私が入手した本の帯は、端的に述べている様に思う。
「仏教を覆う観念的な教理や禅にまつわりつく神秘主義は歴史の垢に過ぎない。垢をこそぎ落としたとき現れるラディカルな行動の思想を、ダライ・ラマと並び称される世界的仏教指導者が語る。
伝統宗教や社会制度への反逆として生まれた仏教が伝統宗教となり、儀式化・権威化した現実。
本書は、日本には知られていないヴェトナム禅宗の挿話をちりばめて、空や唯識など難解な仏教思想や禅の公案を明快に解説しつつも、さらに歴史の錆に覆われた仏教の本当の輝きを示して、宗教的に破産し精神の危機にある東洋と西洋に、新しい価値の樹立を呼びかける」と。
ハン師は日本では知名度が低い様なので少し記します(私の知人で師の事を知っていたのは、20人に1人くらいだった)。
1926年生れ。若い時に欧米的教育も自らすすんで受け(その為に一度破門されたらしい)、僧院での修行もして深い悟りと高度な仏教の見識も得た。
渡米して比較宗教学を学び、64年母国ベトナムに戻って社会福祉青年学校、ヴァン・ハン仏教大学、インタービーイング(相互依存)教団を設立。
コロンビア大学、ソルボンヌ大学でも教鞭をとった。
師が稀有なのは・・真理への理解・学識、個人の目覚めや教化に留まらず、自ら最も過酷な現場の真っただ中に身を投じた事である。
ベトナム戦争中は、「エンゲージド・ブッディズム」(行動する仏教)の指導者となり、被災民・難民の救済に尽くす。
「エンゲージド・ブッディズム」とは、「自分の内外(自身も、社会も)をはっきりと認識して関与する仏教」、を意味する様である。
被災民救援の際には被災民たちと共に戦禍に巻き込まれたばかりか、南北両ベトナムの和解を図る為に仲介等の努力をする中で、双方と接触した為に両方からスパイと疑われ迫害・攻撃まで受けた。
66年渡米し、率直な和平提案によって、ベトナムへ帰国不能となる。(翌年、キング牧師にノーベル平和賞に推薦される。)
72年にはパリ和平会談に仏教団代表として参加した。
そんな過酷な体験と状況の中で、このすばらしい啓発書を71年に世に出すとは驚きである。(それまでの仏教大学の講義録がもとになっているのだろうか・・?)
現在はフランスで仏教者の共同体「プラム・ビレッジ」をつくり、亡命生活を送っている。ベトナムの社会主義体制が、仏教の巨星を怖れて帰国拒否をしているのかもしれない。
フランスをはじめ、ハン師が創設したインタービーイング教団は、仏教の革新・現代化を実践している集まりであるようだが、世界で少しずつ広まり始め、日本でもいくつかの支部があるようだ。「プラム・ビレッジ」での実際は、近著『ブッダ 幸せの瞑想』という著書で紹介されている。
他にも多くの書物を書き、講演をし、啓発に努めておられる。
学識・論理性・悟りの深さのみでなく、『最も過酷な現場でも信じる事を実行し続けた、その慈愛と行動力』はおおかたの仏教者のイメージを大きく変えた。
被災民・難民の救済の為に南北両陣営への働きかけ、戦争終結の為のアメリカでの交渉、帰国困難となった後にベトナムの為政者とも和解に努められた、等々、人々の救済の為にむしろ積極的に社会、為政者に関わり現場で行動する。
ハン師は、現代に生きる本物の仏教指導者、救済者だろう。
ハン師はベトナム禅僧であるのだが、私は、禅宗は宗教というよりむしろ哲学や洞察、実践の修業なのではないかと この頃思う。
なので、ハン師の行動は、宗教が政治を支配したり、政治を管理する事にはあたらないのだろう と思う。
師は、別の著書「ビーイング・ピース」で、「生きとし生けるものを、慈愛の目で見る事を学びなさい」という「すぐれた教えの白い蓮の花の経」(妙法蓮華経)中の言葉に触れておられる。
これは中国語では「慈」「眼」「視」「衆」「生」の5文字で表され、ハン師は若い時「その5文字に行きあたった時 絶句した」という。「この5文字が、自らの全人生を導くに足るものである事を直感して。」
その気持ち・志をずっと持続するのは大変な事だと思う・・のみではなく、深化させ、実行すると共に世界に発信している。筋金入りの平和活動家である。
その核にあるのは、「知行合一」という事なのだろうか? 「仏教は救済である」という事なのだろうか?
