実に面白く読んだ。
しかし、他のレヴューにあるように些か難解であるかもしれない(私は本書を買ってから二年半経ってようやく読み通すことができた)。
この本を分かりやすく読むことができるようなレヴューを書くことはできないが、この本がどのような本なのかを書いておく。
・この本はどのようなことを書いているのか
世の中にメタフィクション、すなわち「書くこと」について自意識的な書き物は山ほどある。しかし、作者がどれほど「書くこと」に対してメタ的な立場に立とうと、結局すべては作者の意図によるものなのであって、「作者がこれを書いている」という点においては何の違いも無い。
筆者(や内容紹介)によれば、ゼロ年代後半から、メタフィクションとはまた異なる種のフィクションが登場し始める。それがパラフィクションであるのだが、本書では次のように説明されている。
「上位の/高次の/超えた」などといった語義の「メタ」ではなく、それに近い意味を有しながらも、「近傍の/両側の/以外の/準じる/寄生する」というようなニュアンスを含む「パラ」を冠することで、何が起ころうと究極的には作者の権能へと回収されるフィクションとは決定的に異なった、読者の意識的無意識的な、だが明らかに能動的な関与によってはじめて存在し始め、そして読むこと/読まれることのプロセスの中で、読者とともに駆動し、変異してゆくようなタイプのフィクションのことを、パラフィクションと呼んでみたいと思うのだ。(222)
つまり、パラフィクションとは、「書くこと」について自意識的なメタフィクションとは異なり、自身が「読まれ(てい)ること」についての思考=試行なのである。そして、先の引用にあるように、それは読者の能動的な読みの行為によって変異していく。加えて、見逃してはならないが、フィクションはそもそもの始めから書かれるものと同時に読まれるものであった以上、「パラフィクションはメタフィクションの歴史と同じだけの、つまりはフィクションの歴史と同じだけの歴史を持っている」のである(224)。したがって本書は読者に軸を置こうと試みるフィクション論ともなる。
(作品に書かれていることに対して絶対的な権威を持っている)作者は死んで、読者が誕生したというロラン・バルトの「作者の死」があるが、本書はそれでも絶対に存在している作者の権威に拘り、それをどうにかしてすり抜けるような作品、すなわち読者の読みの行為に徹底的にこだわっているような作品を取り上げて分析している。
この点が新しくて、しかし現代的であるだけでなく、先に見たように読みという行為に注目している以上それはフィクションの歴史の始まりから常に続いていることなのだ、その主張が面白い。
文学理論のいわゆる「受容理論」との関係は気になるところである。
しかし、パラフィクションが基本的には現代のものである以上、受容理論とは扱うテクストが異ならざるを得ない。この辺り、本書のパラフィクション論の射程がどうなっているのか正直わかりにくい。著者によれば、「パラはどこにでも生起するし、どこにでも存在する」(285)。この点はもう少し議論が欲しいようにも思う。
その点、著者の「新しい小説のために」が本書と問題意識を共有しているらしいので、併せて読むことで本書の理解も深まるのかもしれない。
(気になって検索してみたら、こちらもたいへん面白そうである)
・目次
目次があると無いとでは全く違うと私は思っているので、書いておく。
プロローグ
第1部 メタフィクションを超えて?
1 「メタフィクション」とは何か?
2 『虚人たち』再読
3 辻原登の「虚人」たち
4 マリー=ロール・ライアンの(メタ)フィクション論
5 ジョン・バースから竹本健治へ
6 「ゲーム的リアリズム」再考
7 「メタフィクション」の何が問題なのか?
第2部 パラフィクションに向かって
8 「あなたは読者である」
9 パラフィクションとは何か?
