¥704 税込
ポイント: 12pt  (2%)  詳細はこちら
無料配送5月14日 火曜日にお届け
詳細を見る
または 最も早い配送 明日 5月13日にお届け(11 時間 10 分以内にご注文の場合)
詳細を見る
残り4点(入荷予定あり) 在庫状況について
¥704 () 選択したオプションを含めます。 最初の月の支払いと選択されたオプションが含まれています。 詳細
価格
小計
¥704
小計
初期支払いの内訳
レジで表示される配送料、配送日、注文合計 (税込)。
出荷元
Amazon.co.jp
出荷元
Amazon.co.jp
販売元
販売元
支払い方法
お客様情報を保護しています
お客様情報を保護しています
Amazonはお客様のセキュリティとプライバシーの保護に全力で取り組んでいます。Amazonの支払いセキュリティシステムは、送信中にお客様の情報を暗号化します。お客様のクレジットカード情報を出品者と共有することはありません。また、お客様の情報を他者に販売することはありません。 詳細はこちら
支払い方法
お客様情報を保護しています
Amazonはお客様のセキュリティとプライバシーの保護に全力で取り組んでいます。Amazonの支払いセキュリティシステムは、送信中にお客様の情報を暗号化します。お客様のクレジットカード情報を出品者と共有することはありません。また、お客様の情報を他者に販売することはありません。 詳細はこちら
Kindleアプリのロゴ画像

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません

ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。

携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。

KindleアプリをダウンロードするためのQRコード

何か問題が発生しました。後で再度リクエストしてください。

土左日記 (岩波文庫 黄 13-1) 文庫 – 1979/4/16

3.8 5つ星のうち3.8 144個の評価

{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥704","priceAmount":704.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"704","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"Zjz%2BH4DTqKot60GnbTqwC6PEFjvrKFJxjxYv1A3RFR1ssDAS4nG1qW8W4JSLbyL36P9gbEBUqwM84DWrgWo9g0Q06Zgc%2F4ccqdpeEysxjU2oyhCHlHIeGr37S1YwzcoH","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}]}

購入オプションとあわせ買い

よく一緒に購入されている商品

¥704
最短で5月14日 火曜日のお届け予定です
残り4点(入荷予定あり)
この商品は、Amazon.co.jpが販売および発送します。
+
¥1,210
最短で5月14日 火曜日のお届け予定です
在庫あり。
この商品は、Amazon.co.jpが販売および発送します。
+
¥1,155
最短で5月14日 火曜日のお届け予定です
残り14点(入荷予定あり)
この商品は、Amazon.co.jpが販売および発送します。
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計: pt
詳細
追加されました
これらの商品のうちのいくつかが他の商品より先に発送されます。
一緒に購入する商品を選択してください。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 岩波書店 (1979/4/16)
  • 発売日 ‏ : ‎ 1979/4/16
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 169ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4003001311
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003001318
  • カスタマーレビュー:
    3.8 5つ星のうち3.8 144個の評価

著者について

著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
紀 貫之
Brief content visible, double tap to read full content.
Full content visible, double tap to read brief content.

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう

カスタマーレビュー

星5つ中3.8つ
5つのうち3.8つ
144グローバルレーティング

この商品をレビュー

他のお客様にも意見を伝えましょう
古典は若い時に…
4 星
古典は若い時に…
孫が、現在中学3年生。同じ年、敗戦を迎え、今、古典は、若い時に読んでおくべきだったとしみじみ思っています。
フィードバックをお寄せいただきありがとうございます
申し訳ありませんが、エラーが発生しました
申し訳ありませんが、レビューを読み込めませんでした

上位レビュー、対象国: 日本

2024年1月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
やはり古文は難しい。
2021年11月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
『土左日記』は、最古の日記文学で、土佐国の国司(土佐守)だった紀貫之が、その任期を終えて、土佐国府(高知県南国市)の館から平安京の自邸へ帰るまでの旅(ほとんどが船の旅)を記録したもの。旅の期間は、934年12月21日から935年2月16日までの55日間だった。貫之が編纂に関わった『古今和歌集』(905年)の完成から約30年後のことで、当時、彼は70歳に近い高齢だった。『延喜式』の国力の区分でいえば、大国・上国・中国・下国のうち、土佐国は中国だったが、下級官僚だった貫之にとって、土佐守への任官はやっと巡ってきた栄達だった。

