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増補 責任という虚構 (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2020/1/10
小坂井 敏晶
(著)
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ホロコースト・死刑・冤罪の分析から現れる責任の論理構造とは何か。そして人間の根源的姿とは。補考「近代の原罪」を付した決定版。解説 尾崎一郎
- 本の長さ544ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2020/1/10
- 寸法10.7 x 2.2 x 14.9 cm
- ISBN-104480099530
- ISBN-13978-4480099532
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2020/1/10)
- 発売日 : 2020/1/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 544ページ
- ISBN-10 : 4480099530
- ISBN-13 : 978-4480099532
- 寸法 : 10.7 x 2.2 x 14.9 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 36,061位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2024年4月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
とにかく面白くて仕方なかった。過去に読んだ著者の別の本に対しても理解が深まりました。
2024年2月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
■この本と出会えて、本当に良かった。この本を構成しているすべてに感謝している。
2022年5月27日に日本でレビュー済み
僕らが普段感じている「責任」、「主体性」、「自由」などは、実は社会から無意識のうちに誘導され、強制されているものであるーと断じている。思想・規範・正義・自由・・が重要と考える向きには”コサカ”しいという評価になるかも知れない本。
ホロコースト・戦争や死刑制度・冤罪など集団的な残虐行為を通して、“普通の人々の行動と「責任」に関する考察”である。
今迄にない共感を覚える視点:“責任(又は自己責任)は宗教や近代的な主体・法意識という虚構が個人に強制するものであって、人間から遊離して自立運動する社会秩序(≒集団性≒真善美)という「外部」である 。”という。
実生活ではあまり主張すると「へそ曲がりな考え」やアナーキーな人ととられるような主張であるが、読めば読むほど頷いてしまうので致し方ない。この本を読む前に、著者と一度、歓談したが、普通の日本人やフランス人と話す感覚であったので、本の先鋭さには少し驚いた。
各部の結論は明快で新しい。根拠は既存の哲学・思想ではなく、社会学者・脳医学等々の研究・調査・実験・観察から来ていて、但し若干ややっこしいし、適正かどうかは分からない。
多数の研究者や思想家の論・規範を、それらの観念性の誤謬ゆえに歴史上の事実から批判していく。こんな爽快なことが出来るのか?と浅はかにも思わせるところがある。
著者の「虚構」の意味:著書シリーズのテーマだが定義は難解。「人類社会の無意識現象」や「集団幻想」と僕は解釈している。
ホロコースト・戦争や死刑制度・冤罪など集団的な残虐行為を通して、“普通の人々の行動と「責任」に関する考察”である。
今迄にない共感を覚える視点:“責任(又は自己責任)は宗教や近代的な主体・法意識という虚構が個人に強制するものであって、人間から遊離して自立運動する社会秩序(≒集団性≒真善美)という「外部」である 。”という。
実生活ではあまり主張すると「へそ曲がりな考え」やアナーキーな人ととられるような主張であるが、読めば読むほど頷いてしまうので致し方ない。この本を読む前に、著者と一度、歓談したが、普通の日本人やフランス人と話す感覚であったので、本の先鋭さには少し驚いた。
各部の結論は明快で新しい。根拠は既存の哲学・思想ではなく、社会学者・脳医学等々の研究・調査・実験・観察から来ていて、但し若干ややっこしいし、適正かどうかは分からない。
多数の研究者や思想家の論・規範を、それらの観念性の誤謬ゆえに歴史上の事実から批判していく。こんな爽快なことが出来るのか?と浅はかにも思わせるところがある。
著者の「虚構」の意味:著書シリーズのテーマだが定義は難解。「人類社会の無意識現象」や「集団幻想」と僕は解釈している。
2022年5月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まだ読み込みが浅く、著者の主張を完全に掴めてはいませんが、論証を行う上で使われている材料に、信頼性に欠けていたりさらにはほぼ無価値と言っていいものが含まれているのはいかがなものかと思います。
