刑罰や「罰一般」(サンクション)について議論するのであれば、哲学といえども議論のための議論にとどまるべきではないであろう。
本書で著者は、
「刑罰の正当性をめぐる問い(例えば、身体刑は正当な刑罰としてわが国の司法制度に採り入れられるべきか、など)は本書の関心に属さない」
「《死刑は存置すべきか廃止すべきか》というホットな問いにかんしても、本書はとくに意見をもたない。」
と早々と宣言してしまっているが、身体刑導入の可否や死刑の存置に関心のない刑罰論に一体何の意味があるのか(一気に脱力して読む気が失せる)。
著者は刑罰の目的として〈応報〉と〈抑止〉を挙げて、前者について自由と責任の哲学を論じる俎上に上げるのであるが、刑法学を踏まえるのであれば現代における刑罰の主たる目的は法益侵害を抑止することであり、その法益には憲法的価値に従い「生命>身体>自由>財産」で刑罰の軽重がつけられることは押さえるべきだ。また、応報刑は「目には目を」という文字通りの意味では現在は行われておらず、応報の機能は刑罰の上限を画すること(犯罪の重さに比例した刑罰)にあることも知るべきだろう。
判決宣告の時点では刑罰に応報の側面があっても、刑罰の執行の現場では「苦痛」を与えるというよりも改善更生という教育刑的運用がなされている(それゆえ刑務行政は「矯正」と呼ばれる)。
また、著者は刑罰には多様な意味があると強調するが、「祝祭」とか「見せ物」の意義は少なくとも現代の先進国ではありえない。フーコーのいう「訓練」は教育刑の改善更生としてはあり得ても、「臣民化」は現代では疑問である(むしろ民主主義社会の「市民をつくる」と読み替えなければならない)。
過去の歴史を掘り返す「知の考古学」だけではなく、それが現在の制度に変遷してきた理由を問うことに哲学の存在意義があるはずだ。
さらに、著者が批判の対象とする自由と責任否定の哲学に至っては、その意図が全く理解できない。
脳神経科学や社会心理学を援用して行為の自由を否定する議論の実益は何か? So what ?である。
人間は朝起きてから夜寝るまで行為者として意識的な行為をしており、その行為には当然責任が伴う。買い物をすれば代金支払い義務があるし、事故を起こせば損害賠償責任が生じる。著者はそれを「人間の生の一般的枠組み」と表現するが、それ以外の枠組みはないのだからあえてこのように説明するまでもない。たとえメタレベルや形而上学レベルでは人間には自由も責任もないといったところで、その意味や実益を問われればたちどころにナンセンスだと判明するだろう。
近代社会は個人を自由で平等な責任主体として社会制度を構築している。これを「虚構」であるというのはたやすいが、そのもたらす帰結を提示しない限り「今ごろ何言ってるの?」としか感じない。
唯一、犯罪者を病人と同視して「犯罪者への処遇は刑罰ではなく隔離措置こそが適切だ」とする哲学者グレッグ・カルーゾーの刑罰廃止論が実益を意識した議論であるが、それが「処遇」の問題であれば現代の教育刑的運用とどう異なるのか、隔離措置とすれば応報の比例的上限を超えた長期隔離を帰結しないかなどの具体的検討が必要となる。
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人が人を罰するということ ――自由と責任の哲学入門 (ちくま新書 1768) 新書 – 2023/12/7
山口 尚
(著)
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ひとを責めることは無意味?
責任は近代社会の虚構にすぎない?
自由意志をめぐる論争に決着をつける。
「人間として生きる」とはどういうことか?