本文庫版は、底本を青谿書屋本(藤原為家自筆本系統)とし、やや大きめのフォントの本文に、脚注・補注、貫之略年譜、旅程図などが付されているが、現代語訳は付されていない。当然のことながら、本書の注釈や解説は、文学的な分野に力点が置かれており、地理的・交通史的な分野に詳しくないので、以下、蛇足的なことを補足したい。

本書のタイトルは、「土佐日記」ではなく、「土左日記」とあるが、その根拠は、「信ずべき古写本の外題や奥書には、いずれも「土左日記」とあるので、古くは「土左」の文字があてられていたものと思われる」(「解説」)というもの。貫之は「土左」が正式な表記と考えていたのだろうが、歴史的に、『続日本紀』以降の国史や『延喜式』などでは、土佐と土左が混用されてきた。また、地名の有力語源説では、トサとは、高知市の浦戸湾の間口の狭い水面に由来するト(戸・門)・サ(狭)の意と解釈されるから、土佐・土左のいずれも当て字にすぎない。浦戸湾に類似したトサ地形では、青森県の十三湊(とさみなと)が知られている。『土左日記』では、一行の船が土佐の泊(とまり)(徳島県鳴門市)に寄港する場面があり、「土佐国と同じ名前だ」と関心を示しているが、同地は、四国本土と島の間の狭い海峡で、トサと呼ぶにふさわしい地形となっている。

さて、『土左日記』には、旅の出来事が一日刻みの時系列で記録されている。平安貴族は、陰陽寮が毎年頒布する暦(具注暦)の余白や裏面に日々の出来事を漢文でメモするのが慣例だったから、平安京に戻った貫之が、その漢文のメモに基づき、仮名文の回想録に仕立てたと推定されている。具注歴は、その性質上、年中行事の基本ともなるから、おそらく、土佐守だった時の公務も記録されていたはずだ。けれど、『土左日記』は、任期満了時の帰京への旅立ちから始まるから、貫之は、意識的に、自分の在職中の仕事ぶりを公開しなかったようだ。国司の主な任務は、任国での徴税事務だったが、当時、任国内の田数に応じた一定額の税を朝廷に納入すれば、それ以外の税を着服し、私腹を肥やすことが容易に可能だった。そのため、国司の交替時には、前任者と後任者との間で決算を巡る争いが多発し、後任者が発給する解由状(引継文書)が120日以内に得られない場合、前任者は、平安京に帰ることが朝廷から禁止され、次の官職にも就けなかった。

『土左日記』の場合、冒頭の有名な「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとて」の一節に続いて、「例の事どもみなしをへて、解由などとりて……」(現代語訳:所定の事務引継がすべて終わり、解由状なども受取って……)とあるから、国司の引継事務は、スムーズに完了したようだ。地元の人々との別れの描写では、前任の土佐守(以下、「貫之」で一括する)がかなり慕われていたから、当時の読者は、この冒頭部分を読むだけで、「貫之という人は、土佐国で善政を敷いたのだな」と解釈したことだろう(一説によれば、貫之は、再就職のために、この部分で自分の清廉潔白さをアピールしているらしい)。だから、任国での蓄財の世相を象徴するかのように、『土左日記』の末尾に近い2月16日、貫之は、淀川沿いの山崎(京都府大山崎町)で地元の人から歓迎されているが、本人は、「立ちて行きしときよりは、来るときぞ人はとかくありける。」(現代語訳:(任国へ)出向いた時より、(任国から帰って)来る時のほうが、人はあれこれ好意を寄せるものだ。)という冷めた感想を述べている。

『土左日記』の帰京ルートは、土佐国の大津(高知市)で乗船し、浦戸湾から外洋に出ると、沿岸を東進し、室戸岬を回って、阿波国(徳島県)沖を北上し、鳴門から淡路島(兵庫県)を経由し、泉州(大阪府)に渡り、石津・住吉・難波と大阪湾を北上し、さらに淀川を船で遡上すると、京の山崎で上陸し、その後は、牛車に乗って入京するというもの。

