難しいとされる哲学が、翻訳本と違ってやさしい日本語で書かれています。それだけで初学者にとっては有り難いことです。一方、直感で理解するというより、忍耐のいる説明が長く続くので、嫌う人も出てくるでしょうが、これが本書のような分析哲学の特徴です。何を証明しようとしているのかを忘れずに、数式を追うように一字一句丁寧に読み進めないと迷子になってしまいます。確かに万人向けの本ではないかもしれません。
しかし私にとっては素晴らしい本です。かねがね方法的個人主義(集団に関する現象は個人に関する現象とその組み合わせによって説明できるp.96)に懐疑的でした。著者も、方法的個人主義に対して懐疑的な立場である「全体論」あるいは「集合主義」を支持する少数派であると宣言してくれています(p.97)。そして「集団の心」を擁護する著者は、じつに頼もしい。
カンタン・メイヤスーらの「思弁的実在論」や、マルクス・ガブリエルらの「新しい実在論」が、素朴実在論と呼ばれて切り捨てられてきた対象を存在論で救い出そうとするように、本書も副題に「存在論からのアプローチ」とあるように、日常の中に存在するありふれた対象を救い出そうとします。例えば、ソール・クリプキにはじまる人工物説(p.201)などに依拠して、時計(人工物)、サービス(プロセス)、物語のキャラクター(虚構)に関する、わたしたちの信念と実践を救い出そうとするのです。
ああでもない、こうでもないと、議論を拡張して、結論ないし自分の主張を書かないで終わる著書をみかけますが、本書は異論があることを認めながらも、自分の主張を述べるというスタイルです。おそらく自信があるので、このスタイルを貫けるのでしょう。大変好感が持てます。
あとがきで予告されている次著『社会存在論』も大いに期待が持てます。今から予約を入れたいほどです。

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日常世界を哲学する 存在論からのアプローチ (光文社新書) 新書 – 2019/8/20
倉田 剛
(著)
「空気」って何? 「ムーミン谷」はどこ?安倍内閣の「信念」とは⁈
哲学の大問題の最新形
「ある」の意味をとことん考える
「存在論」とは、何かが「ある」とはどういうことかを考える哲学の一大分野である。起源は古代に遡るが、現代では、ある事実が成立するためには何が存在し、存在するもの同士はどのような関係にあるかを問題にする。例えば「安倍内閣は辺野古移転を正しいと信じている」という時の「信念」の主体は誰か、「パワハラ」は社会の中でどのように「ある」のか、「KY」の「空気」とはどのような性質を持つものかなど、あらゆる事象の前提、すなわち世界がよって立つ基礎を考察している。私たちの「当たり前」を問い直すことで、日常は違った相貌を現す。哲学の最前線を体感するスリリングな講義。
【目次】
第1章ハラスメントはいかに「ある」か? 「社会的事実」を考える
第2章「空気」とは何か? 「社会規範」の分析
第3章集団に「心」はあるのか?全体論的アプローチ
第4章時計は実在するのか? 「人工物」のリアリティーについて
第5章サービスの存在論私たちが売買する時空的対象
第6章キャラクターの存在と同一性「人工物説」の立場から
倉田剛(くらたつよし)
1970年生まれ。九州大学大学院人文科学研究院准教授。慶應義塾大学文学部卒。パリ大学第12校DEA課程を経て、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専門はオーストリア哲学、分析形而上学。主な著書は『現代存在論講義I・II』(新曜社)など。
哲学の大問題の最新形
「ある」の意味をとことん考える
「存在論」とは、何かが「ある」とはどういうことかを考える哲学の一大分野である。起源は古代に遡るが、現代では、ある事実が成立するためには何が存在し、存在するもの同士はどのような関係にあるかを問題にする。例えば「安倍内閣は辺野古移転を正しいと信じている」という時の「信念」の主体は誰か、「パワハラ」は社会の中でどのように「ある」のか、「KY」の「空気」とはどのような性質を持つものかなど、あらゆる事象の前提、すなわち世界がよって立つ基礎を考察している。私たちの「当たり前」を問い直すことで、日常は違った相貌を現す。哲学の最前線を体感するスリリングな講義。
【目次】
第1章ハラスメントはいかに「ある」か? 「社会的事実」を考える
第2章「空気」とは何か? 「社会規範」の分析
第3章集団に「心」はあるのか?全体論的アプローチ
第4章時計は実在するのか? 「人工物」のリアリティーについて
第5章サービスの存在論私たちが売買する時空的対象
第6章キャラクターの存在と同一性「人工物説」の立場から
倉田剛(くらたつよし)