10 書く者と書かれる者/読む者と読まれる者
11 パラフィクションとしての『屍者の帝国』
12 日本・現代・SF
・最後に
他のレヴューにもあったように、この本は面白そうな作品をたくさん教えてくれる。私は本書が取り上げるような作品をほとんど読まないのだが、円城塔やジョン・バースは読み進めて行こうと強く思ったし、メタフィクションも読んでいこう、絶対に面白いから、と思わされた。
本書の引用は丁寧で、その作品の面白さが伝わってくるような論じ方をしてくれている。
また、「人称」の問題についての分析も相当面白かった。
この本がどれほど売れているのかはわからないが、気になって本書をamazon検索したあなた、ぜひ手に取ってみて欲しい。
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あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生 単行本 – 2014/9/13
佐々木 敦
(著)
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購入オプションとあわせ買い
円城塔、伊藤計劃、筒井康隆、辻原登、舞城王太郎、ジョン・バース、コルタサル、ジーン・ウルフ――
メタフィクションの臨界点を突破する、2010年代のための衝撃のフィクション論。
「フィクション」の「虚構性」を意識的に描き出そうとする「メタフィクション」は、ゼロ年代に入り、ゲームとアニメ、インターネットの進化と連動しながら、あらゆるジャンルで著しい勃興を遂げた。しかし、世に氾濫する過剰な「メタ」は、或る重大な問題をはらんでいたのである。すなわち、フィクションが複雑化・階層化されるにつれ、物語の外部で操作する「作者」の絶対性は強化される、というパラドックスである。
ところがゼロ年代後半から、「メタ」の限界を乗り越えるべく構想された作品群が登場しはじめる。それらのテクストには、「読者」に「読む」という能動的行為を要求するプログラムが内包されていた。
本書では、そのプログラムを「近傍の/両側の/以外の/準じる/寄生する」という意味をもつ「パラ」を冠するフィクションとして名づけ、提言する。「読者」つまり「あなた」が読むたびに新たに生成されるフィクション、それが「パラフィクション」である。
メタフィクションの臨界点を突破する、2010年代のための衝撃のフィクション論。
「フィクション」の「虚構性」を意識的に描き出そうとする「メタフィクション」は、ゼロ年代に入り、ゲームとアニメ、インターネットの進化と連動しながら、あらゆるジャンルで著しい勃興を遂げた。しかし、世に氾濫する過剰な「メタ」は、或る重大な問題をはらんでいたのである。すなわち、フィクションが複雑化・階層化されるにつれ、物語の外部で操作する「作者」の絶対性は強化される、というパラドックスである。
ところがゼロ年代後半から、「メタ」の限界を乗り越えるべく構想された作品群が登場しはじめる。それらのテクストには、「読者」に「読む」という能動的行為を要求するプログラムが内包されていた。
本書では、そのプログラムを「近傍の/両側の/以外の/準じる/寄生する」という意味をもつ「パラ」を冠するフィクションとして名づけ、提言する。「読者」つまり「あなた」が読むたびに新たに生成されるフィクション、それが「パラフィクション」である。
- 本の長さ296ページ
- 言語日本語
- 出版社慶應義塾大学出版会
- 発売日2014/9/13
- ISBN-104766421620
- ISBN-13978-4766421620
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商品の説明
著者について
佐々木 敦(SASAKI Atsushi)
1964年名古屋市生まれ。批評家、早稲田大学文学学術院教授、音楽レーベルHEADZ主宰。20年以上にわたり、音楽、文学、映画、演劇などの批評活動を行なう。著書に『即興の解体/懐胎』(青土社、2011年)、『未知との遭遇』(筑摩書房、2011年)、『批評時空間』(新潮社、2012年)、『シチュエーションズ』(文藝春秋、2013年)、『「4分33秒」論』(Pヴァイン、2014年)、『ex-music〈L〉ポスト・ロックの系譜』、『ex-music〈R〉テクノロジーと音楽』(共にアルテス、2014年)など多数。
1964年名古屋市生まれ。批評家、早稲田大学文学学術院教授、音楽レーベルHEADZ主宰。20年以上にわたり、音楽、文学、映画、演劇などの批評活動を行なう。著書に『即興の解体/懐胎』(青土社、2011年)、『未知との遭遇』(筑摩書房、2011年)、『批評時空間』(新潮社、2012年)、『シチュエーションズ』(文藝春秋、2013年)、『「4分33秒」論』(Pヴァイン、2014年)、『ex-music〈L〉ポスト・ロックの系譜』、『ex-music〈R〉テクノロジーと音楽』(共にアルテス、2014年)など多数。
登録情報
- 出版社 : 慶應義塾大学出版会 (2014/9/13)
- 発売日 : 2014/9/13