人間は自由意志をもつ主体であり、過ちを犯した者が咎められ罰されることは、古くから共同体における基本的なルールと考えられてきた。一方、自由の存在を否定し「刑罰は無意味だ」とする神経科学や社会心理学の立場がある。はたして人間は自由な選択主体か。私たちが互いを責め、罰することに意味はあるのか。抑止、応報、追放、供犠といった刑罰の歴史的意味を解きほぐし、自由否定論、責任虚構論の盲点を突く。論争を超えて、〈人間として生きること〉を根底から問う哲学的探究。
===
【目次】
序 責めることと罰すること――自由と責任の哲学へ
I
第一章 刑罰は何のために?――〈応報〉と〈抑止〉
1 なぜ刑罰について考えるのか
2 刑罰とはなんだろうか
3 刑罰の意味をめぐる問い
4 抑止効果
5 応報とは何か――正義のバランス
6 応報と抑止
第二章 身体刑の意味は何か?――〈追放〉の機能
1 抑止と応報にとどまらない刑罰の意味
2 古代中国の身体刑
3 苛酷で残虐な刑罰に何の意味があるのか
4 社会からの排除
5 刑の軽重と追放の体系
6 なぜ刑罰は追放の意味をもつべきなのか
7 現代にも残る追放
第三章 刑罰の意味の多元主義――〈祝祭〉・〈見せもの〉・〈供犠〉・〈訓練〉
1 刑罰が多様な目的を持ちうることの何が重要か
2 祝祭としての刑罰――ミシェル・フーコーはこう考えた
3 見せものとしての刑罰
4 供犠――刑罰の宗教的意味
5 訓練――犯罪者を更生させる権力
6 パノプティコン――隠微な権力のモード
7 刑罰の意味が多様であること
コラム 意味をめぐる問い、正当性をめぐる問い
II
第四章 応報のロジック
1 応報の何が問題なのか
2 犯人とは何か
3 行為・責任・主体
4 責任の条件は何か?
5 責任を疑うロジック
6 それは彼の選んだ行為なのか?
7 応報は不可能か?
第五章 自由否定論
1 神経科学からの問題提起
2 脳の神経活動と意識的意図
3 リベットの実験
4 拒否する自由意志
5 拒否は無意識の原因をもたないのか
6 見せかけの心的因果
7 責任も錯覚の一種になる?
コラム 神経科学と刑事司法
第六章 責任虚構論
1 社会心理学からの責任批判
2 小坂井敏晶『責任という虚構』について
3 ミルグラム実験――人間の責任の脆弱さ
4 原因と結果の連鎖
5 責任の正体
6 虚構を通じて社会は存立する
7 変転する虚構
III
第七章 それでも人間は自由な選択主体である
1 人間の生の一般的枠組み
2 罰すること、責めること
3 罰することがすべて無意味になる世界
4 科学的世界観の下で自由に居場所はあるか――私自身の経験から
5 ひとが何かをすること
6 自由の否定の自己矛盾
7 人間の条件
第八章 責任は虚構ではない――自由と責任の哲学
1 私たちはどのように生きているか
2 自由と怒り
3 人間が責めるのは人間である
4 反応的態度
5 道徳的要求と道徳的期待
6 ナンセンスな問い
7 人間の生活と科学の実践
コラム ストローソンの「自由と怒り」
第九章 自由・責任・罰についての指摘
1 人間として生きるということ
2 自由否定論には何が足りないか
3 拒否権説の不足――人間の自由は理論によって確証される必要はない
4 責任が実在する空間
5 刑罰廃止論を問いなおす
おわりに
読書案内
注
責任は近代社会の虚構にすぎない?
自由意志をめぐる論争に決着をつける。
「人間として生きる」とはどういうことか?