まず、実験方法・結果・解釈に多大なる疑義があるミルグラムの服従実験(とその追従実験など)・スタンフォード監獄実験を慎重さを持って見ることも促さず援用しています。
ラタネとダーリーによる研究の対象の事件(名前は出てきませんがキティ・ジェノヴィーズ事件のこと)についても、分かる結論や事件自体の真相についても様々な疑義があります(Wikipediaの英語版記事に詳しい)(ただ、傍観者効果というもの自体は私はあるとは思います)。
Wilson とZajoncのサブリミナル効果に関連がある研究についても、著者がそこから述べているようには評価しがたいのではと思います(福田充-サブリミナル効果再考 -認知心理学的アプローチからみた効果の実態-などを参照)
このような残念な点はあるものの、死刑制度やホロコーストをめぐる真に迫る文章の紹介や考察は一読の価値はあると思いますし、著者が言いたいであろうことも十分に学問的価値がある、と現時点では考えています。
まず、実験方法・結果・解釈に多大なる疑義があるミルグラムの服従実験(とその追従実験など)・スタンフォード監獄実験を慎重さを持って見ることも促さず援用しています。
ラタネとダーリーによる研究の対象の事件(名前は出てきませんがキティ・ジェノヴィーズ事件のこと)についても、分かる結論や事件自体の真相についても様々な疑義があります(Wikipediaの英語版記事に詳しい)(ただ、傍観者効果というもの自体は私はあるとは思います)。
Wilson とZajoncのサブリミナル効果に関連がある研究についても、著者がそこから述べているようには評価しがたいのではと思います(福田充-サブリミナル効果再考 -認知心理学的アプローチからみた効果の実態-などを参照)
このような残念な点はあるものの、死刑制度やホロコーストをめぐる真に迫る文章の紹介や考察は一読の価値はあると思いますし、著者が言いたいであろうことも十分に学問的価値がある、と現時点では考えています。
2023年11月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
*** 追記です ***
人間には自由意志がある(自分の意思決定・アクション選択を、自分が意識的にコントロールしている)という思い込みは虚構なわけですが、例えば、次のような素朴な質問に対して、どう説明すれば腹落ちしてもらえるか、僕なりの答えを参考までに書いておきます。
【質問】
猛暑の中、エアコンが壊れてしまった。古くて修理不可のため、量販店に駆け込みどれを購入するか検討した結果、AとBの2機種が候補として残った。比較すると、AはBより安いが、BはAより納期が早い。迷った末、納期を優先しBを購入した。--- これはまさに自由意志があるということではないのか?
【答え】
確かに自由意志があるように思える。しかし、AとBのどちらかを選択/購入する、という意思決定は何を基準(物差し)にして行われただろうか?コストアップよりも、エアコン無しの寝苦しい夜をなるべく少なくするのが重要だと考えたからに決まってるだろ、と言われるかもしれない。でもそれでは何が基準なのかの回答になっていない。ここでよく考えてみると、XよりYを重要だと考えた、というのは実は、YよりXの方に違和感がある(XよりYの方が快である)ということが本質であることがわかる。つまり、違和感(快不快)が意思決定の基準になっている。さて、この違和感(快不快)は、意思決定する時、意識的にコントロールできるだろうか?残念ながらできない。なぜなら違和感(快不快)は湧いてくるもの、これまでの人生で蓄積された快不快の記憶に依存するものだから。となると、意思決定は、自分で意識的にコントロールできない<違和感(快不快)>に基づき行われていることになる。よって、自由意志は虚構だ。
*** 追記終わり ***
ざっくり「自由意志が幻想である以上、責任という概念は虚構。ただ、虚構無しでは人間は存在しえない。」ということが書いてあり、もちろんその通りです。各種文献の引用がそれぞれ興味深く楽しめました。著者に感謝です。内容についてほぼ同意なのですが、以下、気になった点について少しコメントします。
<自由意志は責任を根拠付けるために動員される虚構?>
そういう側面もありますが、自由意志(自分の意思決定・アクション選択を、自分が意識的にコントロールしている)という思い込みには、人間が人為的なルールを命じ/遵守することに、その思い込みが有効(というか必須)なことがより根本にある。つまり、社会的動物である人間が、ルールの網で構成される社会を構成する上で、自由意志があるという幻想がなくてはならないからだと考えます。
例えば、親が「今後XXXをしてはいけません。」とルールを指示するのも、「わかった。今後XXXをしないようにする。」と子供が決意するのも、前提として、本人の意思決定は本人が意識的にコントロールできる(XXXをするかしないかは本人の意思決定次第)という思い込みがある。だから、自由意志があるという思い込みは、人間(ルール)社会の成立のキー。もう少し親子の話を続けます。