1970年生まれ。九州大学大学院人文科学研究院准教授。慶應義塾大学文学部卒。パリ大学第12校DEA課程を経て、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専門はオーストリア哲学、分析形而上学。主な著書は『現代存在論講義I・II』(新曜社)など。
- 本の長さ240ページ
- 言語日本語
- 出版社光文社
- 発売日2019/8/20
- 寸法11 x 1.2 x 17.3 cm
- ISBN-10433404428X
- ISBN-13978-4334044282
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登録情報
- 出版社 : 光文社 (2019/8/20)
- 発売日 : 2019/8/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 240ページ
- ISBN-10 : 433404428X
- ISBN-13 : 978-4334044282
- 寸法 : 11 x 1.2 x 17.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 460,567位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2019年9月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2019年8月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ありふれた日常を「存在論」から論考しようというタイトルが、”おいで、おいで”しているように感じられ、購入となりました。 日常的な疑問が意外な形で解けるかもしれないと期待したからです。 しかし、第2章の「空気とは何か」まで読み進み気乗りしなくなり、とうとう第3章の「集団に心はあるのか」の論考にギブアップし、本書を閉じました。 ありふれた日常の出来事を哲学的にとらえ直しても、共感できず、期待していた意外な側面も見えてきませんでした。 それは、小生の思考回路が知識的に追いつけないからかもしれません。 一応、批判的な言い方でレビューするなら、論考が著者の脳ミソ中心と思えるから追随できない、ということです。
存在論とは、アリストテレスの時代からカント以降、連綿とナンダカンダ議論されてきた哲学の永遠のテーマですよね。 その”哲学力(ぢから)”は、著者の偏りを感じる文章に触れることにより、”日常を語る違和感”に変わってしまいました。 まず、自民党の事例が多い…。 こういう本で、政治のハナシはやめときましょうよ。 それが、どう論旨に結実するかは別にして。
第3章「集団に「心」はあるか-全体的アプローチ」のp96でこう述べます。 私は方法論的、個人主義に懐疑的な「全体論・集合主義」の立場に属する”少数派”だ、と。 わざわざ異端度を何気にアピールしているように読め、ちょっと引けます。 だからとはいいませんが、何を説明しようとしているのか理解が追いつきません。 おそらく「存在論」を知る”セミプロ”のような立場の読者なら、この少数派の論説に併走できるのでしょう(共感するか否かは別にして)。 知識の乏しい小生にとって、読書継続をギブアップしたのは、この辺りからです。 最近の読書論のとおり、全部読まなくていい、あるいは読書術として言われるとおり、腑に落ちないのは、自分が著作の内容に合っていないことを腑分けできているから、という言説が背中を押し、本を閉じました。
随所に、”ナントカ説”とか”なにがし理論”という、いろんな学者の学説用語が英語併記で太文字表記され、小文字の長文で注釈が別注記されます。 それは補説ではなく、本文で分かりやすく説明してよ、というのが読んでいる側のホンネです。 それがわからないから「追いついてゆけない」感が募るわけですし。
「当たり前のこと」が意外と「当たり前じゃないよ」という気づきは、それなりに感じ取ることはできますし、「当たり前のことに対する哲学的アプローチ」の意味は感じ取れます。 しかし、前説にあるような”スリリングな講義”じゃないね、って”抗議”したくなってしまいます。 読んでるオマエがアホだからだろうと言われたらそれまでなんですけれども、、、。
ついでに言うなら、2章の「空気とは何か?社会規範の分析」ですが、このテーマを”存在論”からアプローチする有効性が理解できませんでした。 山本七平は「空気」を定義するより、当時くだんの「空気」から日本に根づいた文化を論じたのであって、山本の「空気」論は、そもそも批判対象とはならないように思うのです、、、時代も違いますし。 要は(要は、ってほど簡単に言えないことを承知で述べますけれども)、一般論的な言い方を採用するなら、日本で言う「空気」とは、”雰囲気のメタファー”でしょ? 「~の空気」って言う場合それは、当然ながらH2Oじゃなくて、その場を覆う雰囲気に、どう応ずるか、どう行動するかに関し、たしかに日本人的な結末を予測でき、日本人論の一大側面になり得ます、、、。 それを、ある・ない、の存在論で論破することには、著者の独りよがりな”雰囲気”、つまり”空気”を感じてしまいます。 不安な予感をいだいたまま、次章の3章の途中では”こんがらがっちっち”とならざるを得ず、本書を閉じたわけです。
