁的解決
2-8 汎--観想論----時間の第一の総合
【第3章】 存在論的ファシズム
3-1 生気論的ホーリズム----《宇宙》
3-2 潜在性の逆超越化
3-3 代理-表象不可能性----時間の第二・第三の総合
3-4 構造主義的ホーリズム----《欠如》
3-5 ガタリとラカン
3-6 否定神学批判、複数的な外部性、変態する個体化
【第4章】 『ニーチェと哲学』における〈結婚存在論〉の脱構築
4-1 肯定を肯定する
4-2 ニーチェの多元論=経験論
4-3 ディオニュソスとアリアドネの結婚
4-4 ニヒリズムの徹底
【第5章】 個体化の要請----『差異と反復』における分離の問題
5-0 後半への序----関係主義から無関係の哲学へ
5-1 やる気のない他者と超越論的愚かさ
5-2 イロニーからユーモアへの折り返し
5-3 二つの現働性
5-4 強度=内包性の倫理
【第6章】 表面、深層、尿道----『意味の論理学』における器官なき身体の位置
6-1 表面の無-意味----《裂け目》
6-2 深層の下-意味----多孔性・多傷性
6-3 肛門的、尿道的、性器的
【第7章】ルイス・ウルフソンの半端さ
7-1 ドント・トリップ・オーバー・ザ・ワイヤー
7-2 成功したメランコリー
【第8章】 形態と否認----『感覚の論理』から『マゾッホ紹介』へ
8-1 純粋形式と非形態 vs 歪曲された形象
8-2 純粋否定と死の本能
8-3 否認、一次マゾヒズム
8-4 快原理の二つの彼岸
【第9章】 動物への生成変化
9-1 中間の動物
9-2 ユクスキュルのダニ
9-3 エチカ=エソロジーの陰
9-4 ノマドの暗い底
9-5 死を知る動物
エピローグ----海辺の弁護士
あとがき
“もっと動けばもっとよくなる"
“もっともっとつながりたい"
……動きすぎ、関係しすぎて、ついには身動きがとれなくなった世界でいかに生きるか。
待望のドゥルーズ入門。
ドゥルーズ哲学の正しい解説? そんなことは退屈な優等生どもに任せておけ。
ドゥルーズ哲学を変奏し、自らもそれに従って変身しつつ、
「その場にいるままでも速くある」ための、これは素敵にワイルドな導きの書だ。
----浅田彰
超越論的でも経験的でもなく、父でもなく母でもない「中途半端」な哲学。
本書は『存在論的、郵便的』の、15年後に産まれた存在論的継承者だ。
----東浩紀
【目次】
【序----切断論】
0-1 『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』
0-2 非意味的切断の原理
0-3 接続的/切断的ドゥルーズ
0-4 CsO、LSD、H!O
0-5 生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない
0-6 方法----ドゥルーズ哲学の幼年期へ
0-7 セルフエンジョイメント
【第1章】 生成変化の原理
1-1 物化と生成変化----万物斉同に抗する区別
1-2 生成変化論のレトリック(1)----区別のある匿名性
1-3 生成変化論のレトリック(2)----微粒子の関係
1-4 出来事と身体をパフォームする
1-5 心身並行論と薬毒分析
1-6 スピノザ主義から関係の外在性へ
【第2章】 関係の外在性----ドゥルーズのヒューム主義
2-1 『経験論と主体性』によるカント批判
2-2 差異=分離の原理
2-3 空間と恩寵
2-4 メイヤスーとハーマン
2-5 事情、因果性の部分化
2-6 結果=効果の存在論
2-7 原子論に対する思弁的解決
2-8 汎--観想論----時間の第一の総合
【第3章】 存在論的ファシズム
3-1 生気論的ホーリズム----《宇宙》
3-2 潜在性の逆超越化
3-3 代理-表象不可能性----時間の第二・第三の総合
3-4 構造主義的ホーリズム----《欠如》
3-5 ガタリとラカン
3-6 否定神学批判、複数的な外部性、変態する個体化
【第4章】 『ニーチェと哲学』における〈結婚存在論〉の脱構築
4-1 肯定を肯定する
4-2 ニーチェの多元論=経験論
4-3 ディオニュソスとアリアドネの結婚
4-4 ニヒリズムの徹底