人間は自由意志をもつ主体であり、過ちを犯した者が咎められ罰されることは、古くから共同体における基本的なルールと考えられてきた。一方、自由の存在を否定し「刑罰は無意味だ」とする神経科学や社会心理学の立場がある。はたして人間は自由な選択主体か。私たちが互いを責め、罰することに意味はあるのか。抑止、応報、追放、供犠といった刑罰の歴史的意味を解きほぐし、自由否定論、責任虚構論の盲点を突く。論争を超えて、〈人間として生きること〉を根底から問う哲学的探究。
===
【目次】
序 責めることと罰すること――自由と責任の哲学へ
I
第一章 刑罰は何のために?――〈応報〉と〈抑止〉
1 なぜ刑罰について考えるのか
2 刑罰とはなんだろうか
3 刑罰の意味をめぐる問い
4 抑止効果
5 応報とは何か――正義のバランス
6 応報と抑止
第二章 身体刑の意味は何か?――〈追放〉の機能
1 抑止と応報にとどまらない刑罰の意味
2 古代中国の身体刑
3 苛酷で残虐な刑罰に何の意味があるのか
4 社会からの排除
5 刑の軽重と追放の体系
6 なぜ刑罰は追放の意味をもつべきなのか
7 現代にも残る追放
第三章 刑罰の意味の多元主義――〈祝祭〉・〈見せもの〉・〈供犠〉・〈訓練〉
1 刑罰が多様な目的を持ちうることの何が重要か
2 祝祭としての刑罰――ミシェル・フーコーはこう考えた
3 見せものとしての刑罰
4 供犠――刑罰の宗教的意味
5 訓練――犯罪者を更生させる権力
6 パノプティコン――隠微な権力のモード
7 刑罰の意味が多様であること
コラム 意味をめぐる問い、正当性をめぐる問い
II
第四章 応報のロジック
1 応報の何が問題なのか
2 犯人とは何か
3 行為・責任・主体
4 責任の条件は何か?
5 責任を疑うロジック
6 それは彼の選んだ行為なのか?
7 応報は不可能か?
第五章 自由否定論
1 神経科学からの問題提起
2 脳の神経活動と意識的意図
3 リベットの実験
4 拒否する自由意志
5 拒否は無意識の原因をもたないのか
6 見せかけの心的因果
7 責任も錯覚の一種になる?
コラム 神経科学と刑事司法
第六章 責任虚構論
1 社会心理学からの責任批判
2 小坂井敏晶『責任という虚構』について
3 ミルグラム実験――人間の責任の脆弱さ
4 原因と結果の連鎖
5 責任の正体
6 虚構を通じて社会は存立する
7 変転する虚構
III
第七章 それでも人間は自由な選択主体である
1 人間の生の一般的枠組み
2 罰すること、責めること
3 罰することがすべて無意味になる世界
4 科学的世界観の下で自由に居場所はあるか――私自身の経験から
5 ひとが何かをすること
6 自由の否定の自己矛盾
7 人間の条件
第八章 責任は虚構ではない――自由と責任の哲学
1 私たちはどのように生きているか
2 自由と怒り
3 人間が責めるのは人間である
4 反応的態度
5 道徳的要求と道徳的期待
6 ナンセンスな問い
7 人間の生活と科学の実践
コラム ストローソンの「自由と怒り」
第九章 自由・責任・罰についての指摘
1 人間として生きるということ
2 自由否定論には何が足りないか
3 拒否権説の不足――人間の自由は理論によって確証される必要はない
4 責任が実在する空間
5 刑罰廃止論を問いなおす
おわりに
読書案内
注
- 本の長さ272ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2023/12/7
- 寸法17.3 x 10.6 x 1.3 cm
- ISBN-10448007595X
- ISBN-13978-4480075956
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商品の説明
著者について
山口 尚(やまぐち・しょう):1978年生まれ。京都大学総合人間学部卒業。同大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。専門は形而上学、心の哲学、宗教哲学、自由意志について。著書に『難しい本を読むためには』(ちくまプリマー新書)、『日本哲学の最前線』(講談社現代新書)、『人間の自由と物語の哲学』『幸福と人生の意味の哲学』(以上、トランスビュー)、『哲学トレーニングブック』(平凡社)、『クオリアの哲学と知識論証』(春秋社)など。
登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2023/12/7)
- 発売日 : 2023/12/7
- 言語 : 日本語
- 新書 : 272ページ
- ISBN-10 : 448007595X
- ISBN-13 : 978-4480075956
- 寸法 : 17.3 x 10.6 x 1.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 34,516位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 23位その他の事件・犯罪関連書籍