何の本でも無駄なことはありません。 おそらく、なにかのきっかけで再度、本書に手を伸ばすことがあることと信じますが、今は書棚に返しておきたいと思う次第です。 全部読み切っていないので(もしかしたらドンデンガエシもあるかもしれませんので)、★は3つとさせていただきました。
存在論とは、アリストテレスの時代からカント以降、連綿とナンダカンダ議論されてきた哲学の永遠のテーマですよね。 その”哲学力(ぢから)”は、著者の偏りを感じる文章に触れることにより、”日常を語る違和感”に変わってしまいました。 まず、自民党の事例が多い…。 こういう本で、政治のハナシはやめときましょうよ。 それが、どう論旨に結実するかは別にして。
第3章「集団に「心」はあるか-全体的アプローチ」のp96でこう述べます。 私は方法論的、個人主義に懐疑的な「全体論・集合主義」の立場に属する”少数派”だ、と。 わざわざ異端度を何気にアピールしているように読め、ちょっと引けます。 だからとはいいませんが、何を説明しようとしているのか理解が追いつきません。 おそらく「存在論」を知る”セミプロ”のような立場の読者なら、この少数派の論説に併走できるのでしょう(共感するか否かは別にして)。 知識の乏しい小生にとって、読書継続をギブアップしたのは、この辺りからです。 最近の読書論のとおり、全部読まなくていい、あるいは読書術として言われるとおり、腑に落ちないのは、自分が著作の内容に合っていないことを腑分けできているから、という言説が背中を押し、本を閉じました。
随所に、”ナントカ説”とか”なにがし理論”という、いろんな学者の学説用語が英語併記で太文字表記され、小文字の長文で注釈が別注記されます。 それは補説ではなく、本文で分かりやすく説明してよ、というのが読んでいる側のホンネです。 それがわからないから「追いついてゆけない」感が募るわけですし。
「当たり前のこと」が意外と「当たり前じゃないよ」という気づきは、それなりに感じ取ることはできますし、「当たり前のことに対する哲学的アプローチ」の意味は感じ取れます。 しかし、前説にあるような”スリリングな講義”じゃないね、って”抗議”したくなってしまいます。 読んでるオマエがアホだからだろうと言われたらそれまでなんですけれども、、、。
ついでに言うなら、2章の「空気とは何か?社会規範の分析」ですが、このテーマを”存在論”からアプローチする有効性が理解できませんでした。 山本七平は「空気」を定義するより、当時くだんの「空気」から日本に根づいた文化を論じたのであって、山本の「空気」論は、そもそも批判対象とはならないように思うのです、、、時代も違いますし。 要は(要は、ってほど簡単に言えないことを承知で述べますけれども)、一般論的な言い方を採用するなら、日本で言う「空気」とは、”雰囲気のメタファー”でしょ? 「~の空気」って言う場合それは、当然ながらH2Oじゃなくて、その場を覆う雰囲気に、どう応ずるか、どう行動するかに関し、たしかに日本人的な結末を予測でき、日本人論の一大側面になり得ます、、、。 それを、ある・ない、の存在論で論破することには、著者の独りよがりな”雰囲気”、つまり”空気”を感じてしまいます。 不安な予感をいだいたまま、次章の3章の途中では”こんがらがっちっち”とならざるを得ず、本書を閉じたわけです。
何の本でも無駄なことはありません。 おそらく、なにかのきっかけで再度、本書に手を伸ばすことがあることと信じますが、今は書棚に返しておきたいと思う次第です。 全部読み切っていないので(もしかしたらドンデンガエシもあるかもしれませんので)、★は3つとさせていただきました。
2019年9月5日に日本でレビュー済み
この本の対象として適切なのは、哲学(の特に存在論)を志す人です。
筆者の「現代存在論講義」を読んでからの方が良いでしょう。
でないと、他のレビュアーの方でされているように、曲解・誤解をするでしょう。
哲学の議論というのは大抵理論的です。つまり、”正解”を現実に探せないのです(*1)。
ゆえに色々な理論があり、誰がどの理論を支持しているのかもまちまちです(*2)。
それでも読んでみたい、という方の為に、簡単に存在論について述べます。
存在論というのは、大雑把にいえば、存在するものについての枠組みです。
"存在するもの"って何を指すの?