子供がルールを守れなかったとします。すると親は「なんで守れないんだ。駄目じゃないか。」と子供を叱る(か不機嫌になる)。ここでは、子供がルールに従って行動を意識的にコントロールできなかったことに対し、子供に《責任》があり、罰(叱られること自体も罰)を受けるのは当然だ、という感覚が親子双方に共有されている。
以上をまとめると、
・責任を根拠付けるために自由意志という虚構が動員されるのではなく、
・人間が人間(ルール)社会を構成するには、自由意志という虚構が必要で、
・その上で(あるいは同時に)、ルール遵守を促進する要素として責任という虚構が動員される、
と考えるのが合理的なように思いました。
なお、自由意志と責任は、神の死んだ近代の専売特許ということではなく、人間社会の成立時から、自由意志と責任は(上記の意味で)存在した。ただ、昔は、怨霊に取り憑かれるとか、悪霊が入り込むとか、洋の東西を問わず、自分の行動は自由意志だけでは成り立たっていない、という信憑も同時に存在していた、ということだと思います。
<虚構のない世界に人間は生きられないが・・・>
はい。虚構のない世界に人間は生きられない、というか、人間社会が成立しないです。ただ、例えば、責任が虚構であることを理解すると、世界が今までと違って見えてくる/感じられる。例えば、自由意志が幻想なのに、殺人犯を死刑に処すのは虐待だ。危ない人なら再犯防止のため治療するか、治療が無理なら隔離するのが合理的。そもそも、自分達に不都合な人は、抹殺して良いというメンタリティは、侵略戦争のメンタリティに繋がる。死刑は廃止すべき!という世界観が生まれてきたりする、といったことがあると思います。つまり、虚構を認識することで、虚構が変質し世界が違って見えてくる。さらに、虚構自体を生きる時と、虚構をメタレベルで意識しながら世界を捉える時(特に、責任が問題になる場面)を、適宜切り替えながら生活することも可能になる。だから、虚構の認識は、人間社会の変化の大きなトリガーになると思います。著者が、この辺りのことをポジティブな形で書いていないのが少し残念でした。。でもとてもいい本です。
久永公紀『意思決定のトリック』・『宮沢賢治の問題群』
人間には自由意志がある(自分の意思決定・アクション選択を、自分が意識的にコントロールしている)という思い込みは虚構なわけですが、例えば、次のような素朴な質問に対して、どう説明すれば腹落ちしてもらえるか、僕なりの答えを参考までに書いておきます。
【質問】
猛暑の中、エアコンが壊れてしまった。古くて修理不可のため、量販店に駆け込みどれを購入するか検討した結果、AとBの2機種が候補として残った。比較すると、AはBより安いが、BはAより納期が早い。迷った末、納期を優先しBを購入した。--- これはまさに自由意志があるということではないのか?
【答え】
確かに自由意志があるように思える。しかし、AとBのどちらかを選択/購入する、という意思決定は何を基準(物差し)にして行われただろうか?コストアップよりも、エアコン無しの寝苦しい夜をなるべく少なくするのが重要だと考えたからに決まってるだろ、と言われるかもしれない。でもそれでは何が基準なのかの回答になっていない。ここでよく考えてみると、XよりYを重要だと考えた、というのは実は、YよりXの方に違和感がある(XよりYの方が快である)ということが本質であることがわかる。つまり、違和感(快不快)が意思決定の基準になっている。さて、この違和感(快不快)は、意思決定する時、意識的にコントロールできるだろうか?残念ながらできない。なぜなら違和感(快不快)は湧いてくるもの、これまでの人生で蓄積された快不快の記憶に依存するものだから。となると、意思決定は、自分で意識的にコントロールできない<違和感(快不快)>に基づき行われていることになる。よって、自由意志は虚構だ。
*** 追記終わり ***
ざっくり「自由意志が幻想である以上、責任という概念は虚構。ただ、虚構無しでは人間は存在しえない。」ということが書いてあり、もちろんその通りです。各種文献の引用がそれぞれ興味深く楽しめました。著者に感謝です。内容についてほぼ同意なのですが、以下、気になった点について少しコメントします。
<自由意志は責任を根拠付けるために動員される虚構?>
そういう側面もありますが、自由意志(自分の意思決定・アクション選択を、自分が意識的にコントロールしている)という思い込みには、人間が人為的なルールを命じ/遵守することに、その思い込みが有効(というか必須)なことがより根本にある。つまり、社会的動物である人間が、ルールの網で構成される社会を構成する上で、自由意志があるという幻想がなくてはならないからだと考えます。
例えば、親が「今後XXXをしてはいけません。」とルールを指示するのも、「わかった。今後XXXをしないようにする。」と子供が決意するのも、前提として、本人の意思決定は本人が意識的にコントロールできる(XXXをするかしないかは本人の意思決定次第)という思い込みがある。だから、自由意志があるという思い込みは、人間(ルール)社会の成立のキー。もう少し親子の話を続けます。
