「嘘も方便」という言葉にあるように、世の中には「善いウソ」もあるように思われる。相手を傷つけないためのウソ。人間関係を丸くおさめるためのウソ。余計な混乱を招かないためのウソ。等々……。いずれも真実より幸福を優先した結果のウソと言えるだろう。
しかしながらカントはそのような「善いウソ」を認めず、あらゆるウソを否定する。上述のように真実よりも幸福を優先することを、カントは「根本悪」と呼んだ。カントによれば幸福よりも真実を優先すべきである。例えば友人をかくまった自宅に追手がやってきたとき、「彼はここにはいない」と私は言ってはいけないのである。極論を言えば、たとえそのことによって世界が破滅するとしてもウソをつくべきではない。それがカントの道徳論なのだという。
本書を読んでカントの道徳論が極めてユニークなものであることは分かったし、中島がそれに共感を覚えているということも分かった。「法に守られたウソ」にとりわけ中島が嫌悪を感じることも分かった。しかしそもそも「ウソ」とは何だろうか。
大雑把に言えば「ウソ」とは「事実とは異なる言表」ということになるだろう。自分がしたことを「やっていない」と言い張ったり、知っていることを「知らない」と言い張ったりすることであろう。実際中島はそのような事例を無数に挙げている。しかし「ウソ」には別の種類の「ウソ」もあると思う。
冒頭で中島は本書で扱う「ウソ」の領域を慎重に画定しているが、それらは全て「過去に反するウソ」である。すなわち「事実」と「言葉」とのあいだのギャップである。しかしそれとは別に「未来に反するウソ」もあるのではないだろうか。すなわち「言葉」と「行為」とのあいだのギャップである。
自分がしたことを「やっていない」と言い張ることは確かにウソであろう。しかし「やる」と言っておきながらやらないこともやはりウソではないのか。前者はあくまでも例外的で、世界に蔓延しているのはむしろ後者のウソであり、そちらの方がよっぽど問題なのではないだろうか。
もっとも後者の場合「やるつもりだったのにできなかった」という弁解が成り立ちはする。だが「やるつもりだった」という内面的真実はどこまで信用できるのか。それがそもそもウソだったという可能性はどこまでも残るのではないか。いわゆる言行不一致、約束を守らないこと、それらもウソの一つの領域として俎上に載せるべきではないのか。
例えば「いついかなる場合でもウソをつくべきではない」と説いたカントは、いついかなる場合でもウソをつかなかったのだろうか。そんなことはないであろう。「ウソをついてはならない」と言いながら、カントはウソをついていた。ということは「ウソをついてはならない」という言葉は「ウソ」ではないのか。少なくとも誠実な言葉とは思えない。哲学者が言行不一致に陥るのは致し方ないとは思うが、それは「ウソ」ではないと居直るのもいかがなものか。そこに罪悪感を覚えないのであれば「過去に反するウソ」に罪悪感を覚えない輩と大差ないであろう。
さらに突き詰めれば「現在に反するウソ」すなわち「言葉」と「本心」のあいだのギャップも俎上に載せることができるかも知れない。心にもないお世辞、「分かりました」「ありがとうございます」「残念です」等々うわべだけの了承や謝意や遺憾の意。自分にウソをつくことだってあるだろう。サルトルの言う通り自己欺瞞が対自存在の不可避の姿だとすれば、そもそも言葉にウソが混じっていないことなどあるのだろうか。
「ウソ」は哲学の問題になりうるテーマだと思う。ウソは言語と共に発生する。言語がなければウソもない。だから動物はウソをつけない。逆に言語を使用する以上、ウソは避けられない。というより言語を学ぶということは、ウソを学ぶということにほかならない。言語共同体としての人間の世界からウソをなくすことは不可能である。
『不在の哲学』で中島がいみじくも「存在は膨大な不在に支えられて成立している」と言っているのと同じように、真実は膨大なウソに支えられて成立しているのではないだろうか。この世からウソをなくせばおそらく真実もなくなるだろう。カントはウソを無条件に悪と定義するが、それならこの世からウソをなくせば善しか残らないだろうか。そうはなるまい。ウソのない世界は言語のない世界であり、言語のない世界にはそもそも善悪は存在しないであろう。
中島にはぜひ『ウソの哲学』を書いてもらいたい。新書ではなく、単行本で。それは『不在の哲学』に勝るとも劣らない名著になると確信している。
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ウソつきの構造 法と道徳のあいだ (角川新書) 新書 – 2019/10/10
中島 義道
(著)
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カント研究50年の哲学者が考える人間の本性
これほどのウソがまかり通っているのに、なぜわれわれは子どもに「ウソをついてはいけない」と教え続けるのか。この矛盾こそ、哲学者が引き受けるべき問題なのだ。哲学者の使命としてこの問題に取り組む。
これほどのウソがまかり通っているのに、なぜわれわれは子どもに「ウソをついてはいけない」と教え続けるのか。この矛盾こそ、哲学者が引き受けるべき問題なのだ。哲学者の使命としてこの問題に取り組む。
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社KADOKAWA
- 発売日2019/10/10
- 寸法11 x 1 x 17.3 cm
- ISBN-10404082279X
- ISBN-13978-4040822792
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商品の説明
著者について