哲学ですから、"全て"を取り扱います。
この本ではとくに、"目に見えないけど、存在するもの"を扱います。(サービス、キャラクターなど)
では、どうやって?
この本で行われているのは、カテゴリー論というものです。
生物学もカテゴリーが重要ですが、カテゴリー論では、もっと根本的・基礎的な分類を試みます。
たとえば本書では、サービスは、"プロセス”に分類されると結論されています。
"プロセス"に分類されたから、何なのか?
特に何もありません。
本書の目的というのは、現実で「存在する、でも見えない」といったものを、カテゴリー論の中に回収することです。
これによって存在論は、あらゆる存在を、最も単純な形で説明するのです。
これこそ哲学が、世界の最も基礎的なあり方を探求する学問だということです(*3)。
*1:厳密にいえば、そもそも真実を探求するのが哲学でして、科学の言明も完全ではありません。「科学ってうまく機能しているように見えるけど、その正体は?」と問うのが科学哲学という分野です。
*2:他のレビューの"筆者の異端ぶりたさ"の指摘は的外れといえます。学者がどの立場に立って意見を述べるのかは非常に重要なのです。特に哲学においては顕著といえます。
*3:存在論だけが哲学的、という訳ではありません。哲学には他にも多くの分野があります。
筆者の「現代存在論講義」を読んでからの方が良いでしょう。
でないと、他のレビュアーの方でされているように、曲解・誤解をするでしょう。
哲学の議論というのは大抵理論的です。つまり、”正解”を現実に探せないのです(*1)。
ゆえに色々な理論があり、誰がどの理論を支持しているのかもまちまちです(*2)。
それでも読んでみたい、という方の為に、簡単に存在論について述べます。
存在論というのは、大雑把にいえば、存在するものについての枠組みです。
"存在するもの"って何を指すの?
哲学ですから、"全て"を取り扱います。
この本ではとくに、"目に見えないけど、存在するもの"を扱います。(サービス、キャラクターなど)
では、どうやって?
この本で行われているのは、カテゴリー論というものです。
生物学もカテゴリーが重要ですが、カテゴリー論では、もっと根本的・基礎的な分類を試みます。
たとえば本書では、サービスは、"プロセス”に分類されると結論されています。
"プロセス"に分類されたから、何なのか?
特に何もありません。
本書の目的というのは、現実で「存在する、でも見えない」といったものを、カテゴリー論の中に回収することです。
これによって存在論は、あらゆる存在を、最も単純な形で説明するのです。
これこそ哲学が、世界の最も基礎的なあり方を探求する学問だということです(*3)。
*1:厳密にいえば、そもそも真実を探求するのが哲学でして、科学の言明も完全ではありません。「科学ってうまく機能しているように見えるけど、その正体は?」と問うのが科学哲学という分野です。
*2:他のレビューの"筆者の異端ぶりたさ"の指摘は的外れといえます。学者がどの立場に立って意見を述べるのかは非常に重要なのです。特に哲学においては顕著といえます。
*3:存在論だけが哲学的、という訳ではありません。哲学には他にも多くの分野があります。
2019年8月22日に日本でレビュー済み
本書の特徴のひとつは、日常世界をゲーム理論として捉え、哲学的対話を展開していることにある。「電話ゲーム」を用いて「ナッシュ均衡」を論じる。自分が損をしないような対応を互いに考えて行動を取ることが「ナッシュ均衡」論である。相手と自分の損得を計算し、少なくとも自分が損をしないように相手の行動を予想しながら自分の取るべき行動を決める。相手の行動を読み取ることが著者の言う「空気を読む」ことである。
しかし、相手の行動を読み取る(予想する)ことが、果たして「空気を読む」ことなのだろうか?日本人の「空気を読む」とは、集団の雰囲気をある種の「同調圧力」として感じ取り、自分が皆から批判されないように集団の意見に自分の意見を会わせることではないか?それは自分と相手の損得の帳尻合わせをする「ナッシュ均衡」とは、意味合いが根本的に異なるのではないだろうか?
そういう疑問があるが、日常世界を哲学する本書の視点は抜群に面白い。
お勧めの一冊だ。
しかし、相手の行動を読み取る(予想する)ことが、果たして「空気を読む」ことなのだろうか?日本人の「空気を読む」とは、集団の雰囲気をある種の「同調圧力」として感じ取り、自分が皆から批判されないように集団の意見に自分の意見を会わせることではないか?それは自分と相手の損得の帳尻合わせをする「ナッシュ均衡」とは、意味合いが根本的に異なるのではないだろうか?