仏教は「解脱」なのか「救済」なのか、という議論を聞いた事がある。
単純で浅学な私見では、「解脱」は、釈迦誕生当時の世の中で可能な「心の平安」を得る「方法」だったのではないかと思う。
個々人の心の平安、人と人との集まりである集団の平安を。何の為に心の平安を得る道を説いたかというと、出来うる限り人々の不幸を減らし、幸せを増やす為ではないのだろうか?
ベトナムの人々は、清く正しく慎ましく、信心深く暮らしていたのだろう。
そこに、個人の力ではどうしようも無い、個人の修行や暮らしぶりだけでは如何ともし難い 戦争の災禍が降り掛かった。
それは明らかに人災である。双方の理解や妥協で解決しうる可能性がある。
そこで相互理解を求めて、ハン師たちは懸命に活動した。人々の苦を減らす為に・・ と私は思う。
ムハマド・ユヌス氏(ノーベル平和賞)は、経済学の権威・学界のリーダーである事でよしとせず、地域社会そのもので それまでに培った知識を駆使し・更に現場で学びつつソーシャルビジネスを打ち立てた。ハン師とユヌス氏には似た「魂」を感じる。
著者の人物から、本書の内容に移る。
・・禅の悟りを、言葉で説明したり伝えたりする事はとても難しい様である・・歴代の優れた禅匠でも。
(だから、不立文字、教外別伝、直指人心などというのだろう。)
公案では、師匠が弟子の進歩を把握しつつ、一言二言で「悟り」に導く事がある様を記している。
それは言葉に限らず、「喝!」であったり、蹴り飛ばす事であったりさえする と。
タイミングを逃さず、いわゆる ソク啄の機を捉えて、師匠が弟子の悟りへの背中を押す・・
著者はしかしまた、「大乗起信論」の中の言葉「巧みに随順する事」を「真実に到達する為に、言葉や概念の真っ只中に道を切り開く」と解釈しているし、「言葉や概念に欺かれることなしに、それらを用いる事は可能です。実際のところ、言葉や概念はとても有用なものであり、無くてはならないものでもあるのです」とも記している。
例えば、「仏に会えば仏を殺し、祖師に会えば祖師を殺す」とは
・・我々は、知識や習慣、常識(という刷り込みや固定観念、偏見)に染まっている。
例えば何かが絶対の真理であると信じて固執している人は、その後に、実は本当の真理と出会っても耳を貸さない。
染まっている事を自覚し、染めているものや権威、概念から自分を解放しなければならない。「殺す」のはそれらの事である。
心の戸を開く事が出来なければならない。師もまた弟子の努力を助けてやらねばならない。
それと共に、論理や理性で到達できる限界、も述べている。
理知で理解できるところも、その限界も、欧米流合理精神をおさえているハン師が書いているので、分かりやすい。
真に本質を捉えている人は、分かり易く説明できるものだと思う。
エンゲージド・ブッディズムの禅匠らしく、社会と禅、についても記している。
僧院での生活のみならず、在家修行者も尊重しており、現代生活における歪みと禅・仏教、将来の展望についても少しずつ触れている。
(個人的には、その辺りはもう少し頁をさいて欲しかった気がする・・別の著書にあるのかもしれないが)
・・私見では、生きとし生けるものにある仏性(日本古来の考えでは「神性」、と言ってもよいと思う)、というものは、
「生命のしくみそのもの、又はそれに備わっているもの」ではないかと思っている。
それは現代科学(「困難は分割せよ」のデカルトの延長線上である欧米科学文明)が、延々と、
細胞と細胞活動を「物質と反応」として分析しても解明できるかどうか分からない。脳科学や人類学、心理学・行動科学が解明できるのか、分からない。
最後は直感や洞察、体感‥なのかもしれない。
視点を転じてみると、ジル・ボルト・テイラー(脳科学者)は自身の脳出血を体験し、TEDの動画が1千数百万回再生されている様に、左脳(言語・理論・識別など)でなく左脳以外の「右脳的な(イメージのコラージュを受け取る)領域」によって涅槃(極楽)を体感できた、と語る。
また、北米で長期のベストセラーである著者、エックハルト・トールは、欧米の著名な精神的啓発者であり(彼は仏教徒ではないが)、「いま・ここ」に意識をしっかり集中する事が、苦しみから逃れる鍵であると説いている。彼は悩みに悩みぬいて、天啓を得た。
それはハン師が語る「マインドフルネス」とほぼ同じであろう。(それはハン師の後の著書、ビーイング・ピースでも簡明に述べられている)
また、「思考は道具である。我々自身ではない。」「我々自身は、もっと深い処にあり、全てのものとつながっている」とも説く。
