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三木清『人生論ノート』を読む 単行本 – 2016/6/28
岸見一郎
(著)
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死とは何か、幸福とは何か。虚栄心と名誉心、怒りと憎しみ、愛と嫉妬、孤独への恐れなど、人間であるかぎりまぬがれ得ないこうした感情とは何か。人間だからこそ生じるこうした問いに、哲学者・三木清はどうこたえたか。
1941年の刊行以来、多くの読者に人生の指針として長く読み継がれてきたロングセラー、三木清『人生論ノート』を、現代のベストセラー『嫌われる勇気』の著者・岸見一郎が読み解く。珠玉の人生論。
悩みにこたえるヒントがここにある。
1941年の刊行以来、多くの読者に人生の指針として長く読み継がれてきたロングセラー、三木清『人生論ノート』を、現代のベストセラー『嫌われる勇気』の著者・岸見一郎が読み解く。珠玉の人生論。
悩みにこたえるヒントがここにある。
- 本の長さ222ページ
- 言語日本語
- 出版社白澤社
- 発売日2016/6/28
- 寸法13 x 1.5 x 18.9 cm
- ISBN-104768479626
- ISBN-13978-4768479629
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商品の説明
著者について
1956年、京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。現在、京都聖カタリナ高校看護専攻科(心理学)非常勤講師。著書に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健と共著、ダイヤモンド社)、『よく生きるということ 「死」から「生」を考える』(唯学書房)、『生きづらさからの脱却』(筑摩書房)、訳書に『人生の意味の心理学』(アドラー著、アルテ)、『ティマイオス/クリティアス』(プラトン著、白澤社)など多数。
登録情報
- 出版社 : 白澤社 (2016/6/28)
- 発売日 : 2016/6/28
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 222ページ
- ISBN-10 : 4768479626
- ISBN-13 : 978-4768479629
- 寸法 : 13 x 1.5 x 18.9 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 344,363位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1956年、京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋古代哲学史専攻)。京都教育大学教育学部、奈良女子大学文学部(哲学・古代ギリシア語)、近大姫路大学看護学部、教育学部(生命倫理)非常勤講師、京都聖カタリナ高校看護専攻科(心理学)非常勤講師を歴任。専門の哲学に並行してアドラー心理学を研究、精力的に執筆・講演活動を行っている。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2021年7月15日に日本でレビュー済み
西洋哲学でも特に古代ギリシアの知識と、キリスト教の知識がないと人生論ノートを読みこなすが難しいので、その知識に乏しい人には有用だろう。けれど、多少知っている人にしてみると、本書は少々物足りないと感じるだろう。
いずれにせよ、この本を読んだだけでは人生論ノートを理解するのはできないと思う。
いずれにせよ、この本を読んだだけでは人生論ノートを理解するのはできないと思う。
2018年10月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
三木清は、ここで、この文章で何を言いたいのだ? 読書百遍してもわからない歴史事実、個人的思い、比喩、そうしたことを、しっかりとした研究やリサーチの上に書いておられますので、非常に参考になりました。まず、そうした辞書的な意味でも味わい深い解説だと思います。「続」のほうは、読解への手助け、という部分が、若干、手を抜かれたのかな?と感じました。
2018年9月20日に日本でレビュー済み
岸見一郎著 『三木清人生論ノートを読む』
最上の死とは?