【第5章】 個体化の要請----『差異と反復』における分離の問題
5-0 後半への序----関係主義から無関係の哲学へ
5-1 やる気のない他者と超越論的愚かさ
5-2 イロニーからユーモアへの折り返し
5-3 二つの現働性
5-4 強度=内包性の倫理
【第6章】 表面、深層、尿道----『意味の論理学』における器官なき身体の位置
6-1 表面の無-意味----《裂け目》
6-2 深層の下-意味----多孔性・多傷性
6-3 肛門的、尿道的、性器的
【第7章】ルイス・ウルフソンの半端さ
7-1 ドント・トリップ・オーバー・ザ・ワイヤー
7-2 成功したメランコリー
【第8章】 形態と否認----『感覚の論理』から『マゾッホ紹介』へ
8-1 純粋形式と非形態 vs 歪曲された形象
8-2 純粋否定と死の本能
8-3 否認、一次マゾヒズム
8-4 快原理の二つの彼岸
【第9章】 動物への生成変化
9-1 中間の動物
9-2 ユクスキュルのダニ
9-3 エチカ=エソロジーの陰
9-4 ノマドの暗い底
9-5 死を知る動物
エピローグ----海辺の弁護士
あとがき
- 本の長さ372ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日2013/10/23
- 寸法14 x 3 x 19.9 cm
- ISBN-104309246354
- ISBN-13978-4309246352
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商品の説明
著者について
1978年生まれ。哲学/表象文化論。フランス現代哲学の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。NHK・Eテレ「哲子の部屋」に出演するなど、いま注目の哲学者。本書が初の著作。
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (2013/10/23)
- 発売日 : 2013/10/23
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 372ページ
- ISBN-10 : 4309246354
- ISBN-13 : 978-4309246352
- 寸法 : 14 x 3 x 19.9 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 259,468位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 885位西洋思想
- カスタマーレビュー:
著者について
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1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。哲学/表象文化論を専攻。フランス現代思想の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。現在は、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。
『動きすぎてはいけない——ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』は博士論文を元にしたもの。紀伊國屋書店じんぶん大賞2013、表象文化論学会第五回学会賞。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2017年9月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