子供がルールを守れなかったとします。すると親は「なんで守れないんだ。駄目じゃないか。」と子供を叱る(か不機嫌になる)。ここでは、子供がルールに従って行動を意識的にコントロールできなかったことに対し、子供に《責任》があり、罰(叱られること自体も罰)を受けるのは当然だ、という感覚が親子双方に共有されている。
以上をまとめると、
・責任を根拠付けるために自由意志という虚構が動員されるのではなく、
・人間が人間(ルール)社会を構成するには、自由意志という虚構が必要で、
・その上で(あるいは同時に)、ルール遵守を促進する要素として責任という虚構が動員される、
と考えるのが合理的なように思いました。
なお、自由意志と責任は、神の死んだ近代の専売特許ということではなく、人間社会の成立時から、自由意志と責任は(上記の意味で)存在した。ただ、昔は、怨霊に取り憑かれるとか、悪霊が入り込むとか、洋の東西を問わず、自分の行動は自由意志だけでは成り立たっていない、という信憑も同時に存在していた、ということだと思います。
<虚構のない世界に人間は生きられないが・・・>
はい。虚構のない世界に人間は生きられない、というか、人間社会が成立しないです。ただ、例えば、責任が虚構であることを理解すると、世界が今までと違って見えてくる/感じられる。例えば、自由意志が幻想なのに、殺人犯を死刑に処すのは虐待だ。危ない人なら再犯防止のため治療するか、治療が無理なら隔離するのが合理的。そもそも、自分達に不都合な人は、抹殺して良いというメンタリティは、侵略戦争のメンタリティに繋がる。死刑は廃止すべき!という世界観が生まれてきたりする、といったことがあると思います。つまり、虚構を認識することで、虚構が変質し世界が違って見えてくる。さらに、虚構自体を生きる時と、虚構をメタレベルで意識しながら世界を捉える時(特に、責任が問題になる場面)を、適宜切り替えながら生活することも可能になる。だから、虚構の認識は、人間社会の変化の大きなトリガーになると思います。著者が、この辺りのことをポジティブな形で書いていないのが少し残念でした。。でもとてもいい本です。
久永公紀『意思決定のトリック』・『宮沢賢治の問題群』
2023年7月2日に日本でレビュー済み
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「諸行無常」は諸々の行いが常で無いと表した言葉なのかと思う。この本で改めて思うのは「諸行無状」とでもいうか、あらゆる行い・現象にも確かな根のようなものは存在しないように思え、世界全体の虚構性を垣間見る。
単に絶望し怒るのではあまりにも、あまりにもだが、虚を知るがゆえの実もあると行っても良いだろうか。
単に絶望し怒るのではあまりにも、あまりにもだが、虚を知るがゆえの実もあると行っても良いだろうか。
2021年8月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自由意志と責任について、突き詰めて考察しきっている稀有な素晴らしい本。
普通、自由意志の懐疑から始まる本は、途中でくるりと方向を変え、真の自由意志or責任主体は存在する!とし、規範論に着地する、というお決まりの展開をたどる。中には表立ってこの展開を表明しない本もあるが、そういう本も最後には主体を密輸入する。私もそういう本が嫌いなわけではないが、どこか嘘くさい気がしていた。言ってしまえば、「ここまで来てお説教されるのかよ」というような感覚があった。
その点、本書は規範論に着地することなく、考察を深め切っている。あとがきにも書いてあるが、著者自身が怒りを抱えて、自分で納得するために書かれた本だからこのようになったのだろう。別の本(『答えのない世界を生きる』)で著者は自らを異邦人としているが、異邦人でなければ最後には所属している共同体の秩序を考えねばならず、規範論に着地せねばという動機が強く働くのではないか。それを回避できる著者は、すごく稀有な存在だ。この本を読んで、異邦人の重要性を改めて認識できた。
また、本書の補考では他の本がどうしてそのような「お決まりの展開」を辿ってしまうのかという問いにも応えている。ここまで答えている本はそう多くはない。自由意志や責任という問いについて興味のある方は必読の書となっている。
なお、他のレビューで論証が不十分とするものがあるが、それは誤解である、と述べておきたい。私自身読む前にそのレビューを見て少し懐疑的になっていた。しかし本書といくつかの著者の他作を読んでみて、少なくともそのレビューで述べられていた疑問点に関しては氷解している。もっと評価されるべき本だが、頭の良い人であっても誤解するという珍しい本なため、せめてAmazonレビューに載っている誤解程度は解いておきたい。(もちろん、私自身もまた誤読である可能性も大いにあるが)
そのレビューで述べられている批判は三つある。