モンテーニュの言葉に「最上の死は予め考えられなかった死であるとあり、 事前に予想されない死こそ最上の死だということは、予想された死、覚悟された死は最上の死ではないという意味です」と。
僕も、どうせ死ぬなら、予期せぬうちに瞬く間に死ぬのが最上だろう、と思う。
或る意味では、雷に撃たれて死ぬとか、ある日、山を歩いて、岩が落ちてきて、一瞬にして死ぬこともありうる。これらは良き死と言えるのではないか。
ドストエフスキーは白痴の中で、死刑とはすごく残酷だと語らせる。死刑でなければ、瀕死の重傷でも、最後の瞬間まで助かるかもしれないという希望があるが、この希望すら確実に奪い去るからです。
今年、オウム真理教の信者が死刑になったが、同じ日に岡山や広島で大雨のために、かなりの人が亡くなった。
同じ死とはいえ、前者は当然、かなりの精神的打撃を味わいながら死んでいっただろう。しかし、後者は予期せぬ死だった。
戦時中、教育勅語に「一旦緩急あれば義勇公に奉し」、軍人勅諭に「死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」などと言われ、考えられた死になる。特攻隊などはそう言う意味では最悪になる。
人間はどんな事があっても、生ある限り、生きるのが筋だと思う。
戦時中の右翼は死を礼讃するが、たとえ、大国の属国になっても、やはり、生を優先すべきではないだろうか。
カウンセラーの自殺対処法とは?
以前、河合隼雄氏は、重い神経症の人から、「先生、人間には魂があるのでしょうか」と質問される。病苦に耐えかねて、自殺を考えている相手である。それに対して、河合隼雄氏は
「魂があるかないか、確信を持って答えることができません。ただ私にとって、魂があると答えた方が説明のつきやすいことがらには、ちょいちょい出会ってきました」と。
その一言によって、
「自ら命を絶ったという責任を負って魂が存在し続けるのかと思うと、たまらない気がします」と言って、自殺を思いとどまった、と、僕は以前、書いたことがある。
今度は、著者の岸見氏は、カウンセリングをしているが、河合氏同様に、自殺志願の人が電話がある、という。
そこで、著者は「ところで、あなたの両親はお元気ですか」と尋ねる。
「両親とも元気です。でも、なぜ」
「それは残念です。もし、御両親のどちらかでも亡くなっていれば、あの世で会えるかもしれない。御両親が健在ならその可能性はまったくない」と。
こう答えると、その人は自殺を思いとどまったという。
三木清は、死について、こういう。「死別した者たちと再会することが最大の希望だ。 深く執着するものがある者は、死後自分の帰ってゆくべきところを持っている。それだから死に対する準備というのは、どこまでも執着するものを作るということである。私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する」と。
三木清は、妻に先立たれたので、こう言ったのだろう。
幸福とは?
「幸福には、本来、進歩というものはない。幸福が存在に関わるのに反して、成功は過程に関わっている。そうだとすれば、人は成功するかどうか関係なく幸福になれる。それなのに、幸福になれないのは、成功、不成功と幸福、不幸を同一視しているからだ。人が人として存在することがそのまま幸福なのです。現代の成功論は本来の幸福論と随分違う」と。
今、書店で売られている本は幸福についての本が少ない。いかにして、金儲けして、出世できるかの類のハウツウ本は山と出るが。
この金を多く儲ける事が、幸福と勘違いしている人が多いから、自殺者が多く出るのではないのか。
三木清は、各時代の理想とされた人間像について、古代では「賢者」、中世では「聖者」、近代では「企業家」だという。
戦時中 コルベ神父という人がいたが、御存じだろうか。
故国ポーランドへ帰国後、ナチスによってアウシュビッツ強制収容所に送られる。そこで、脱走事件があり、脱走者はコルベ神父と同じ班の者だった。
アウシュビッツでは、脱走者が出ると、同じ班の者から十人身代わりで死刑になる。十人が選ばれると、そのうち一人が「私には妻子がある」と泣き崩れる。
その時、コルベ神父は「私には結婚していないし、子供もいなので、身代わりになりましょう」と申し出て死刑になる。
恐らく、コルベ神父は 他人のために犠牲になることを、自分にとっての最大の幸福と普段から考えていたからではないか。
なぜ、人は嫉妬するのか?
「他人の幸福に嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得られるものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴いやすい。幸福は存在に関わるのに反して、成功は過程に関わっている」と。
しかし、嫉妬は自分より程度がやや上の人に対して生じるようだ。
オリンピックの金メダリストやノーベル賞を取った人に嫉妬は起こらないだろう。
「嫉妬はより高いものの足を引っぱって平均化することを目指している。嫉妬からは自らを高めようとする動機は出てこない。 嫉妬心をなくするには、自信を持てといわれる。だが自信は如何にして生ずるのか。自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福は存在しない」と。
何か自分に興味あるものに熱中している人は人に対して嫉妬をおこさないだろう。
反対に言えば、何事も中途半端で、集中できない人が陥ってしまうのだろう。
虚栄をなくすには?