単行本では硬いイメージがあったこの本、文庫になるだけでとてもしなやかな本になっています。脚注も巻末でなく各見開きページにあり、どの章から読んでも何かしらの問いを読み取れます。端的に言って、この本は時に主体自身として、時に主体の他者として、人間に関わる事項をつなげすぎず、かつほどきすぎず関連して語る著者の見事な織物コンテクストです。他者論やマゾヒズムの多層性を知らしめた意欲作とも言えるでしょう。序の「切断」から第1章「生成変化の原理」で「動きすぎてはいけない」としながら、ヒュームの精神の入れ物批判(第2章関係の外在性)や、ハイデガーの他者存在論(第3章存在論的ファシズム)、ニーチェのアリアドネ的な結婚存在論(第4章)を経て、差異と反復の個体化の要請(第5章)や意味の論理学の表面と深層、身体的内部(第6章)そして分裂症(第7章)からイロニー/ユーモアとマゾヒズムの多層性(第8章)を語った後に、動物の生成変化とノマドの暗い底(第9章)までに至ります。どの章から読んでも、何かしらのドゥルーズの無人島の岸辺のさざなみが聞こえる不思議な読後感を得られる本です。
2020年12月12日に日本でレビュー済み
千葉雅也(1978年~)氏は、フランス現代哲学及び表象文化論を専門とする、立命館大学大学院教授で、2013年に発表したデビュー作の本書で表象文化論学会賞を受賞した、現在注目される現代思想家のひとり。
本書は、難解な哲学書ながらベストセラーとなったことは有名。単行本の帯には、1980年代のニューアカ・ブーム時のベストセラー『構造と力』の浅田彰と、1998年に『存在論的、郵便的』で注目された東浩紀が推薦文を寄せている。
私は、千葉氏と同じ高校出身ということもあり、本書もいつか読んでみたいと思いつつ、ドゥルーズはじめ現代思想に関する予備知識なしには、正直全く歯が立たず、今般、文庫版(2017年)に収められた小倉拓也氏の「文庫版解説(読解の手引)」を頼りに、一通りページをめくってみた。
以下は小倉氏の手引を参考にした本書のポイントである。(「切断論」と「個体化論」の考察には立ち入らない)
◆本書は、ドゥルーズ研究の歴史と現状に批判的に挑戦し、新たなドゥルーズを立ち上げようとする試みである。
◆“いわゆるドゥルーズ”とは、「差異」を「同一性」に先立つものとし、世界は「同一性」の下で、微小な「差異」がうごめき、全ての多様なものたちが互いにコミュニケートしていると考える。そのような世界は、「現働的なもの」ではなく「潜在的なもの」であり、この考え方では、「静的で固定されたもの」よりも「動的で絶えず変化するもの」を高く評価する。このようなドゥルーズを本書では「接続的ドゥルーズ」と呼ぶ。
◆しかし、「<ひとつ>の世界で<すべて>の多様なものたちがコミュニケートする」=「<すべて>は<ひとつ>である」=「<すべて>はつながっている」(「存在の一義性」、「差異の存在論」)という考え方は、存在の耐え難い息苦しさをもたらすのではないか。つまり、そうした世界は、つながりを飽和し、どこにも逃走の余地がない世界、「接続過剰」の世界ではないか。
◆ただ、一方には、コミュニケーションで飽和した<すべて>=<ひとつ>からの「切断」を指向し、同時に「個体化」(暫定的なまとまり=「器官なき身体」)を要請する、「別のしかた」のドゥルーズ(「切断的ドゥルーズ」)が間違いなく並存する。なぜなら、“いわゆるドゥルーズ”の生成変化とは、「現働性」から理念的で「潜在的」な領域へとイロニー的に上昇することで、それを突き詰めれば、その「動きすぎ」によって、私たちは逃走の余地をなくし、身動きがとれなくなって、生成変化はみずからを殺してしまうからである。
◆だからこそ、「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」のだが、それは運動を否定して現働性に甘んじることではなく、現働性から潜在性へのイロニー的遡行を半ばで止め、そこからユーモア的個体化へ戻ってくることにより、つながりの飽和から「切断」し、「個体化」することである。しかし、「切断」と「個体化」により固定した「現働性」に落ち着くことにより、逆に生成変化を殺してしまわないように、イロニー的遡行とユーモア的折り返しを絶えずに行うことが重要である。
◆こうして、まさに生成変化の論理が要請するところにしたがって、私たちは「接続的ドゥルーズ」と「切断的ドゥルーズ」の両方を必要とする、すなわち、「動きすぎてはいけない」のである。
また、私は、本書の後に発表された、『ツイッター哲学~別のしかたで』、『勉強の哲学』、『アメリカ紀行』などのソフトなものを先に読んだが、それらには本書に現れるキーワードやコンセプトが使われていることもわかった。