そういう疑問があるが、日常世界を哲学する本書の視点は抜群に面白い。
お勧めの一冊だ。
2019年9月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書のタイトルは『日常世界を哲学する』とあり、(その半分も理解に至らなかった私だが)恐らく趣旨も概ねその通りと思われる。しかし正直に言って、表紙カバー裏面(表2)には「私たちの『当たり前』を問い直すことで、日常は違った相貌を現す。哲学の最前線を体感するスリリングな講義」と見えるが、私にとっては通読がやっとで著者には失礼ながら右「体感」や「スリリング」以前に、論旨・論脈に係る理解の難度と思考実験(過程と結論)の“非生産性”は「体感」できたように思う。何しろ本書で展開される『哲学』が行動心理学、ゲーム理論・ナッシュ均衡(以上第2章ほか)、法学的社会規範、道徳論、論理学等(以上第1・4章など:但し右区分は必ずしも適切ではない)と広範すぎて私には追い付いていけないのである。「あなたのような(知性のない)読者は対象としていません」と言われれば、返す言葉がないのも事実ではある。
第3章等は私でも何とか理解できる部分もあって興味深く読めたが、個人的に疑問に思うところが多々あるのも否めない。“失当”の謗りを覚悟で敢えて指摘すると、著者は「構造論」やソクラテスを引き合いにしつつ「ハラスメントを含む社会的事実一般の不安定性」(28~32頁)、並びに「フレーム原理」から「ハラスメントの典型でもあることから他のハラスメントにも応用可能な一般的特徴」(38~48頁)等と自身の所論を展開する。しかしながら、そのように難しく比喩又は演繹しなくても「ハラスメント」が特定社会集団における人的事象ー即ち“歴史社会的事象”ーなのであるから、価値観・社会集団・TPO等により変化・変貌するのは論理必然ではないか?と私は思ってしまうのである。
余談ながら某アニメを利用したセンター試験の地理問題について、著者は「論争はどこかすれ違っている……私はこの意味で、両者は『すれ違っている』と述べた」(191・194頁)と展開しているが、私は右問題(論争)の本質につき著者の指摘(認識)は正鵠を射ていないと思う。本件は規範的又は具体的前提問題を争点としており、端的にはあの挿し絵(当該キャラクターを前面とする僅かな背景描画)から問題趣旨の地理の最適解を抽出させ、又は「バイキング」と言う世界史分野から妥当解を導かせることの、“地理”試験としての適正が問われたのであって、係る問題の上で(著者は言及していないが)某大学研究室等からのオフィシャルな指摘があったと観るべきだろう。
第3章等は私でも何とか理解できる部分もあって興味深く読めたが、個人的に疑問に思うところが多々あるのも否めない。“失当”の謗りを覚悟で敢えて指摘すると、著者は「構造論」やソクラテスを引き合いにしつつ「ハラスメントを含む社会的事実一般の不安定性」(28~32頁)、並びに「フレーム原理」から「ハラスメントの典型でもあることから他のハラスメントにも応用可能な一般的特徴」(38~48頁)等と自身の所論を展開する。しかしながら、そのように難しく比喩又は演繹しなくても「ハラスメント」が特定社会集団における人的事象ー即ち“歴史社会的事象”ーなのであるから、価値観・社会集団・TPO等により変化・変貌するのは論理必然ではないか?と私は思ってしまうのである。
余談ながら某アニメを利用したセンター試験の地理問題について、著者は「論争はどこかすれ違っている……私はこの意味で、両者は『すれ違っている』と述べた」(191・194頁)と展開しているが、私は右問題(論争)の本質につき著者の指摘(認識)は正鵠を射ていないと思う。本件は規範的又は具体的前提問題を争点としており、端的にはあの挿し絵(当該キャラクターを前面とする僅かな背景描画)から問題趣旨の地理の最適解を抽出させ、又は「バイキング」と言う世界史分野から妥当解を導かせることの、“地理”試験としての適正が問われたのであって、係る問題の上で(著者は言及していないが)某大学研究室等からのオフィシャルな指摘があったと観るべきだろう。
2019年10月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
基礎づけ、存在論といったことの意味をもっと平易に説明してほしい。