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 296ページ
- ISBN-10 : 4766421620
- ISBN-13 : 978-4766421620
- Amazon 売れ筋ランキング: - 369,770位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 102,031位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2019年3月27日に日本でレビュー済み
メタフィクションに関する他の何人かの評論の引用は非常に面白く、ためになりました(特に由良君美の『メタフィクションと脱構築』)。また、メタフィクションの基本例としての筒井康隆の『虚人たち』の分析は納得できる部分が多かったです。
なお、「「読者」つまり「あなた」が読むたびに新たに生成されるフィクション、それが「パラフィクション」である。」ということですが、「パラフィクション」は、結局円城塔作品のみに当てはまるような感じで、今後流行して?続々と登場するかは著者本人も自信はなさそうです(そうなることを願っているようですが)。また、タイトルの「あなたは今、この文章を読んでいる。」が端的に示すように、「パラフィクション」は他者への言及を行うメタフィクションということらしいですが、個々の読者は、それぞれ自分の知識や認識、想像力で読み、面白いと思ったり、そうでなかったりするわけで、人それぞれだろうし、どう「生成される」のかは他人には皆目分からないと思います。
また、著者は、基本は純文学系の批評家のようですが、もともとSF好きの少年だったようで、SF(とミステリー)贔屓の面が強いと思います(この論考も元々「SFマガジン」に連載されたそうです。また、ミステリーでは、トリックが不可欠の要素で、たまに著者が読者を騙すために用いる場合もあり(「信頼できない語り手」)、元々メタ的な作品もあると思います(ちなみに、筒井も『ロートレック荘事件』というメタ・ミステリーも書いています。))。あと、私は、著者より年上なんですが、IT関連の仕事をしているので、「起動」とか「インストール」、「実装」などの言葉を比喩として使いたくなる気持ちはよく分かるんですが、著者はこれらの言葉で小説も説明できると思っているようですが、SF小説ならともかく、少なくとも、純文学を論じるにはあまり適さないと思います。(東浩紀の悪影響なんでしょうが。また、著者は「README」を完璧な自己言及性で面白いと思っているようですが、この、IT関係ではインストール・パッケージに含まれるファイルの名前として使用される名前は、いかにもアメリカ人のプログラマーが考えそうなジョーク的命名で、MEは実質的には「このファイルの内容」ということで「このファイルの内容を読んでください」という意味に過ぎないと思います。)
さらに「フィクションが複雑化・階層化されるにつれ、物語の外部で操作する「作者」の絶対性は強化される」ということで、確かにそうかもしれませんが、著者も述べているように「メタフィクションとは、...「作者」による構想と操作による産物」であることは、読者も百も承知なわけで、「強化され」たからといって私は少しも気にはならず(筒井康隆には、「読者罵倒」という作品があり(『原始人』という本に収録)、「手前」、「貴様」など「読者」という「二人称」に対して、「作者1」(または作者0?)が直接罵倒する(読むだけで、好き勝手な批判もし、自分で小説を書くわけでもないと罵倒する。筒井康隆に批判的な評論家に対する反撃だったのかもしれませんが)んですが、小説と呼んでよいのか微妙ではありますが、究極的に強化された実に面白い!作品もあります。)、むしろ、作者の巧妙な「仕掛け」や「楽屋落ち」的な面白さを私は楽しみます(もちろん、面白さを感じられなかったり、同じことの繰り返しでイヤになれば、読むのを途中で止めてしまいます。私の場合、筒井の『虚構船団』はそうでした。ただ、本書で引用されている渡部直巳のように筒井康隆に対して逆上することはありませんでしたが(「もう読まない!」とか)、『虚人たち』に感銘を受けていたので、「そういう虚構に向かうのか」とちょっと残念だったことを覚えています。)。そういった意味で、メタフィクションの著者には、さまざまな作家的力量が求められると思います(もちろん、人によってその力量の判断は異なりますが)。つまり、読者それぞれにとっての優れたメタフィクションと「凡百」のメタフィクションがあるだけだと思われ、相対的にどのメタフィクションが一番凄いかは、決定できないと思います。
ということで、私の場合は、本書に出てくる『キマイラ』の作者バース、『冬の夜ひとりの旅人が』の作者カルヴィーノ、筒井康隆、辻原登の方が、竹本健治、円城塔、伊藤計劃、舞城王太郎よりも面白いメタフィクショニストです(なお、竹本健治は全く読んだことがありません。また、後者の作家群の中では、円城塔に一番才能を感じ(といってもそれ程読んでませんが)、厖大な知識の中からあるものとあるものを結び付ける才には非常に長けているとは思いますが、いかにも理系的秀才という感じで、落ちもかなりひねってあるものが多く、話についてこれない読者はついてこなくていい、というような書き方が嫌みに感じられる読者もいるかと思います。)。