これを律令制の官道で帰京する場合は、『延喜式』の南海道の駅路によれば、土佐国府から陸路で北へ向かい、四国山地を山越えし、伊予国(愛媛県)から讃岐国(香川県)へと東進し、阿波国(徳島県)から海路に出ると、淡路島を経由し、紀伊国(和歌山県)に上陸し、あとは和泉国・河内国・摂津国の陸路をひたすら北進するルートになる。つまり、貫之は、南海道の駅路をほとんど通っていない。一行は、京の山崎に到着した後、牛車を取り寄せているが、各地の橋が未整備だった当時、牛車での川越えの面倒などを考慮すると、海路をひと足で帰京するほうが遥かに合理的だっただろう。

しかし、『土左日記』の船旅が前後を含めて55日もかかった事実は、それがいかに天候まかせの危険な航海だったかを物語っている。同時代の漢学者・三善清行が政治上の見解を述べた『意見封事十二箇条』(914年)によれば、瀬戸内海の播磨灘(兵庫県)の航行は、「冬の風がはげしく、星が見えない暗夜には、船首と船尾の前後もわからず、浜岸の遠近も見分けられない。…このため、毎年、転覆する舟は百艘を越え、死者も千人にとどまらない。」という悲惨な状況にあった。海難の大きな要因は、各地の荘園から平安京まで年貢を輸送する時期が、近海の比較的穏やかな春や夏ではなく、荒れやすい冬季だったことによるが、『土左日記』の船旅もまさに冬季だった。この船旅では、「ふね疾(と)く漕げ。日のよきに。」「ゆくりなく風ふきて、漕げども漕げども、…」といった、「漕ぐ」という表現が繰り返し出てくる。当時の船の構造は、技術的に正確な資料(絵巻物など)が乏しく、その実態が解明されていないが、大型船(100石から150石程度)といえども船幅が狭く、帆柱が1本で、順風(追い風)であれば帆走できるが、それ以外では、帆を倒しておき、6人から8人の舟子(水手=かこ)が船尾近くの右舷・左舷に分かれて、櫓(ろ)で漕いでいく方式だった。しかも驚くべきことには、『土左日記』の一行の船が天候に恵まれて帆走ができたのは、たったの1日だった。その日、1月26日だけは、「風のよければ、楫取いたく誇りて、舟に帆上げなど喜ぶ。」(現代語訳:風の具合がよいので、船頭はひどく意気揚々として、船に帆を上げるなどして喜んでいる。)と、順風時の帆走のようすが記録されている。

また、一行の人々は、海賊の来襲を非常に恐れているが、これは杞憂ではなく、実情を知る者の当然の心配事だった。この船旅の2年前(932年)、朝廷は、瀬戸内海などで海賊による略奪や殺人が目にあまるため、追捕海賊使(ついぶかいぞくし)という取締官を初めて設置していて、936年には、貫之と同族の伊予守・紀淑人(きのよしと)が海賊鎮圧の功績を挙げている。『土左日記』の船旅は、そういう時代と海域での船旅だった。以下に、この船旅のエピソードを要約して掲げてみる(文末の括弧内はレビュアーのコメント)。

・12月21日。午後8時頃、土佐国府(高知県南国市)の館から一行が門出した。(時刻がいかにも変だが、この日が吉日だったので、形式的な門出を儀式で行っただけらしい)
・12月22日。和泉国までの旅の安全を神仏に祈願した。(なぜか「平安京までの」でなく、「和泉国までの」とある。後日(1月30日)の感想として、「いまは和泉の国に来ぬれば、海賊ものならず。」(現代語訳:いまは和泉の国に来たから、海賊などものの数ではない。)とあるから、畿内の和泉国に入れば「もう故郷に帰った」という感覚だったか)
・12月25日。22日からこの日まで、毎日、貫之と後任の国司が国府の官舎で宴会に興じた。
・12月27日。大津(高知市)から乗船した。だが、鹿児の崎(高知市)で船から降りて、磯辺で酒宴。(やっとこの日、旅立ったはずが、またしても寄り道する)