①因果論も一つの枠組みでしかないため、因果論で説明できない=自由意志は存在しない、とはならない。また本書の結論を導出するために自由意志は否定する必要もない。
②虚構と現実は区別できないはずなので、虚構という語の使用は不適切である。
③著者は「虚構論」の機能に無頓着である。
①について。
そのレビューでは、因果論も所詮は一つの枠組みであり、その枠組みの底抜けを防ぐために神のような動因を導入する。その意味で規範論と変わらないとする。
確かに、因果論も一つの枠組みだが、私の知る範囲では、その枠組みは科学などで前提されており、大きな反例があるわけではない。一方、規範論には、規範をうまく適応できない反例が多く存在する。それは本書の中でもふんだんに書かれている。
その意味で、因果論と規範論の枠組みとしての「強度」(その枠組みという"眼鏡"で世界を見てみたときに、どのくらい"違和感"を感じずに済むか、とでもいうべきもの)には大きな隔たりがあると言えるだろう。
もちろん、因果論も一つの枠組みではある。確かに、因果論を徹底した場合、神や自由意志といった主体は必要とされないが、偶然という別のブラックボックスは残る。
だが、それは因果論と規範論を同じレベルに配置する理由にはならない。少なくとも、因果論と規範論を並べたとき、そのどちらに強度があるかは明白であり、ことさらに因果論での記述をおかしいと指摘するのは不自然である。しかも、本書p264の注(40)で著者は、「因果関係の枠組みで責任は理解できないと本書は主張する。しかし実はこの言い方は正確ではない。そもそも因果律は自然界に客観的に存在する関係なのか」と、因果律を前提に世界をとらえる因果論に一定の留保をつけている。もし、因果論も一つの枠組みだと批判したいのなら、ここで保留された問題について深堀するべきであろう。(なお、同ページでは因果律を突き詰めていった際に「あらゆる事物が同時に存在するという背理」が帰結してしまうとし、因果律で世界をとらえた際の"違和感"に言及している。私はこの辺は相対論で出てくる同時性の概念で突破できるのではないか、と考えているが、それは本筋からズレるのでここではやめておこう)
そして本書では、因果論で世界を把握した際、自由意志は存在しないと帰結する。これは論理的な帰結である。
本書で言及される自由意志とは、行動の内因(先行原因を持たない原因)としての自由意志である。しかし、そんなものは因果論的に存在しない。では、自由意志とは何か。世界を因果的に把握する際に導入される虚構である、というのが本書の主張なのだ。
自由意志という虚構は責任という現象に関係がある。責任とは、ある犯罪が把握される過程で、犯罪のシンボルとしてもっとも相応しいと感じ取れるものをスケープゴートとすることだ。シンボルとして何が選ばれるのかは時代や文化によって異なる。特に近代においては犯罪を因果的に把握し、自由意志を持ったとされる犯罪者がシンボルとして選ばれているのである。つまり、そのシンボルを選ぶ際の犯罪の把握様式に自由意志という虚構が動員されているのだ。
確かに、動物と人間はどちらも自律性を持つ。これは因果論的な事実である。しかしそれと自由意志は別次元の存在である。繰り返すようだが、もし自由意志が存在するのなら、犯罪者は「意識して、犯罪をしない選択ができる」としなければいけない。しかし、これは厳密に因果論的に考えれば無理がある。先行原因を持たない純粋な<内因>としての自由意志は因果論的に存在しえないからである。因果論を徹底して犯罪を把握するなら、犯罪の原因は無限遡及しなければならない。だから、本書は自由意志はあくまで、犯罪を因果的に把握し、シンボルを決定する際に導入される社会的な虚構である、と主張しているのである。
本文では「犬や猫に責任を問わないように」(p281)とするが、個人的な感覚として、犬に責任を問うことはある気がする。飼い犬が家具を壊した際に、犬に責任を問い、𠮟りつけることはあるだろう。しかしそれも単に、家具の破壊という「犯罪」の把握の際に、犬が犯罪のシンボルとして選ばれているに過ぎない、ということが出来る。動物と人間のどちらにも自由意志は存在せず、自由意志を認めるかどうかの判断に差があるのである。
したがって、「著者は生命の自律性を認めながら、これを自由意思と区別するが、例えばベルクソンのように、自律性と自由意思は判然たる境界を持たないグラデーションとして理解することも可能で、むしろその方が自然だ」とするが、これは誤読である。本書で導入しているカテゴリーの違いを意識していない。自律性と自由意志は、因果論という枠組み内での実在物と虚構という、まったく別種のカテゴリーに属する。
よく、哲学書などで、先行原因を持たない純粋な<内因>としての自由意志の不在を認めつつも、まったく別の自由意志概念を構築しようとすることがある。本書はそれが悪いとは言っていない。しかし、その場合、近代的な意味での責任概念は崩壊する。本書はあくまで記述論だ。どのように理解すれば責任に不可欠な自由意志を因果論と矛盾なく理解できるかという規範論は展開していない。自由意志は虚構であり、因果論的な実在物ではないのだから、因果論との間に最初から矛盾はないという理解のほうが、世界をきちんと説明できると主張しているのだ。