- - 120位ちくま新書
- - 541位哲学 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年4月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2023年12月10日に日本でレビュー済み
ざっくり、自由意志は無いから責任は意味を成さない、という主張には矛盾があることを指摘。その上で、<過ちを犯したひとを責めること>や<不正を犯したひとを罰すること>は人間の生のフレームワークの一部であり、人間はそのように「できている」のだから、罰について「それは必要か」と問うことはナンセンスである。ということが書いてあります。とても惜しいので、ポイントを絞ってコメントします。
■自由否定の自己矛盾
著者は、自由意志は存在しないことを認識するメタレベルと、自由意志があるという虚構を生きる日常レベルを、同レベルに置いて考察しているので、当然そこには自己矛盾が出てきます。しかしながら、そもそも、自由意志が虚構であることを認識するメタレベルと、その虚構の中で生きる日常レベルは、カテゴリーが異なるので、矛盾はないと思います。
■<過ちを犯したひとを責めること>や<不正を犯したひとを罰すること>は人間の生のフレームワークの一部
はい。その通りですが、以下のようにもう少し掘り下げ可能かと思います。
自由意志(自分の意思決定・アクション選択を、自分が意識的にコントロールしている)があるという間違った思い込みは何に有効か?
人間が人為的なルールを命じ/遵守することに有効(というか必須)。つまり、社会的動物である人間が、ルールの網で構成される社会を構成する上で、自由意志があるという幻想がなくてはならない。
例えば、親が「今後XXXをしてはいけません。」とルールを指示するのも、「わかった。今後XXXをしないようにする。」と子供が決意するのも、前提として、本人の意思決定は本人が意識的にコントロールできる(XXXをするかしないかは本人の意思決定次第)という思い込みがある。だから、自由意志があるという思い込みは、人間(ルール)社会の成立のキー。もう少し親子の話を続けます。
子供がルールを守れなかったとします。すると親は「なんで守れないんだ。駄目じゃないか。」と子供を叱る(か不機嫌になる)。ここでは、子供がルールに従って行動を意識的にコントロールできなかったことに対し、子供に《責任》があり、罰(叱られること自体も罰)を受けるのは当然だ、という感覚が親子双方に共有されている。
以上をまとめると、
・人間が人間(ルール)社会を構成するには、自由意志という虚構が必要で、
・その上で(あるいは同時に)、ルール遵守を促進する要素として責任という虚構が動員される。
よって、人間社会の成立時から、自由意志と責任は(上記の意味で)存在していて、人間の生のフレームワークの一部と言える。
■人間はそのように「できている」のだから、罰について「それは必要か」と問うことはナンセンス
前項で書いたように、自由意志や責任という虚構のない世界に人間は生きられない、というか、人間社会が成立しないです。ただ、例えば、責任が虚構であることを理解すると、世界が今までと違って見えてくる/感じられる。例えば、自由意志が幻想なのに、殺人犯を死刑に処すのは虐待だ。危ない人なら再犯防止のため治療するか、治療が無理なら隔離するのが合理的。そもそも、自分達に不都合な人は、抹殺して良いというメンタリティは、侵略戦争のメンタリティに繋がる。死刑は廃止すべき!という世界観が生まれてきたりする、といったことがあると思います。つまり、虚構を認識することで、虚構が変質し世界が違って見えてくる。さらに、虚構自体を生きる時と、虚構をメタレベルで意識しながら世界を捉える時(特に、責任が問題になる場面)を、適宜切り替えながら生活することも可能になる。だから、虚構の認識は、人間社会の変化の大きなトリガーになる。
虚構をメタレベルで意識した上で、「罰が必要か」ではなく、「どこまで必要か」を問うこと、特に人を死に追いやるような差別・虐待はやり過ぎではないかと問うことが重要だと考えています。
久永公紀『意思決定のトリック』・『宮沢賢治の問題群』
■自由否定の自己矛盾
著者は、自由意志は存在しないことを認識するメタレベルと、自由意志があるという虚構を生きる日常レベルを、同レベルに置いて考察しているので、当然そこには自己矛盾が出てきます。しかしながら、そもそも、自由意志が虚構であることを認識するメタレベルと、その虚構の中で生きる日常レベルは、カテゴリーが異なるので、矛盾はないと思います。
■<過ちを犯したひとを責めること>や<不正を犯したひとを罰すること>は人間の生のフレームワークの一部
はい。その通りですが、以下のようにもう少し掘り下げ可能かと思います。
自由意志(自分の意思決定・アクション選択を、自分が意識的にコントロールしている)があるという間違った思い込みは何に有効か?