・1月1日。新年を迎えたが、12月28日から、大湊(香南市。高知市の東隣)に停泊中。国府の関係者がご馳走や酒を届けてくれるので、この日も宴会。(本格的な船旅に出るのを延期していたのは、海上で元日を迎えるのを避けたかったせいか)
・1月8日。この日まで、「風が吹くから船出できない」「都合の悪いことがあった」などといって、大湊に停泊。
・1月9日。早朝、大湊から船出した。多くの人々が見送りに来た。この日は、夜が更けても航海が続き、一行は男も女も心細かったが、船頭や水手は、滑稽な舟唄を歌い、笑い合った。(この日、ついに本格的な船出をした)
・1月12日。室津(室戸市)に到着。
・1月13日。この日も室津に停泊。一行の女たちは、海辺で水浴びをした。海神の祟りを恐れて、女たちは、濃い紅の衣の着用を船中で避けていた。
・1月21日。この日まで、悪天候で室津に停泊していた。皆、ため息をつき、日数を指折り数えていた。午前6時頃、室津を出港した。
・1月23日。(位置不詳)付近に海賊が出るというので、神仏に祈った。
・1月25日。海が荒れており、前日から同じ場所に停泊。海賊が追ってくるという噂が絶えず耳に入った。
・1月26日。海賊が追ってくるというので、夜中に出航した。
・1月27日。(位置不詳)一日中、風が吹き、波が荒いので、出航できなかった。
・1月28日。雨が夜通し止まず、朝になっても止まなかった。
・1月29日。日が照っているので、出航した。土佐の泊(徳島県鳴門市)に到着。
・1月30日。海賊は夜間に横行しないと聞いて、夜中に出航し、阿波の水門(鳴門海峡)を渡った。暗くてあたりの見分けがつかず、男も女も懸命に神仏に祈った。明け方、沼島(南あわじ市の小島)を過ぎて、田奈川(大阪府岬町)から和泉国の灘(所在不明)に至った。神仏の恵みのせいか、この日は、海上に波がなかった。

・2月1日。雨が昼頃に止んだので、和泉国の灘から出航した。昨日と同様に、風も波もなかった。黒崎の松原(大阪府岬町)を通過し、箱の浦(阪南市)では、浜辺から引き綱で船を曳いてもらった。
・2月2日。(位置不詳)風雨が止まないので、一日中、神仏に祈願した。
・2月3日。この日も雨風が止まず、出航できなかった。
・2月4日。船頭が「きょうは風雲のようすが非常に悪い」といって、船を出さなかった。
・2月5日。和泉の灘から小津の泊(泉北郡?)に向かい、石津(堺市)、住吉(大阪市)を通過した。住吉明神の沖で、突風が吹き出し、転覆しそうになった。船頭に請われて、鏡を海に投げ込むと、急に風が凪いだ。
・2月6日。みおつくし付近から難波(大阪市)に到着し、さらに川口から淀川に入った。一行は皆、「都が近くなった」と喜んだ。
・2月7日。川水が涸れていて、淀川を漕ぎ上るのに難渋した。
・2月8日。この日も難渋し、鳥飼の御牧(摂津市)のほとりに泊った。
・2月9日。夜明け前から、船を曳(ひ)いてもらって、淀川をのぼった。渚の院(枚方市)を通過し、この日は、鵜殿(高槻市)に泊った。(前日までは、水手が櫓で漕いで上ったが、この日は、原文に「船をひきつゝ上れども」「かくて船ひき上るに」とあり、岸から人や馬に綱で船を引っ張ってもらう「曳き船」方式に変えたらしい。)
・2月10日。支障があって、淀川を遡れなかった。(支障とは物忌みらしい)
・2月11日。棹をさして淀川を上っていくと、石清水八幡宮(京都府八幡市)が見えた。山崎の橋(京都府大山崎町)を見て、非常に嬉しかった。この日は、橋のたもとに船を停泊させた。(原文に「かくてさしのぼるに」とあって、「漕ぐ」や「曳く」ではなく、棹を「さす」方式に替わっている。棹の先が届くほど、付近の川底が浅かったのだろう。また、国土地理院の現在の地図によれば、大山崎町役場の標高はわずか11mで、付近の淀川の標高も10mに満たないから、本来、山崎の橋までの淀川遡行は易しかったようだ。なお、現在の京都御所(京都市上京区)となると、標高51mにもなり、その東側の鴨川も40mを超える)
・2月13日。依然として、山崎に停泊中。
・2月15日。京から牛車が届いた。窮屈な船から出て、ある人の家に泊まった。
・2月16日。人目を避けるため、夕方、山崎から陸路で平安京へ向かった。月夜の桂川を越えて、京の自邸(京都市)に到着。あしかけ6年の不在の間に、家は荒れ果てていた。