「いかにして虚栄をなくすることができるか。虚無に帰することによって。それとも虚無の実在性を証明することによって。言い換えると、創造によって。創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造とはフィクションを作ることである、フィクションの実在性を証明することである」と。
他の人からよく見られたい、他の人の優位に立ちたいという気持ちから作られたフィクションは虚栄です。
孤独であることが出来ない人は、どうしても他人の評価を気にする。虚栄に陥る。
しかし、他の人との競争に勝ちたいとか、優位に立ちたいという気持ちからではなく、自分の人生のためにこれが必要だと思って何かを成し遂げようと努力することを虚栄とは言わない。
「自己の生活について真の芸術家であるということは、人間の立場において虚栄を駆逐するための最高のものである」と。
人生はフィクションであると三木が言うのは、個人の生活だけでなく、道徳、文化、法律もフィクションであることを見抜いた上で、だからと言って、それらを捨て去るのではなく、それをよりよくしていく努力をすべきだということなのです。
現代は個性がない時代か?
「かつて人間とその社会を構成するものや人には性格があった。移動、通信、社交で限定された社会だったが、現代人はそうした限定のない世界に住んでいる。今や、道具も知識も出所がわからない。すべてがアノニム(無名)であり、すべてがアモフル(無定形)であると条件の中で生きることによって、人間もまた無名で無定形になっていく。一言でいえば個性がない人が増えた」と。
インターネットで流れる情報は、どこの誰がどうして発信しているのかわからない。署名記事はありますが、名前を見たところでその人を知っているわけではないし、その人がどのような人かわからない。
孤独とは?
「孤独は内に閉じこもることではない。孤独を感じる時、試みに、自分の手を伸ばして、じっと見つめよ。孤独の感じは急に迫ってくるであろう」と。
石川啄木の「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」(一握の砂)を連想させる。
「アウグスティヌスは、植物は人間から見られることを求めており、見られることがそれにとって救済である、と言ったが、表現することは物を救うことであり、物を救うことによって自己を救うことである。
誰からも見られていないような場所で咲く花、誰も知らないような景色を見た時、カメラをかまえたくなる。
その時、花や景色は自分に呼びかけているように思います。孤独はその呼びかけに応える条件です」と。
この文章を読んで感じたのは、花だけでなく、鳥、犬、猫などの動物も人から見られることを望んでいるのではないだろうか。
また、自然をスケッチしたくなったり、これはええなあ、と思える物など買いたくなったりするのは、向こうからスケッチしてくれとか、買ってくれと呼びかけてくるのではないか。
最上の死とは?
モンテーニュの言葉に「最上の死は予め考えられなかった死であるとあり、 事前に予想されない死こそ最上の死だということは、予想された死、覚悟された死は最上の死ではないという意味です」と。
僕も、どうせ死ぬなら、予期せぬうちに瞬く間に死ぬのが最上だろう、と思う。
或る意味では、雷に撃たれて死ぬとか、ある日、山を歩いて、岩が落ちてきて、一瞬にして死ぬこともありうる。これらは良き死と言えるのではないか。
ドストエフスキーは白痴の中で、死刑とはすごく残酷だと語らせる。死刑でなければ、瀕死の重傷でも、最後の瞬間まで助かるかもしれないという希望があるが、この希望すら確実に奪い去るからです。
今年、オウム真理教の信者が死刑になったが、同じ日に岡山や広島で大雨のために、かなりの人が亡くなった。
同じ死とはいえ、前者は当然、かなりの精神的打撃を味わいながら死んでいっただろう。しかし、後者は予期せぬ死だった。
戦時中、教育勅語に「一旦緩急あれば義勇公に奉し」、軍人勅諭に「死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」などと言われ、考えられた死になる。特攻隊などはそう言う意味では最悪になる。
人間はどんな事があっても、生ある限り、生きるのが筋だと思う。
戦時中の右翼は死を礼讃するが、たとえ、大国の属国になっても、やはり、生を優先すべきではないだろうか。
カウンセラーの自殺対処法とは?