人間が人為的なルールを命じ/遵守することに有効(というか必須)。つまり、社会的動物である人間が、ルールの網で構成される社会を構成する上で、自由意志があるという幻想がなくてはならない。
例えば、親が「今後XXXをしてはいけません。」とルールを指示するのも、「わかった。今後XXXをしないようにする。」と子供が決意するのも、前提として、本人の意思決定は本人が意識的にコントロールできる(XXXをするかしないかは本人の意思決定次第)という思い込みがある。だから、自由意志があるという思い込みは、人間(ルール)社会の成立のキー。もう少し親子の話を続けます。
子供がルールを守れなかったとします。すると親は「なんで守れないんだ。駄目じゃないか。」と子供を叱る(か不機嫌になる)。ここでは、子供がルールに従って行動を意識的にコントロールできなかったことに対し、子供に《責任》があり、罰(叱られること自体も罰)を受けるのは当然だ、という感覚が親子双方に共有されている。
以上をまとめると、
・人間が人間(ルール)社会を構成するには、自由意志という虚構が必要で、
・その上で(あるいは同時に)、ルール遵守を促進する要素として責任という虚構が動員される。
よって、人間社会の成立時から、自由意志と責任は(上記の意味で)存在していて、人間の生のフレームワークの一部と言える。
■人間はそのように「できている」のだから、罰について「それは必要か」と問うことはナンセンス
前項で書いたように、自由意志や責任という虚構のない世界に人間は生きられない、というか、人間社会が成立しないです。ただ、例えば、責任が虚構であることを理解すると、世界が今までと違って見えてくる/感じられる。例えば、自由意志が幻想なのに、殺人犯を死刑に処すのは虐待だ。危ない人なら再犯防止のため治療するか、治療が無理なら隔離するのが合理的。そもそも、自分達に不都合な人は、抹殺して良いというメンタリティは、侵略戦争のメンタリティに繋がる。死刑は廃止すべき!という世界観が生まれてきたりする、といったことがあると思います。つまり、虚構を認識することで、虚構が変質し世界が違って見えてくる。さらに、虚構自体を生きる時と、虚構をメタレベルで意識しながら世界を捉える時(特に、責任が問題になる場面)を、適宜切り替えながら生活することも可能になる。だから、虚構の認識は、人間社会の変化の大きなトリガーになる。
虚構をメタレベルで意識した上で、「罰が必要か」ではなく、「どこまで必要か」を問うこと、特に人を死に追いやるような差別・虐待はやり過ぎではないかと問うことが重要だと考えています。
久永公紀『意思決定のトリック』・『宮沢賢治の問題群』
2024年2月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
山口尚さんの本はほとんど読んでいるファンの一人ですが、
本書も読み応えのある内容でした。
まず哲学の本としては分かりやすく書かれている。
読者に分かってもらうようにするための想いが文体に表れている。
しかし、分かりやすく書かれてはいるが、〈初学者を可能な限り深いところまで連れて〉いってくれると思う。
第一部では、刑罰の多元主義を説明していきます。
刑罰のの意味として、現代ではまず、抑止や応報があげられる。
また中国の秦代の刑罰を紹介し、身体刑が社会からの追放の意味も持つことが説明される。
また「供犠」「訓練」「祝祭」「見せ物」といった現代からすれば新しい視点も示されていく。
こうして刑罰の意味を現代の価値観だけでなく、刑罰の歴史を振り返ることで
より幅広くとらえようとする姿勢のことを山口さんは「刑罰の多元主義」と呼んでいる。
フーコーの「監獄の誕生」を参考に訓練を意味を分析するところは、面白かった。