ところで、『土左日記』の筆者が女性に仮託されたのは、貫之が、土佐国で亡くなった自分の娘への追慕の情を仮名文特有の繊細さで表現したかったから、という説が有力だ。ここで素人の想像を述べさせてもらえば、『土左日記』の船旅では、楫取(船頭)が航海責任者で、貫之は船君(乗船客)という受け身の立場に終始し、海賊に怯えて、神仏に祈願する自分の姿は、再就職のことを考慮すると、あまり格好のよいものではなかった。加えて、『土左日記』の執筆時期も関係するが、前述のとおり、貫之が平安京に戻った翌年、土佐国の隣の伊予国(愛媛県)で、同族の紀淑人が海賊対策に成功しているから、両者の実務能力が比較されやすい状況にあった。以上のことから、貫之は、自分を連想させる国司を筆者や主人公として設定したくなかったのではないか。しかし、女性への仮託もやや中途半端で、本文中に、「昔の子の母、悲しきに耐へずして(現代語訳:亡き娘の母は、悲しさに耐えかねて)」(2月9日)などと、女性筆者と娘の母が別人格のように描写されるため、この女性筆者は、娘への追慕の情に一定の距離を置いており、船旅の場面にも登場しないナレーターのような不思議な存在となった。さて、『土左日記』は、冒頭の「をとこもすなる日記といふものを…」と対をなすかのように、日記の結末も、次のような意表を突く言葉で締めくくられる。

・「忘れがたく、口惜しきこと多かれど、え尽くさず。とまれかうまれ、疾(と)く破りてむ。」(現代語訳:忘れられず、心残りが多いが、書きつくせない。何はともあれ、(この日記は)早く破り捨ててしまおう。)

なぜ、貫之は、「疾く破りてむ」などと見えすいたフィクションを書いたのだろう。結果的に、破り捨てられなかったからこそ、『土左日記』は、読者の目の前にあるのだから。
7人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2015年11月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この土佐日記は、原文のまま、現代語訳されていないタイプのものです。
明治文学ばかりダウンロードしていたので気づきませんでしたが、この表紙で0円のものは現代語訳していないんでしょうね。だからタダだったのか。
古文が苦手な私にはさっぱり読めませんでした。
古文が苦手な人はまず読めません。諦めて、600円くらいの現代語訳版を購入しましょう。
作品としては好きなので、星3の普通にしておきます。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2023年7月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中古本とは思えない綺麗な本が届きました。すぐに読んでみたくなりました。
2016年4月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
冒頭が有名ですが、1時間で読めそうな短編紀行文です。
和歌のやり取りと日にちと場所の連続で、ン~あまり面白いものではないです。
習慣・風俗などの描写より歌が中心でした。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2020年9月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
船長は紀貫之の言うことも聞かないほど船では偉かったんだなあー。
遣唐使の舟の場合も同じだった様だけど、卦で航海していたなんて無謀だなー
淀川を舟で遡ったなんて不思議
土佐の海を妄想しています。
色々昔の船旅を連想するのには楽しい本です。
2020年9月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
初めて読みましたが、この量でしたらこのほかの書籍とセット販売されたらと思いました。
2016年5月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
たわいもない旅の様子を綴ったもの、名作ということが理解できない。私に、文学作品が理解できないのかも。