規範論と因果論の強度差を無視して「因果論も所詮は枠組みだ」と否定し、自由意志を擁護することも出来なくはないが、論としての説得力はない。それよりも、因果論を前提とし、そこから「自由意志は因果論的には不在だが、犯罪を因果論的に把握した際に導入される虚構である」と述べたほうがすっきり来ると個人的には感じる。(しかも本書は因果論を前提とすることに、一定の留保をつけているわけであるから、その批判は揚げ足取りといえよう)
また、こうした「自由意志は存在せず、責任は虚構である」という主張を、虚構の発生理由という視点でとらえなおすことによって、社会秩序を根拠づける<外部>という発想が出てくるのである。自由意志の否定は<外部>についての論考に活きている。
②について
本書の「虚構」は、「実在していないが、そう感知されうるもの」というような意味だ。虚構は、恣意的なものであり、やはり現実とは違うものである。
「正しい社会を合理的・意識的に規定する試みは必ず内部矛盾を含み、人工的に構築する社会契約は秩序を維持できない」(p354)と本書でも述べられている。だからこそ、社会秩序はその恣意性を、虚構によって普遍性の衣で隠蔽することによってはじめて成り立つのだ。
しかし、同時に恣意性を完ぺきに消すことが出来ない。『神の亡霊』で著者はこうも述べている。「どこまで行っても何かが残る。その何かが時に神と呼ばれ、時に運命や偶然と呼ばれ、あるいは主体性や自由意志と呼ばれる。どれもブラック・ボックスであり、デウス・エクス・マキナである。だが、人間はその奥が覗きたくなる。無限遡及の欲求は止められない」(p347)とある。やはり虚構は虚構であり、恣意性は完ぺきには消せないのである。
レビューでは「著者の最終的な立場からは両者を区別できない筈で、逆効果としか思えない」とするが、実は違う。隠蔽されねば社会秩序はあり得ないが、完ぺきに隠蔽されるならば社会は変遷しないだろうし、筆者のように疑問を抱く人すら居ないはずだ。
③について
レビューでは「全ての規範は虚構だが、人間は虚構なしに生きられないのだから、臆することなく虚構と戯れるがよい。これが本書のメッセージだとすれば、そんな開き直りに何の意味もない。」とするが、私が読んだ限り、そんなメッセージは本書内にない。本書はあくまですべての規範は虚構だと述べただけである。尾崎一郎氏の解説にも「虚構の恣意性を認識したあと我々はどうするか」という問いがある。しかし、本書はその問いに対して何ら方向性を示していない。だからこそ、尾崎氏の解説にあるように、偶然に身を任せるかorより隠蔽性の高い虚構を構築するかor恣意性を知りながら語り続ける専門的コミュニケーションの閉域に立てこもるか、という3つの方向が対等に並んでいるのである。
レビューでは「機能主義を徹底するなら、機能の記述にとどまらず、「機能の記述」の機能を記述せねばなるまい。犯罪行為を犯罪者に帰属させることが責任の機能だとして、それを「虚構」として記述することの意味は? 犯罪の刻印を帯びて社会から排除された反価値は、逆に社会の価値観を変革する創造的な力を潜在的に持つ。そうした犯罪の「効用」を破壊してしまわないためにも、違法と合法の境界はあくまで暫定的な「虚構」に過ぎないという自覚が大切なのだ。それが「虚構論」の機能に他ならない。」としている。
しかし、これは本書を規範論として読解しようとしている。「思想家の提言はたいたい無力だ。名もない市民の素朴な思いと同様、私論を含め、学問は一つの意見として常識や世論の形成に貢献する。だが、それ以上でも、それ以下でもない」(p451)とあるように、本書は虚構であることを暴くことによって、犯罪の効用を守ろうなどという大義名分で書かれていない。それは、このレビュワーの方が、本書の認識論の前提の上に作り出した規範論だろう。本書を貫いているのはむしろ、世界のあり方を知ろうとする「納得したい」という著者の熱意だろう。ただただ「知りたい!」と思っている人に、「知ることの効用を考えない知は無意味だ」と批判するのは、ナンセンスである。
普通、自由意志の懐疑から始まる本は、途中でくるりと方向を変え、真の自由意志or責任主体は存在する!とし、規範論に着地する、というお決まりの展開をたどる。中には表立ってこの展開を表明しない本もあるが、そういう本も最後には主体を密輸入する。私もそういう本が嫌いなわけではないが、どこか嘘くさい気がしていた。言ってしまえば、「ここまで来てお説教されるのかよ」というような感覚があった。
その点、本書は規範論に着地することなく、考察を深め切っている。あとがきにも書いてあるが、著者自身が怒りを抱えて、自分で納得するために書かれた本だからこのようになったのだろう。別の本(『答えのない世界を生きる』)で著者は自らを異邦人としているが、異邦人でなければ最後には所属している共同体の秩序を考えねばならず、規範論に着地せねばという動機が強く働くのではないか。それを回避できる著者は、すごく稀有な存在だ。この本を読んで、異邦人の重要性を改めて認識できた。