(社会学部を出ていながら、この本をちゃんと読んでいなかった自分に後悔)
この第一部だけでも読みごたえがあるが、第二部では、
行為・責任・主体といった概念をどう定義するか語られていく。
最終的には、自分の署名で生き方を選ぶことは可能であるという結論が語られる。
一周回って、もとのところに戻って来たように感じられるが、
その紆余曲折のプロセスは省くとこはできず、
そのプロセスがあるからこそ、この結論に深みが出ていると思う。
本書も読み応えのある内容でした。
まず哲学の本としては分かりやすく書かれている。
読者に分かってもらうようにするための想いが文体に表れている。
しかし、分かりやすく書かれてはいるが、〈初学者を可能な限り深いところまで連れて〉いってくれると思う。
第一部では、刑罰の多元主義を説明していきます。
刑罰のの意味として、現代ではまず、抑止や応報があげられる。
また中国の秦代の刑罰を紹介し、身体刑が社会からの追放の意味も持つことが説明される。
また「供犠」「訓練」「祝祭」「見せ物」といった現代からすれば新しい視点も示されていく。
こうして刑罰の意味を現代の価値観だけでなく、刑罰の歴史を振り返ることで
より幅広くとらえようとする姿勢のことを山口さんは「刑罰の多元主義」と呼んでいる。
フーコーの「監獄の誕生」を参考に訓練を意味を分析するところは、面白かった。
(社会学部を出ていながら、この本をちゃんと読んでいなかった自分に後悔)
この第一部だけでも読みごたえがあるが、第二部では、
行為・責任・主体といった概念をどう定義するか語られていく。
最終的には、自分の署名で生き方を選ぶことは可能であるという結論が語られる。
一周回って、もとのところに戻って来たように感じられるが、
その紆余曲折のプロセスは省くとこはできず、
そのプロセスがあるからこそ、この結論に深みが出ていると思う。
2024年1月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
主たる批判対象である『責任という虚構』を「責任は実在しない」と主張する書とし、それによれば「人間へ〈責任〉や〈応報〉の概念は適用されない」ことになると断言しています。同書を本当に読んだことがある人には、そうした理解と正反対のことを論じたものであることは明らかだと思うのですが。
続いて、「ただ何かが生じること」と「人が何かをすること」は区別できるとし、後者が有意味に成立することが重要であると主張しています。「人が何かをすること」が有意味であるためには、「自由な選択はない」という命題は採用できない、なぜなら自由な選択がないのなら「人が何かをする」ことも成り立たないことになるからだ、と、循環論が提示されます。論拠らしきものはありません。
誤読した『責任という虚構』や『人が人を裁くということ』を念頭に、「自由な選択はない」と主張する人は人が何かを主張することすらないと主張していることになり自己矛盾を起こしている、と批判します。しかし、自由な選択は「ない」、何かを主張することすら「ない」といった表現における「ない」が典型ですが、意味不明ないし含意の曖昧な言葉遣いが多く、思考の精度の低さが顕わです。
読解力、論理力、言語力のすべてにおいて不満が残る本でした。
続いて、「ただ何かが生じること」と「人が何かをすること」は区別できるとし、後者が有意味に成立することが重要であると主張しています。「人が何かをすること」が有意味であるためには、「自由な選択はない」という命題は採用できない、なぜなら自由な選択がないのなら「人が何かをする」ことも成り立たないことになるからだ、と、循環論が提示されます。論拠らしきものはありません。