「物事を認識する際の『概念』は『方便』である。概念や知識に囚われてはいけない。理論のみでは悟りに届かない。1枚の紙に世界・宇宙の全て(が繋がっている事)が見える」と説くハン師や禅の考えと通じる。
(概念・刷り込みや心理的条件反射『プログラミング』の分析や書き換えは、実践心理学であるNLP(神経言語プログラミング)とも重なる)
「悟り」は、天啓であったり、ヒラメキであるのだろうか? 悩み、求め続けていた者に、ある時、閃きや天啓が降ってくる。
知識の蓄積・理論の構築ではなく、閃き・天啓・「腑に落ちる」という体感(いわゆる、「腑に落ちる」「体得する」)というものなのかも知れない。
そしてその「悟り」を深めたり、体現して行けるように、修行というものを続けるのかもしれない。
ハン師は、西洋にもその文化に根付いた、「東洋の真似事でない禅」を期待しているが、
もしそれが育たなかった場合、トール氏のような洞察(?哲学?)はそれに替わりうるのだろうか?‥
本書は出色だが、更に平明にメッセージを受け取ろうと思われるなら、「ビーイング・ピース」(文庫本)を先に読まれる方がいいかもしれない。
それは、後年のアメリカ講演や質疑応答をまとめたものなので、著者の考えも進んで円熟しているのと相まって分かり易い。
かつ、とても生き生きとした美しい本である。
それに云うには「‥おわかりのように、ダルマカーヤ(教えの身)の意味は、きわめて簡単です。大乗仏教の人々は、それをとても複雑なものにしましたが、教えの身とは、ただ、目覚めた人の教えを意味するだけです。理解と愛を実現する道を意味するだけです。ところが、後世になって、これが、存在の哲学的基礎を意味するようになりました」等と語る様に、やさしく説かれている。
蛇足だが、本書を英語版から邦訳された藤田一照師は安泰寺OBであり、その後輩にはネルケ無方氏や、先達には澤木興道老師・内山興正師などの禅匠がおられる。
本書のフィリップ・カプロー氏(日本で長年禅匠について修行し、アメリカで禅院を開いた)の序文も名文である。
序文を見ただけでも本書のレベルの高さを感じた。
その中には、白隠禅師の言葉「動中の工夫は静中に勝ること百千万億倍す」(他の活動をやめて一人で静かに坐禅の修業をするよりも、世俗の真っ只中でする修行の方が、より大きな意味がある)を引き、狭い意味での修行でなくとも、自分の日々の仕事、自分に与えられた課題を成し遂げる事が他ならぬ修行そのものとなる、とも述べている。
僧や、道を説く方には戒め、在家のものには励ましになる言葉かもしれない。
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禅への鍵 〈新装版〉 単行本(ソフトカバー) – 2011/4/5
ティク・ナット・ハン
(著),
藤田 一照
(翻訳)
なぜ坐禅するのか? 禅問答の意味は? 公案とは何か? 禅に興味を持つ人が知りたい疑問に著者が明快な論理で答える。祖師の問答を解説し、仏教思想の流れを平易に説明しながら、観念的な教理や神秘思想といった歴史の垢をそぎ落としたときに現れる、仏陀の直系としての禅のラディカルな行動の思想を明らかにする。日本では知られていないヴェトナム禅の公案集「課虚」の邦訳を付す。
- 本の長さ203ページ
- 言語日本語
- 出版社春秋社
- 発売日2011/4/5
- 寸法13 x 1.9 x 19 cm
- ISBN-104393333071
- ISBN-13978-4393333075
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商品の説明
著者について
Thich Nhat Hanh(ティク・ナット・ハン)
1926年、ベトナム生まれ。10代で出家し禅僧となる。ベトナムで社会福祉生年学校、ヴァン・ハン仏教大学、ティエプ・ヒエン教団を設立。激化するベトナム戦争のさなか、中立の立場から平和と停戦を訴え、戦争被害者救済に尽力するが、北からも南からも敵視・迫害され、1966年にはフランスに亡命を余儀なくされる。1973年のパリ平和会議には宗教者代表として出席。以降、〈行動する仏教〉をモットーに、難民救済活動に尽力し、仏教の布教と平和活動をつづける世界的仏教者。
藤田 一照 ふじた いっしょう
1949年、愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。曹洞宗紫竹安泰寺で得度し、1987年からアメリカ・マサチューセッツ州のヴァレー禅堂住持を務め、そのかたわら近隣の大学や瞑想センターで禅の指導を行う。現在は神奈川県在住。著書に『新こころのシルクロード』(共著)、訳書にティク・ナット・ハン『禅への鍵』、D・ブレイジャー『フィーリング・ブッダ』など多数。