ただ、本書のキャッチ―なキーワード「動きすぎてはいけない」が、我々の現実の日常において、「最近動きすぎているから、少しおとなしくしよう」という文脈につながるものなのか。。。残念ながら、これはよくわからなかった。
(2020年12月了)
本書は、難解な哲学書ながらベストセラーとなったことは有名。単行本の帯には、1980年代のニューアカ・ブーム時のベストセラー『構造と力』の浅田彰と、1998年に『存在論的、郵便的』で注目された東浩紀が推薦文を寄せている。
私は、千葉氏と同じ高校出身ということもあり、本書もいつか読んでみたいと思いつつ、ドゥルーズはじめ現代思想に関する予備知識なしには、正直全く歯が立たず、今般、文庫版(2017年)に収められた小倉拓也氏の「文庫版解説(読解の手引)」を頼りに、一通りページをめくってみた。
以下は小倉氏の手引を参考にした本書のポイントである。(「切断論」と「個体化論」の考察には立ち入らない)
◆本書は、ドゥルーズ研究の歴史と現状に批判的に挑戦し、新たなドゥルーズを立ち上げようとする試みである。
◆“いわゆるドゥルーズ”とは、「差異」を「同一性」に先立つものとし、世界は「同一性」の下で、微小な「差異」がうごめき、全ての多様なものたちが互いにコミュニケートしていると考える。そのような世界は、「現働的なもの」ではなく「潜在的なもの」であり、この考え方では、「静的で固定されたもの」よりも「動的で絶えず変化するもの」を高く評価する。このようなドゥルーズを本書では「接続的ドゥルーズ」と呼ぶ。
◆しかし、「<ひとつ>の世界で<すべて>の多様なものたちがコミュニケートする」=「<すべて>は<ひとつ>である」=「<すべて>はつながっている」(「存在の一義性」、「差異の存在論」)という考え方は、存在の耐え難い息苦しさをもたらすのではないか。つまり、そうした世界は、つながりを飽和し、どこにも逃走の余地がない世界、「接続過剰」の世界ではないか。
◆ただ、一方には、コミュニケーションで飽和した<すべて>=<ひとつ>からの「切断」を指向し、同時に「個体化」(暫定的なまとまり=「器官なき身体」)を要請する、「別のしかた」のドゥルーズ(「切断的ドゥルーズ」)が間違いなく並存する。なぜなら、“いわゆるドゥルーズ”の生成変化とは、「現働性」から理念的で「潜在的」な領域へとイロニー的に上昇することで、それを突き詰めれば、その「動きすぎ」によって、私たちは逃走の余地をなくし、身動きがとれなくなって、生成変化はみずからを殺してしまうからである。
◆だからこそ、「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」のだが、それは運動を否定して現働性に甘んじることではなく、現働性から潜在性へのイロニー的遡行を半ばで止め、そこからユーモア的個体化へ戻ってくることにより、つながりの飽和から「切断」し、「個体化」することである。しかし、「切断」と「個体化」により固定した「現働性」に落ち着くことにより、逆に生成変化を殺してしまわないように、イロニー的遡行とユーモア的折り返しを絶えずに行うことが重要である。
◆こうして、まさに生成変化の論理が要請するところにしたがって、私たちは「接続的ドゥルーズ」と「切断的ドゥルーズ」の両方を必要とする、すなわち、「動きすぎてはいけない」のである。
また、私は、本書の後に発表された、『ツイッター哲学~別のしかたで』、『勉強の哲学』、『アメリカ紀行』などのソフトなものを先に読んだが、それらには本書に現れるキーワードやコンセプトが使われていることもわかった。
ただ、本書のキャッチ―なキーワード「動きすぎてはいけない」が、我々の現実の日常において、「最近動きすぎているから、少しおとなしくしよう」という文脈につながるものなのか。。。残念ながら、これはよくわからなかった。
(2020年12月了)
2022年11月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
博士論文がベースになった専門書であり、べつに一般向けの本ではない。なぜ、文庫化するのか?