誤読した『責任という虚構』や『人が人を裁くということ』を念頭に、「自由な選択はない」と主張する人は人が何かを主張することすらないと主張していることになり自己矛盾を起こしている、と批判します。しかし、自由な選択は「ない」、何かを主張することすら「ない」といった表現における「ない」が典型ですが、意味不明ないし含意の曖昧な言葉遣いが多く、思考の精度の低さが顕わです。
読解力、論理力、言語力のすべてにおいて不満が残る本でした。
2023年12月9日に日本でレビュー済み
文献を手際よく紹介する著者の能力は素晴らしい。丁寧な論述姿勢なので、誰でも最後まで読み通せるだろう。巻末の読書案内も有益。
本書を読む上での心構えをいくつか。
まず、本書の第Ⅰ部は読み飛ばしてよい。第Ⅱ部以下の本題と関係しないからである。行きつ戻りつ、三歩進んで二歩下がるような論述スピードも、哲学的難所の峠を超えるときには親切だと思うが、法制史的文献を紹介するだけのパートでは無用なストレスを感じる。ふつうはスキップで通り過ぎるような堅い路面を、あたかも薄氷を踏むようにおそるおそる歩いていくのは、いささかやり過ぎでしょう。
第Ⅲ部で展開される議論は基本的に背理法であって、要するにAを展開すると自己矛盾するからAは誤りだ、という論法である。説得的ではあるが、じゃあnotAは何なのかはちっとも分からない。
スピノザ的な決定論的世界観と、後期ウィトゲンシュタイン的な人間世界とをどう架橋するのか。架橋しない議論が矛盾することは分かった。では、どうやって?
別の言い方をすれば、「生の枠組み」の内実は何か。国や時代によって違うのか。人によって違うのか。正しい枠組みや間違った枠組みがあるのか。自由や責任の観念についてそこまで議論が進まなければ、結局、哲学的反省以前の素朴な世界観を丸ごとそのまま肯定しているだけだ。
180頁以下に語られている経験を出発点として、文献紹介と矛盾の指摘を超えて、もっと自由に羽ばたいてもよいのではないだろうか。著者にはその能力があるように思う。
(付記)
著者は最近「現代思想」誌上で連載をしているが、その本分は学説史にあるようだ。原著に取り組む余裕がなくてタイパを気にする人には有益である。
本書を読む上での心構えをいくつか。
まず、本書の第Ⅰ部は読み飛ばしてよい。第Ⅱ部以下の本題と関係しないからである。行きつ戻りつ、三歩進んで二歩下がるような論述スピードも、哲学的難所の峠を超えるときには親切だと思うが、法制史的文献を紹介するだけのパートでは無用なストレスを感じる。ふつうはスキップで通り過ぎるような堅い路面を、あたかも薄氷を踏むようにおそるおそる歩いていくのは、いささかやり過ぎでしょう。
第Ⅲ部で展開される議論は基本的に背理法であって、要するにAを展開すると自己矛盾するからAは誤りだ、という論法である。説得的ではあるが、じゃあnotAは何なのかはちっとも分からない。
スピノザ的な決定論的世界観と、後期ウィトゲンシュタイン的な人間世界とをどう架橋するのか。架橋しない議論が矛盾することは分かった。では、どうやって?
別の言い方をすれば、「生の枠組み」の内実は何か。国や時代によって違うのか。人によって違うのか。正しい枠組みや間違った枠組みがあるのか。自由や責任の観念についてそこまで議論が進まなければ、結局、哲学的反省以前の素朴な世界観を丸ごとそのまま肯定しているだけだ。
180頁以下に語られている経験を出発点として、文献紹介と矛盾の指摘を超えて、もっと自由に羽ばたいてもよいのではないだろうか。著者にはその能力があるように思う。
(付記)
著者は最近「現代思想」誌上で連載をしているが、その本分は学説史にあるようだ。原著に取り組む余裕がなくてタイパを気にする人には有益である。