1926年、ベトナム生まれ。10代で出家し禅僧となる。ベトナムで社会福祉生年学校、ヴァン・ハン仏教大学、ティエプ・ヒエン教団を設立。激化するベトナム戦争のさなか、中立の立場から平和と停戦を訴え、戦争被害者救済に尽力するが、北からも南からも敵視・迫害され、1966年にはフランスに亡命を余儀なくされる。1973年のパリ平和会議には宗教者代表として出席。以降、〈行動する仏教〉をモットーに、難民救済活動に尽力し、仏教の布教と平和活動をつづける世界的仏教者。
藤田 一照 ふじた いっしょう
1949年、愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。曹洞宗紫竹安泰寺で得度し、1987年からアメリカ・マサチューセッツ州のヴァレー禅堂住持を務め、そのかたわら近隣の大学や瞑想センターで禅の指導を行う。現在は神奈川県在住。著書に『新こころのシルクロード』(共著)、訳書にティク・ナット・ハン『禅への鍵』、D・ブレイジャー『フィーリング・ブッダ』など多数。
登録情報
- 出版社 : 春秋社 (2011/4/5)
- 発売日 : 2011/4/5
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 203ページ
- ISBN-10 : 4393333071
- ISBN-13 : 978-4393333075
- 寸法 : 13 x 1.9 x 19 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 524,854位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3,940位仏教 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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ティク・ナット・ハン禅師は世界的な精神的指導者、詩人、平和活動家。
マインドフルネス、世界倫理そして平和におけるその先駆的教えにより世界中から尊敬を受けています。ティク・ナット・ハンには英語での著作が100冊以上あり、その中には古典的名著の「気づきの奇跡」「微笑みを生きる」などがあります。彼は教育、ビジネス、科学技術そして環境危機といった社会のあらゆる領域に仏教の英知を応用してきました。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2013年11月2日に日本でレビュー済み
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2016年11月22日に日本でレビュー済み
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仏教解説書は読んでみても書いてあることは理解できるが、じつはよく分からないという経験が多いものです。
教典自体、もともとインドの言葉で記してあったものを漢訳し、それが日本に伝わっていますので、なじみのある言葉もあります。
これは歴史的にも仏教と無縁の欧米人へ向けて著された本を邦訳したものですから、基本的な知識がない人が理解できるように表現されています。
それが、簡易でありながら本質を突いた説明になっており、分かったつもりの仏教が一段と深く理解できるような手助けになります。
仏教諸宗派には、念仏で来世に期待するもの、呪術による現世利益のものなど、それぞれがまったく別々の宗教のようにも見えます。
禅宗は坐禅のみならず日常の生活を丁寧に行うことで精神の安定をもたらし、しかもそれが欧米で医学分野からの検証にも耐えるという知見があります。
また、禅宗への理解を深めるとそこから派生してきた茶ノ湯などの行動の美学の背景が分かります。
さらに手仕事を厭わない日本の文化、「おもてなし」の本質的な意味合いなど、単に仏教の解説にとどまらずに理解の裾野が広がっていくことでしょう。
教典自体、もともとインドの言葉で記してあったものを漢訳し、それが日本に伝わっていますので、なじみのある言葉もあります。