2018年1月13日に日本でレビュー済み
『千のプラトー』を読んだ人ならば、誰しもが千のプラトーについて語りたい、それも饒舌に、と思うところですが、その時に使える言葉というのは、『千のプラトー』に出てきたフレーズそのままか(何せとてもカッコいいので)、思い切り自分の経験とテリトリーに引きつけた地口であることがほとんどです。
ひるがえって、千葉さんによるこの本は、ドゥルーズをアカデミックに、かなり中庸な言葉で回収したところに価値がある本です。
この本によって、ようやくドゥルーズを語るのに共通の言葉ができ、議論と理解はかなり進むことでしょう。そのような意味では、この本は浅田彰や東浩紀の後に続いている本と言えます。
とはいえ、その内容は一言で要約するには程遠く、ドゥルーズをデリダ的手法で読解し、可能性の束を解いてはまとめていく作業は、力量と苦労としかいいようがなく、浅田彰や東浩紀のチャート式からは遠い位置にあります。
しかし、ネグリ・ハートらによる変革を目指した政治を否定して、ありのままに生成されていくものたちに寄り添う位置取りをしている千葉さんは、理論面では、このままいくと社会学の哲学的基礎付けに至って終わってしまいそうです。
実践面からいえば、浅田彰や東浩紀のチャート式は、チャート式であるからには実践に向けた政治志向が確かにありましたが、千葉さんには、ともすればかつての宮台真司が援交女子高生を傷つかない新人類として称揚したような現状肯定、いまならばワープアやニートによる器用仕事を賞賛する道しか残されていないように見えます。
振り向けば北田暁大による『責任と正義』が、それは社会学帝国主義の密輸入!と迫ってくるでしょうし、千葉さんがたぶん意図しているであろう中間痴態的実践はphaさんがギークハウスで日々生きているでしょう。
何かに強かさを見出して寄り添っていくのも戦略ですが、10年後にしかその成否はわからない。ツイッターは10年後もありますかね??
業界内で誰と連合して誰と切断していくのか、千葉さんのここからの生成変化、今後の展開に期待するところです。
ひるがえって、千葉さんによるこの本は、ドゥルーズをアカデミックに、かなり中庸な言葉で回収したところに価値がある本です。
この本によって、ようやくドゥルーズを語るのに共通の言葉ができ、議論と理解はかなり進むことでしょう。そのような意味では、この本は浅田彰や東浩紀の後に続いている本と言えます。
とはいえ、その内容は一言で要約するには程遠く、ドゥルーズをデリダ的手法で読解し、可能性の束を解いてはまとめていく作業は、力量と苦労としかいいようがなく、浅田彰や東浩紀のチャート式からは遠い位置にあります。
しかし、ネグリ・ハートらによる変革を目指した政治を否定して、ありのままに生成されていくものたちに寄り添う位置取りをしている千葉さんは、理論面では、このままいくと社会学の哲学的基礎付けに至って終わってしまいそうです。
実践面からいえば、浅田彰や東浩紀のチャート式は、チャート式であるからには実践に向けた政治志向が確かにありましたが、千葉さんには、ともすればかつての宮台真司が援交女子高生を傷つかない新人類として称揚したような現状肯定、いまならばワープアやニートによる器用仕事を賞賛する道しか残されていないように見えます。
振り向けば北田暁大による『責任と正義』が、それは社会学帝国主義の密輸入!と迫ってくるでしょうし、千葉さんがたぶん意図しているであろう中間痴態的実践はphaさんがギークハウスで日々生きているでしょう。
何かに強かさを見出して寄り添っていくのも戦略ですが、10年後にしかその成否はわからない。ツイッターは10年後もありますかね??