また、本書の補考では他の本がどうしてそのような「お決まりの展開」を辿ってしまうのかという問いにも応えている。ここまで答えている本はそう多くはない。自由意志や責任という問いについて興味のある方は必読の書となっている。
なお、他のレビューで論証が不十分とするものがあるが、それは誤解である、と述べておきたい。私自身読む前にそのレビューを見て少し懐疑的になっていた。しかし本書といくつかの著者の他作を読んでみて、少なくともそのレビューで述べられていた疑問点に関しては氷解している。もっと評価されるべき本だが、頭の良い人であっても誤解するという珍しい本なため、せめてAmazonレビューに載っている誤解程度は解いておきたい。(もちろん、私自身もまた誤読である可能性も大いにあるが)
そのレビューで述べられている批判は三つある。
①因果論も一つの枠組みでしかないため、因果論で説明できない=自由意志は存在しない、とはならない。また本書の結論を導出するために自由意志は否定する必要もない。
②虚構と現実は区別できないはずなので、虚構という語の使用は不適切である。
③著者は「虚構論」の機能に無頓着である。
①について。
そのレビューでは、因果論も所詮は一つの枠組みであり、その枠組みの底抜けを防ぐために神のような動因を導入する。その意味で規範論と変わらないとする。
確かに、因果論も一つの枠組みだが、私の知る範囲では、その枠組みは科学などで前提されており、大きな反例があるわけではない。一方、規範論には、規範をうまく適応できない反例が多く存在する。それは本書の中でもふんだんに書かれている。
その意味で、因果論と規範論の枠組みとしての「強度」(その枠組みという"眼鏡"で世界を見てみたときに、どのくらい"違和感"を感じずに済むか、とでもいうべきもの)には大きな隔たりがあると言えるだろう。
もちろん、因果論も一つの枠組みではある。確かに、因果論を徹底した場合、神や自由意志といった主体は必要とされないが、偶然という別のブラックボックスは残る。
だが、それは因果論と規範論を同じレベルに配置する理由にはならない。少なくとも、因果論と規範論を並べたとき、そのどちらに強度があるかは明白であり、ことさらに因果論での記述をおかしいと指摘するのは不自然である。しかも、本書p264の注(40)で著者は、「因果関係の枠組みで責任は理解できないと本書は主張する。しかし実はこの言い方は正確ではない。そもそも因果律は自然界に客観的に存在する関係なのか」と、因果律を前提に世界をとらえる因果論に一定の留保をつけている。もし、因果論も一つの枠組みだと批判したいのなら、ここで保留された問題について深堀するべきであろう。(なお、同ページでは因果律を突き詰めていった際に「あらゆる事物が同時に存在するという背理」が帰結してしまうとし、因果律で世界をとらえた際の"違和感"に言及している。私はこの辺は相対論で出てくる同時性の概念で突破できるのではないか、と考えているが、それは本筋からズレるのでここではやめておこう)
そして本書では、因果論で世界を把握した際、自由意志は存在しないと帰結する。これは論理的な帰結である。
本書で言及される自由意志とは、行動の内因(先行原因を持たない原因)としての自由意志である。しかし、そんなものは因果論的に存在しない。では、自由意志とは何か。世界を因果的に把握する際に導入される虚構である、というのが本書の主張なのだ。
自由意志という虚構は責任という現象に関係がある。責任とは、ある犯罪が把握される過程で、犯罪のシンボルとしてもっとも相応しいと感じ取れるものをスケープゴートとすることだ。シンボルとして何が選ばれるのかは時代や文化によって異なる。特に近代においては犯罪を因果的に把握し、自由意志を持ったとされる犯罪者がシンボルとして選ばれているのである。つまり、そのシンボルを選ぶ際の犯罪の把握様式に自由意志という虚構が動員されているのだ。
確かに、動物と人間はどちらも自律性を持つ。これは因果論的な事実である。しかしそれと自由意志は別次元の存在である。繰り返すようだが、もし自由意志が存在するのなら、犯罪者は「意識して、犯罪をしない選択ができる」としなければいけない。しかし、これは厳密に因果論的に考えれば無理がある。先行原因を持たない純粋な<内因>としての自由意志は因果論的に存在しえないからである。因果論を徹底して犯罪を把握するなら、犯罪の原因は無限遡及しなければならない。だから、本書は自由意志はあくまで、犯罪を因果的に把握し、シンボルを決定する際に導入される社会的な虚構である、と主張しているのである。
本文では「犬や猫に責任を問わないように」(p281)とするが、個人的な感覚として、犬に責任を問うことはある気がする。飼い犬が家具を壊した際に、犬に責任を問い、𠮟りつけることはあるだろう。しかしそれも単に、家具の破壊という「犯罪」の把握の際に、犬が犯罪のシンボルとして選ばれているに過ぎない、ということが出来る。動物と人間のどちらにも自由意志は存在せず、自由意志を認めるかどうかの判断に差があるのである。