これは歴史的にも仏教と無縁の欧米人へ向けて著された本を邦訳したものですから、基本的な知識がない人が理解できるように表現されています。
それが、簡易でありながら本質を突いた説明になっており、分かったつもりの仏教が一段と深く理解できるような手助けになります。
仏教諸宗派には、念仏で来世に期待するもの、呪術による現世利益のものなど、それぞれがまったく別々の宗教のようにも見えます。
禅宗は坐禅のみならず日常の生活を丁寧に行うことで精神の安定をもたらし、しかもそれが欧米で医学分野からの検証にも耐えるという知見があります。
また、禅宗への理解を深めるとそこから派生してきた茶ノ湯などの行動の美学の背景が分かります。
さらに手仕事を厭わない日本の文化、「おもてなし」の本質的な意味合いなど、単に仏教の解説にとどまらずに理解の裾野が広がっていくことでしょう。
2015年3月3日に日本でレビュー済み
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ベトナム禅の老師。
鈴木大拙、ダライ・ラマと並び称される老師。
老師の言葉は、いたるところにささくれ立った心の波を消すばかりか、
鏡のように凪ぎ、本来太古より静かな威厳に満ちていることを気づかせてくれる。
ふつう禅では、本質はとうてい言葉にはならないと教えるのだが、
師は鈴木大拙と同様に必ずしも言葉を嫌わない。
適度に禅の古典を引きつつ、適度に現代語による説明を試みるのだ。
うまい。やさしい。
私は、ページをめくってゆく中で、軽く炙った身に能登の黒塩を少々振りかけて食したノドグロ、
30代・優香(タレント)の胸元、円空の柿本人麻呂像、フェリーニのアマルコルド、
ファラオ・サンダースのSoledadなどを思い出した。
むろん、直観だ。
鈴木大拙、ダライ・ラマと並び称される老師。
老師の言葉は、いたるところにささくれ立った心の波を消すばかりか、
鏡のように凪ぎ、本来太古より静かな威厳に満ちていることを気づかせてくれる。
ふつう禅では、本質はとうてい言葉にはならないと教えるのだが、
師は鈴木大拙と同様に必ずしも言葉を嫌わない。
適度に禅の古典を引きつつ、適度に現代語による説明を試みるのだ。
うまい。やさしい。
私は、ページをめくってゆく中で、軽く炙った身に能登の黒塩を少々振りかけて食したノドグロ、
30代・優香(タレント)の胸元、円空の柿本人麻呂像、フェリーニのアマルコルド、
ファラオ・サンダースのSoledadなどを思い出した。
むろん、直観だ。
2017年4月8日に日本でレビュー済み
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こういうことを言うひとはあまりいないだろうから、あえて言う。
本文デザインが酷い。なんだあの見出しは、あのトビラは。
こんなデザインなら、むしろないほうがいい。
装丁はいいと思う。だからなおさら、本文のひどさが目立つ。
本文デザインが酷い。なんだあの見出しは、あのトビラは。
こんなデザインなら、むしろないほうがいい。
装丁はいいと思う。だからなおさら、本文のひどさが目立つ。
2013年4月17日に日本でレビュー済み
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悟りに至る禅の、ごく麓に足を踏み入れたものにとって、大悟されておられる境地から説かれるハン老師の語り口は愛にあふれ、心底から温かくやさしい。この本で、少しでも前に進めたと実感する。「正法眼蔵」は難解でなかなか消化できないが、底流にある道元の愛だけは感じている。ハン老師に正法眼蔵を訳していただけたら、どんなに多くの人に禅の神髄が伝わることだろうと夢想している。ともかく、これはすごい本だ。
2019年2月12日に日本でレビュー済み
私の狭い知識による先入観からベトナムは上座部仏教が盛んであるとばかり思い込んでいた。また、禅というのは、瞑想だけかと思っていたところ、そうではなくて、「気付き」てをあるとの教えは、とても実践的である。
2012年6月16日に日本でレビュー済み
仏教とは何か?という問いが自分なりに腑に落ちました。
犬に仏性はあるかなしか との公案に対し、趙州は
ある とも言い なし とも言う
ある も ない も概念に過ぎず
概念なくしては人間は考えることもこの本を読むこともできないけど
その向こう側にあらゆる 概念 のない 生も 死もない 善も悪もない
義務も 権利もない 世界 が存在すると
感じさせてくれるそんな本でした。
まっ暗い部屋を 一瞬 照らす 雷光 が公案なのかな?