業界内で誰と連合して誰と切断していくのか、千葉さんのここからの生成変化、今後の展開に期待するところです。
2013年11月21日に日本でレビュー済み
「表象」の教養が産み落とした…繋がりすぎの現代を生き抜く「肉体的」な思想。
非意味的切断が焦眉のテーマ、という序章にリズムよく肉付けしていく。
80年代以降の日本のポストモダンの思想を総括しつつ、気持ちよく引っ張る著者の筆力、確信は衝撃的でさえあった。
評者は「精神分析」、どちらかといえば「モダン」、臨床現場に依拠したい立場であるが、次々と連想が浮かぶ文章に、引き込まれた。
p36「すぐれて非意味的切断と呼ばれるべきは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ、中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害といった「有限性」のためにあちこちを乱走している切断である」
この有限性を「個の情緒を飛び越える切断」、という方向に広げて連想すると、核家族化で、身寄りのない薬物依存症の方が、きらめくような純粋な言葉を持っていたことを思い出した。
p287「ドゥルーズ&ガダリにおいて健康化された分裂症のその健康化の核心は、まず精神病と倒錯のオーバーダブを神経症から切断することである」
統合失調症のSST(ソーシャルスキルストレーニング)において、無意味で乾いた演技性が漂うのに、健康的な片鱗が突然みえる事態を連想。
読み手の脳裏に自由連想が次々に浮かぶ文章。
その美しさ、リズム感は、ヒーロー誕生の感覚がある。
シンプルな調度品にまとめられ、程よく繁盛しているバーで、早めに出勤してトレーニングを積みまくったバーテンダーが、注文しなくても次に飲みたいお酒を出してくれるような…勢いがあった。
引き込まれる中性的な魅力は一体なんなのか。単なる「ギャル男」の切り口では想像できない、繊細に表層を扱う能力を感じる。
例えばプールで泳いでいる水泳選手の身体と息継ぎの滑らかな動きをプールサイドの波の形だけで、直観的に判断している状況を連想。
(極めて個人的な興味であるが)
ドゥルーズについて、その自殺が一体何を意味し、問いかけているのか・・・?という点に関心があった。
著者の鋭い洞察に基づいて、連想を広げてみる。非意味的接続を拒否し、「動きすぎない」生を最後まで考えつづける果敢な試みなのか。
「おい、本当に息をしなくて、動かなくなっちゃったら、どうしよう?何を思う?」と意味的接続をしてみる。
最後の第9章「動物への生成変化」で説かれる
『動物こそが知る「死」、それは自分の環世界にとって無関心な外部から来る他者によって不意打ちされ、わけも分からずに-(略)殺されうるということである。「根本的に待ち伏せる存在」とは、すなわち、自他の環世界の境界において互いの貧しさゆえにシャープに分離された他者性へと、シャープに―無関心なまま敏感に―応じる存在なのである。』
ドゥルーズの自殺はある種の精神病水準に降りて、非意味の限界、動物的な敏感さ、ナイーブさに突入した思考過程だったのか。
著者の文章は、卓越した語学力・読解力故なのか、日本語の可能性、翻訳の力量をみせてくる点で、(先進国で、自殺した現代思想家という重い影の中、解釈しても)なんだか元気の出る「弔い」になった。ポスト・ポストモダンの学問世界を、希望をもって、毎日、勉強しよう〜!などと。
非意味的切断が焦眉のテーマ、という序章にリズムよく肉付けしていく。
80年代以降の日本のポストモダンの思想を総括しつつ、気持ちよく引っ張る著者の筆力、確信は衝撃的でさえあった。
評者は「精神分析」、どちらかといえば「モダン」、臨床現場に依拠したい立場であるが、次々と連想が浮かぶ文章に、引き込まれた。
p36「すぐれて非意味的切断と呼ばれるべきは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ、中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害といった「有限性」のためにあちこちを乱走している切断である」
この有限性を「個の情緒を飛び越える切断」、という方向に広げて連想すると、核家族化で、身寄りのない薬物依存症の方が、きらめくような純粋な言葉を持っていたことを思い出した。
p287「ドゥルーズ&ガダリにおいて健康化された分裂症のその健康化の核心は、まず精神病と倒錯のオーバーダブを神経症から切断することである」