あと、個人的には、(誰も指摘してないと思いますが)小島信夫の『寓話』と『菅野満子の手紙』は、もの凄く面白い、目くるめくように開かれた私小説的メタフィクションだと思っています。
なお、「「読者」つまり「あなた」が読むたびに新たに生成されるフィクション、それが「パラフィクション」である。」ということですが、「パラフィクション」は、結局円城塔作品のみに当てはまるような感じで、今後流行して?続々と登場するかは著者本人も自信はなさそうです(そうなることを願っているようですが)。また、タイトルの「あなたは今、この文章を読んでいる。」が端的に示すように、「パラフィクション」は他者への言及を行うメタフィクションということらしいですが、個々の読者は、それぞれ自分の知識や認識、想像力で読み、面白いと思ったり、そうでなかったりするわけで、人それぞれだろうし、どう「生成される」のかは他人には皆目分からないと思います。
また、著者は、基本は純文学系の批評家のようですが、もともとSF好きの少年だったようで、SF(とミステリー)贔屓の面が強いと思います(この論考も元々「SFマガジン」に連載されたそうです。また、ミステリーでは、トリックが不可欠の要素で、たまに著者が読者を騙すために用いる場合もあり(「信頼できない語り手」)、元々メタ的な作品もあると思います(ちなみに、筒井も『ロートレック荘事件』というメタ・ミステリーも書いています。))。あと、私は、著者より年上なんですが、IT関連の仕事をしているので、「起動」とか「インストール」、「実装」などの言葉を比喩として使いたくなる気持ちはよく分かるんですが、著者はこれらの言葉で小説も説明できると思っているようですが、SF小説ならともかく、少なくとも、純文学を論じるにはあまり適さないと思います。(東浩紀の悪影響なんでしょうが。また、著者は「README」を完璧な自己言及性で面白いと思っているようですが、この、IT関係ではインストール・パッケージに含まれるファイルの名前として使用される名前は、いかにもアメリカ人のプログラマーが考えそうなジョーク的命名で、MEは実質的には「このファイルの内容」ということで「このファイルの内容を読んでください」という意味に過ぎないと思います。)
さらに「フィクションが複雑化・階層化されるにつれ、物語の外部で操作する「作者」の絶対性は強化される」ということで、確かにそうかもしれませんが、著者も述べているように「メタフィクションとは、...「作者」による構想と操作による産物」であることは、読者も百も承知なわけで、「強化され」たからといって私は少しも気にはならず(筒井康隆には、「読者罵倒」という作品があり(『原始人』という本に収録)、「手前」、「貴様」など「読者」という「二人称」に対して、「作者1」(または作者0?)が直接罵倒する(読むだけで、好き勝手な批判もし、自分で小説を書くわけでもないと罵倒する。筒井康隆に批判的な評論家に対する反撃だったのかもしれませんが)んですが、小説と呼んでよいのか微妙ではありますが、究極的に強化された実に面白い!作品もあります。)、むしろ、作者の巧妙な「仕掛け」や「楽屋落ち」的な面白さを私は楽しみます(もちろん、面白さを感じられなかったり、同じことの繰り返しでイヤになれば、読むのを途中で止めてしまいます。私の場合、筒井の『虚構船団』はそうでした。ただ、本書で引用されている渡部直巳のように筒井康隆に対して逆上することはありませんでしたが(「もう読まない!」とか)、『虚人たち』に感銘を受けていたので、「そういう虚構に向かうのか」とちょっと残念だったことを覚えています。)。そういった意味で、メタフィクションの著者には、さまざまな作家的力量が求められると思います(もちろん、人によってその力量の判断は異なりますが)。つまり、読者それぞれにとっての優れたメタフィクションと「凡百」のメタフィクションがあるだけだと思われ、相対的にどのメタフィクションが一番凄いかは、決定できないと思います。
ということで、私の場合は、本書に出てくる『キマイラ』の作者バース、『冬の夜ひとりの旅人が』の作者カルヴィーノ、筒井康隆、辻原登の方が、竹本健治、円城塔、伊藤計劃、舞城王太郎よりも面白いメタフィクショニストです(なお、竹本健治は全く読んだことがありません。また、後者の作家群の中では、円城塔に一番才能を感じ(といってもそれ程読んでませんが)、厖大な知識の中からあるものとあるものを結び付ける才には非常に長けているとは思いますが、いかにも理系的秀才という感じで、落ちもかなりひねってあるものが多く、話についてこれない読者はついてこなくていい、というような書き方が嫌みに感じられる読者もいるかと思います。)。
あと、個人的には、(誰も指摘してないと思いますが)小島信夫の『寓話』と『菅野満子の手紙』は、もの凄く面白い、目くるめくように開かれた私小説的メタフィクションだと思っています。
2016年7月3日に日本でレビュー済み
メタフィクションの論文でかなり難解ですが、筒井康隆、円城塔、舞城王太郎あたりが好きなら、それらの作品に多く言及されているのでブックガイドとして使えます。変わった本が好きなら是非!