以前、河合隼雄氏は、重い神経症の人から、「先生、人間には魂があるのでしょうか」と質問される。病苦に耐えかねて、自殺を考えている相手である。それに対して、河合隼雄氏は
「魂があるかないか、確信を持って答えることができません。ただ私にとって、魂があると答えた方が説明のつきやすいことがらには、ちょいちょい出会ってきました」と。
その一言によって、
「自ら命を絶ったという責任を負って魂が存在し続けるのかと思うと、たまらない気がします」と言って、自殺を思いとどまった、と、僕は以前、書いたことがある。
今度は、著者の岸見氏は、カウンセリングをしているが、河合氏同様に、自殺志願の人が電話がある、という。
そこで、著者は「ところで、あなたの両親はお元気ですか」と尋ねる。
「両親とも元気です。でも、なぜ」
「それは残念です。もし、御両親のどちらかでも亡くなっていれば、あの世で会えるかもしれない。御両親が健在ならその可能性はまったくない」と。
こう答えると、その人は自殺を思いとどまったという。
三木清は、死について、こういう。「死別した者たちと再会することが最大の希望だ。 深く執着するものがある者は、死後自分の帰ってゆくべきところを持っている。それだから死に対する準備というのは、どこまでも執着するものを作るということである。私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する」と。
三木清は、妻に先立たれたので、こう言ったのだろう。
幸福とは?
「幸福には、本来、進歩というものはない。幸福が存在に関わるのに反して、成功は過程に関わっている。そうだとすれば、人は成功するかどうか関係なく幸福になれる。それなのに、幸福になれないのは、成功、不成功と幸福、不幸を同一視しているからだ。人が人として存在することがそのまま幸福なのです。現代の成功論は本来の幸福論と随分違う」と。
今、書店で売られている本は幸福についての本が少ない。いかにして、金儲けして、出世できるかの類のハウツウ本は山と出るが。
この金を多く儲ける事が、幸福と勘違いしている人が多いから、自殺者が多く出るのではないのか。
三木清は、各時代の理想とされた人間像について、古代では「賢者」、中世では「聖者」、近代では「企業家」だという。
戦時中 コルベ神父という人がいたが、御存じだろうか。
故国ポーランドへ帰国後、ナチスによってアウシュビッツ強制収容所に送られる。そこで、脱走事件があり、脱走者はコルベ神父と同じ班の者だった。
アウシュビッツでは、脱走者が出ると、同じ班の者から十人身代わりで死刑になる。十人が選ばれると、そのうち一人が「私には妻子がある」と泣き崩れる。
その時、コルベ神父は「私には結婚していないし、子供もいなので、身代わりになりましょう」と申し出て死刑になる。
恐らく、コルベ神父は 他人のために犠牲になることを、自分にとっての最大の幸福と普段から考えていたからではないか。
なぜ、人は嫉妬するのか?
「他人の幸福に嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得られるものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴いやすい。幸福は存在に関わるのに反して、成功は過程に関わっている」と。
しかし、嫉妬は自分より程度がやや上の人に対して生じるようだ。
オリンピックの金メダリストやノーベル賞を取った人に嫉妬は起こらないだろう。
「嫉妬はより高いものの足を引っぱって平均化することを目指している。嫉妬からは自らを高めようとする動機は出てこない。 嫉妬心をなくするには、自信を持てといわれる。だが自信は如何にして生ずるのか。自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福は存在しない」と。
何か自分に興味あるものに熱中している人は人に対して嫉妬をおこさないだろう。
反対に言えば、何事も中途半端で、集中できない人が陥ってしまうのだろう。
虚栄をなくすには?