統合失調症のSST(ソーシャルスキルストレーニング)において、無意味で乾いた演技性が漂うのに、健康的な片鱗が突然みえる事態を連想。
読み手の脳裏に自由連想が次々に浮かぶ文章。
その美しさ、リズム感は、ヒーロー誕生の感覚がある。
シンプルな調度品にまとめられ、程よく繁盛しているバーで、早めに出勤してトレーニングを積みまくったバーテンダーが、注文しなくても次に飲みたいお酒を出してくれるような…勢いがあった。
引き込まれる中性的な魅力は一体なんなのか。単なる「ギャル男」の切り口では想像できない、繊細に表層を扱う能力を感じる。
例えばプールで泳いでいる水泳選手の身体と息継ぎの滑らかな動きをプールサイドの波の形だけで、直観的に判断している状況を連想。
(極めて個人的な興味であるが)
ドゥルーズについて、その自殺が一体何を意味し、問いかけているのか・・・?という点に関心があった。
著者の鋭い洞察に基づいて、連想を広げてみる。非意味的接続を拒否し、「動きすぎない」生を最後まで考えつづける果敢な試みなのか。
「おい、本当に息をしなくて、動かなくなっちゃったら、どうしよう?何を思う?」と意味的接続をしてみる。
最後の第9章「動物への生成変化」で説かれる
『動物こそが知る「死」、それは自分の環世界にとって無関心な外部から来る他者によって不意打ちされ、わけも分からずに-(略)殺されうるということである。「根本的に待ち伏せる存在」とは、すなわち、自他の環世界の境界において互いの貧しさゆえにシャープに分離された他者性へと、シャープに―無関心なまま敏感に―応じる存在なのである。』
ドゥルーズの自殺はある種の精神病水準に降りて、非意味の限界、動物的な敏感さ、ナイーブさに突入した思考過程だったのか。
著者の文章は、卓越した語学力・読解力故なのか、日本語の可能性、翻訳の力量をみせてくる点で、(先進国で、自殺した現代思想家という重い影の中、解釈しても)なんだか元気の出る「弔い」になった。ポスト・ポストモダンの学問世界を、希望をもって、毎日、勉強しよう〜!などと。
2017年9月9日に日本でレビュー済み
ちょっと前に単行本で出たはずの本が,この早さで,文庫本になるとは。
ちょっと単行本では手が出せない価格だったのが,2コインちょっとで手にはいるとは。
どうやら著者の東大での博士論文が文庫本で読めるとは。
驚きずくめの展開に,つい手にとって買ってしまいました。
単行本にはない,「文庫本解説 読解の手引き」(小倉拓也氏)が解釈の幅を広げてくれます。
序文で,哲学者ジル・ドゥルーズの思想の背景を,博士論文とは思えない疾走感ただよう文体で説明されているのに触れ,身体が震えるようなゾクゾクとする感覚に襲われました。
「接続過剰」,あるいはコミュニケーション過剰にならないような「慎重」な切断の意味を解きほぐしていく,これからの新たなドゥルーズの読み方が提唱されていたように感じられ,改めて「翻訳過剰」のドゥルーズの本を読み直したくなりました。
このごろ,コミュニケーション障害がよく話題になりますが,それも,まるでマスコミに煽られるようにして,いろいろな世界に首をつっこむことが称揚される世相を考えれば,この本が警告のようなメッセージを含んでいるとも受け取れます。
こんなご時世には,この『動きすぎてはいけない』のドゥルーズ解釈から,きわめて示唆的な卓見を数多く見いだすことができるかもしれません。
ちょっと単行本では手が出せない価格だったのが,2コインちょっとで手にはいるとは。
どうやら著者の東大での博士論文が文庫本で読めるとは。
驚きずくめの展開に,つい手にとって買ってしまいました。
単行本にはない,「文庫本解説 読解の手引き」(小倉拓也氏)が解釈の幅を広げてくれます。
序文で,哲学者ジル・ドゥルーズの思想の背景を,博士論文とは思えない疾走感ただよう文体で説明されているのに触れ,身体が震えるようなゾクゾクとする感覚に襲われました。
「接続過剰」,あるいはコミュニケーション過剰にならないような「慎重」な切断の意味を解きほぐしていく,これからの新たなドゥルーズの読み方が提唱されていたように感じられ,改めて「翻訳過剰」のドゥルーズの本を読み直したくなりました。
このごろ,コミュニケーション障害がよく話題になりますが,それも,まるでマスコミに煽られるようにして,いろいろな世界に首をつっこむことが称揚される世相を考えれば,この本が警告のようなメッセージを含んでいるとも受け取れます。
こんなご時世には,この『動きすぎてはいけない』のドゥルーズ解釈から,きわめて示唆的な卓見を数多く見いだすことができるかもしれません。