したがって、「著者は生命の自律性を認めながら、これを自由意思と区別するが、例えばベルクソンのように、自律性と自由意思は判然たる境界を持たないグラデーションとして理解することも可能で、むしろその方が自然だ」とするが、これは誤読である。本書で導入しているカテゴリーの違いを意識していない。自律性と自由意志は、因果論という枠組み内での実在物と虚構という、まったく別種のカテゴリーに属する。
よく、哲学書などで、先行原因を持たない純粋な<内因>としての自由意志の不在を認めつつも、まったく別の自由意志概念を構築しようとすることがある。本書はそれが悪いとは言っていない。しかし、その場合、近代的な意味での責任概念は崩壊する。本書はあくまで記述論だ。どのように理解すれば責任に不可欠な自由意志を因果論と矛盾なく理解できるかという規範論は展開していない。自由意志は虚構であり、因果論的な実在物ではないのだから、因果論との間に最初から矛盾はないという理解のほうが、世界をきちんと説明できると主張しているのだ。
規範論と因果論の強度差を無視して「因果論も所詮は枠組みだ」と否定し、自由意志を擁護することも出来なくはないが、論としての説得力はない。それよりも、因果論を前提とし、そこから「自由意志は因果論的には不在だが、犯罪を因果論的に把握した際に導入される虚構である」と述べたほうがすっきり来ると個人的には感じる。(しかも本書は因果論を前提とすることに、一定の留保をつけているわけであるから、その批判は揚げ足取りといえよう)
また、こうした「自由意志は存在せず、責任は虚構である」という主張を、虚構の発生理由という視点でとらえなおすことによって、社会秩序を根拠づける<外部>という発想が出てくるのである。自由意志の否定は<外部>についての論考に活きている。
②について
本書の「虚構」は、「実在していないが、そう感知されうるもの」というような意味だ。虚構は、恣意的なものであり、やはり現実とは違うものである。
「正しい社会を合理的・意識的に規定する試みは必ず内部矛盾を含み、人工的に構築する社会契約は秩序を維持できない」(p354)と本書でも述べられている。だからこそ、社会秩序はその恣意性を、虚構によって普遍性の衣で隠蔽することによってはじめて成り立つのだ。
しかし、同時に恣意性を完ぺきに消すことが出来ない。『神の亡霊』で著者はこうも述べている。「どこまで行っても何かが残る。その何かが時に神と呼ばれ、時に運命や偶然と呼ばれ、あるいは主体性や自由意志と呼ばれる。どれもブラック・ボックスであり、デウス・エクス・マキナである。だが、人間はその奥が覗きたくなる。無限遡及の欲求は止められない」(p347)とある。やはり虚構は虚構であり、恣意性は完ぺきには消せないのである。
レビューでは「著者の最終的な立場からは両者を区別できない筈で、逆効果としか思えない」とするが、実は違う。隠蔽されねば社会秩序はあり得ないが、完ぺきに隠蔽されるならば社会は変遷しないだろうし、筆者のように疑問を抱く人すら居ないはずだ。
③について
レビューでは「全ての規範は虚構だが、人間は虚構なしに生きられないのだから、臆することなく虚構と戯れるがよい。これが本書のメッセージだとすれば、そんな開き直りに何の意味もない。」とするが、私が読んだ限り、そんなメッセージは本書内にない。本書はあくまですべての規範は虚構だと述べただけである。尾崎一郎氏の解説にも「虚構の恣意性を認識したあと我々はどうするか」という問いがある。しかし、本書はその問いに対して何ら方向性を示していない。だからこそ、尾崎氏の解説にあるように、偶然に身を任せるかorより隠蔽性の高い虚構を構築するかor恣意性を知りながら語り続ける専門的コミュニケーションの閉域に立てこもるか、という3つの方向が対等に並んでいるのである。
レビューでは「機能主義を徹底するなら、機能の記述にとどまらず、「機能の記述」の機能を記述せねばなるまい。犯罪行為を犯罪者に帰属させることが責任の機能だとして、それを「虚構」として記述することの意味は? 犯罪の刻印を帯びて社会から排除された反価値は、逆に社会の価値観を変革する創造的な力を潜在的に持つ。そうした犯罪の「効用」を破壊してしまわないためにも、違法と合法の境界はあくまで暫定的な「虚構」に過ぎないという自覚が大切なのだ。それが「虚構論」の機能に他ならない。」としている。
しかし、これは本書を規範論として読解しようとしている。「思想家の提言はたいたい無力だ。名もない市民の素朴な思いと同様、私論を含め、学問は一つの意見として常識や世論の形成に貢献する。だが、それ以上でも、それ以下でもない」(p451)とあるように、本書は虚構であることを暴くことによって、犯罪の効用を守ろうなどという大義名分で書かれていない。それは、このレビュワーの方が、本書の認識論の前提の上に作り出した規範論だろう。本書を貫いているのはむしろ、世界のあり方を知ろうとする「納得したい」という著者の熱意だろう。ただただ「知りたい!」と思っている人に、「知ることの効用を考えない知は無意味だ」と批判するのは、ナンセンスである。