「いかにして虚栄をなくすることができるか。虚無に帰することによって。それとも虚無の実在性を証明することによって。言い換えると、創造によって。創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造とはフィクションを作ることである、フィクションの実在性を証明することである」と。
他の人からよく見られたい、他の人の優位に立ちたいという気持ちから作られたフィクションは虚栄です。
孤独であることが出来ない人は、どうしても他人の評価を気にする。虚栄に陥る。
しかし、他の人との競争に勝ちたいとか、優位に立ちたいという気持ちからではなく、自分の人生のためにこれが必要だと思って何かを成し遂げようと努力することを虚栄とは言わない。
「自己の生活について真の芸術家であるということは、人間の立場において虚栄を駆逐するための最高のものである」と。
人生はフィクションであると三木が言うのは、個人の生活だけでなく、道徳、文化、法律もフィクションであることを見抜いた上で、だからと言って、それらを捨て去るのではなく、それをよりよくしていく努力をすべきだということなのです。
現代は個性がない時代か?
「かつて人間とその社会を構成するものや人には性格があった。移動、通信、社交で限定された社会だったが、現代人はそうした限定のない世界に住んでいる。今や、道具も知識も出所がわからない。すべてがアノニム(無名)であり、すべてがアモフル(無定形)であると条件の中で生きることによって、人間もまた無名で無定形になっていく。一言でいえば個性がない人が増えた」と。
インターネットで流れる情報は、どこの誰がどうして発信しているのかわからない。署名記事はありますが、名前を見たところでその人を知っているわけではないし、その人がどのような人かわからない。
孤独とは?
「孤独は内に閉じこもることではない。孤独を感じる時、試みに、自分の手を伸ばして、じっと見つめよ。孤独の感じは急に迫ってくるであろう」と。
石川啄木の「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」(一握の砂)を連想させる。
「アウグスティヌスは、植物は人間から見られることを求めており、見られることがそれにとって救済である、と言ったが、表現することは物を救うことであり、物を救うことによって自己を救うことである。
誰からも見られていないような場所で咲く花、誰も知らないような景色を見た時、カメラをかまえたくなる。
その時、花や景色は自分に呼びかけているように思います。孤独はその呼びかけに応える条件です」と。
この文章を読んで感じたのは、花だけでなく、鳥、犬、猫などの動物も人から見られることを望んでいるのではないだろうか。
また、自然をスケッチしたくなったり、これはええなあ、と思える物など買いたくなったりするのは、向こうからスケッチしてくれとか、買ってくれと呼びかけてくるのではないか。
2016年7月17日に日本でレビュー済み
アドラー心理学を語るのと同じ温和な語り口で、岸見一郎さんは、『人生論ノート』を読み、導いていく。
読み進んでいくと、各章ごとに『人生論ノート』の対応箇所がまとめられている。
岸見さんの話を聞いてから、ちょっと立ち止まり、読者自身が三木清の言葉から考える仕組みになっていて、親切だなと思った。
(三木清も、構想力がこのような形で時代を超えて活かされていることに、喜んでいるだろう。)
難解な言葉は一つもないけれど、理解は簡単ではない。
なぜなら、人生は一人一人のもので、自分の人生は三木清の人生とも、岸見さんの人生とも違うから。
違うけれど、この本があれば、少なくとも人生は孤独ではないだろう。
どんな時代でも前向きに生き抜くための教養書として、おすすめの1冊。
読み進んでいくと、各章ごとに『人生論ノート』の対応箇所がまとめられている。
岸見さんの話を聞いてから、ちょっと立ち止まり、読者自身が三木清の言葉から考える仕組みになっていて、親切だなと思った。
(三木清も、構想力がこのような形で時代を超えて活かされていることに、喜んでいるだろう。)
難解な言葉は一つもないけれど、理解は簡単ではない。
なぜなら、人生は一人一人のもので、自分の人生は三木清の人生とも、岸見さんの人生とも違うから。
違うけれど、この本があれば、少なくとも人生は孤独ではないだろう。
どんな時代でも前向きに生き抜くための教養書として、おすすめの1冊。