光そのものが必要なのではなく 光があってはじめて見える
部屋の全貌こそが 悟り の境地なのかなと
概念と比喩で自分なりに理解してみました。
犬に仏性はあるかなしか との公案に対し、趙州は
ある とも言い なし とも言う
ある も ない も概念に過ぎず
概念なくしては人間は考えることもこの本を読むこともできないけど
その向こう側にあらゆる 概念 のない 生も 死もない 善も悪もない
義務も 権利もない 世界 が存在すると
感じさせてくれるそんな本でした。
まっ暗い部屋を 一瞬 照らす 雷光 が公案なのかな?
光そのものが必要なのではなく 光があってはじめて見える
部屋の全貌こそが 悟り の境地なのかなと
概念と比喩で自分なりに理解してみました。
2008年12月29日に日本でレビュー済み
本書を読み始めた途端、ベトナム禅と日本禅は異なるように感じられた。本書の冒頭で『律小』が紹介されるが、これは正念(サティ sati=mindfulness)を訓練する例題集のようである。ブッダの四念処瞑想を<1)カーヤ(身体と呼吸体)の瞑想で正念を確立し、2)ウェダナー(感情=心形成力)の瞑想で正定を確立し、3)チッタ(心)の瞑想で観行(禅定=ヴィパッサナー瞑想)を確立し、4)ダンマの瞑想で悟り(智慧)を確立する>と考えれば、『律小』から始まるベトナム禅はブッダの修行法に忠実であることが分かる。
因みに、ベトナム禅は南インド出身の毘尼多流支(ヴィニタルチ)が574年に中国に渡り、中国禅第3祖の「ソウサン」に師事して嗣法し、580年に交州(ベトナム北部)の法雲寺で布教したことに始まる。毘尼多流支は中国禅とインド仏教の両方を伝えたと思われる。一方の日本禅は、平安末期(12世紀)の栄西や鎌倉時代(13世紀)の道元がもたらした中国禅のアレンジに始まるものである。この違いによるためか、ブッダの正念を重視する著者の公案の説明は、日本禅に比べてとても分かり易い。
最後に、『小説ブッダ : いにしえの道、白い雲』に描写されたブッダの丁寧な説法を傾聴すれば、本書で説明される「禅への鍵」に合点がいくはずである。
因みに、ベトナム禅は南インド出身の毘尼多流支(ヴィニタルチ)が574年に中国に渡り、中国禅第3祖の「ソウサン」に師事して嗣法し、580年に交州(ベトナム北部)の法雲寺で布教したことに始まる。毘尼多流支は中国禅とインド仏教の両方を伝えたと思われる。一方の日本禅は、平安末期(12世紀)の栄西や鎌倉時代(13世紀)の道元がもたらした中国禅のアレンジに始まるものである。この違いによるためか、ブッダの正念を重視する著者の公案の説明は、日本禅に比べてとても分かり易い。
最後に、『小説ブッダ : いにしえの道、白い雲』に描写されたブッダの丁寧な説法を傾聴すれば、本書で説明される「禅への鍵」に合点がいくはずである。
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Maine landscaper
5つ星のうち5.0
Wonderful book
2023年6月7日にアメリカ合衆国でレビュー済みAmazonで購入
I gave away my first copy — missed it!
Tanya R.
5つ星のうち5.0
Product in great condition, came on time
2022年10月27日にアメリカ合衆国でレビュー済みAmazonで購入
Product was in better condition than expected and arrived on time.