●中島 義道:1946年生まれ。東京大学教養学部・法学部卒業。同大学院人文科学研究科哲学専攻修士課程修了。ウィーン大学基礎総合学部哲学科修了。哲学博士。専門は時間論、自我論。「哲学塾カント」を主宰。
登録情報
- 出版社 : KADOKAWA (2019/10/10)
- 発売日 : 2019/10/10
- 言語 : 日本語
- 新書 : 208ページ
- ISBN-10 : 404082279X
- ISBN-13 : 978-4040822792
- 寸法 : 11 x 1 x 17.3 cm
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2019年12月1日に日本でレビュー済み
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2019年10月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「はじめに」書かれていた「ほぼすべての人が共鳴してくれなかった」というのは真実かもしれません。誰でも哲学者になれるわけではないし、怒りは周りを見えなくします。直感で欺瞞と決めつけるのは「おかしい」のであり、子ども達に教えられません。「法と道徳のあいだ」も手段に過ぎないのではないでしょうか。
2022年11月27日に日本でレビュー済み
「自分としては」みたいな四面楚歌攻撃を逃れる言い方をするたびに悲しくなる。「とも考えれます」みたいな断定的な説明を避けるたびに惨めに感じる理由が良くわかりました。それはウソなんだ。事実と道徳的・会社的立場のずれを許容しつつどちらでもない位置を取るのはやっぱり良くないんだ。というのがよくわかりました。
しかし、「早起きした方が良い」が一般的な事実と「もう5分寝たい」という本心とはどう折り合いをつけるのだろうか?感情も一つの事実として「早起きした方が良い」みたいな事実と並列させると判断、どうするのだろうか?
この本で引用されている事件では、著者はマスコミの論調を事実として受け取っている。マスコミの論調は本当に正しいのだろうか。コロナ騒ぎの中で、マスクをした方が良い・する必要は無い・したくない みたいな微妙に次元が違う立場の論理で実際の行動はどうとるのか?多数がAと考えて、少数がBと考えるときでも、やはりBを貫くのか? この本の中で批判されている「法の下での事実」はその辺りのことを考えていると思うが、そっちの立場で考えること自体ダメなの?
しかし、「早起きした方が良い」が一般的な事実と「もう5分寝たい」という本心とはどう折り合いをつけるのだろうか?感情も一つの事実として「早起きした方が良い」みたいな事実と並列させると判断、どうするのだろうか?
この本で引用されている事件では、著者はマスコミの論調を事実として受け取っている。マスコミの論調は本当に正しいのだろうか。コロナ騒ぎの中で、マスクをした方が良い・する必要は無い・したくない みたいな微妙に次元が違う立場の論理で実際の行動はどうとるのか?多数がAと考えて、少数がBと考えるときでも、やはりBを貫くのか? この本の中で批判されている「法の下での事実」はその辺りのことを考えていると思うが、そっちの立場で考えること自体ダメなの?
2019年10月22日に日本でレビュー済み
今回の本は、「ウソ」について哲学的に(具体的には、カント倫理学に沿って)見ていき、その「ウソ」を最近の話題(森友問題、加計学園問題、日大タックル問題など)に沿って説明していくものでした。
まず、肯定的な感想を述べます。
ウソをつくようになるメカニズムの考察がP.62以降から詳しく書かれていて、そのメカニズムを森友問題や加計学園問題に沿って解説していますが、ここの考察は素晴らしいものだと思います。また、法のもとで証明できないようなウソ(内面的ウソ)はウソと見なされず、真実としてまかり通ってしまう状況についても書かれていて、自分もこのことについて同意しました。著者が言うには、「絶対的真実は『わからない』というあり方で保留しておくことこそ、正しい態度(中略)それ(「法に守られた真実」)は、ある限られた視点においてのみ正当であることを知るべきなのである。」(P.87)、「法がすべてではない。法による裁きを唯一の裁きと考えてはならない。(中略)われわれは法とは別の仕方で世界を見なければならない。私が本書で訴えたいことは、まさにこのことである。」(P.114)とあり、個人的にかなり共感できる文章です。
一方で、否定的な意見があります。それは、著者の意見である「いかなる場合でも真実を言うべきである」ということに対してです。
詳しくは、本書を読んでいただければと思いますが、要するに、ウソをつくことは、自己欺瞞を伴った行動であり、道徳的には駄目な行為である、だから「いかなる場合でも」真実を述べるべきで、また、真実を述べることは絶対善だ、と書いてありました。確かに「ウソをつくことは、自己欺瞞を伴った行動」なのは同意しますが、「いかなる場合でも」真実を述べることは実際にできることなのでしょうか?カントは「きみはできる、なぜならすべきだから」(P.169)と述べていたそうですが、本当にそうなのでしょうか?
例えば、いわゆる弱者側への言及がありまして、そこでは、「組織の中で弱い立場にいる者は(中略)自分個人の信念を前面に出して、組織あるいは社会と闘うという姿勢を学んでこなかったがゆえに、ごく自然に身を引いてしまうのであろう。このすべてを認めたうえで、私は、組織においていかなる弱い立場にいる人でも、組織の命令に背くことは『できる』と考える」(P.168-P.169)という部分ですが、組織に命令に背くことは難しいと自分は思います。なぜなら、過去に行われたミルグラムの実験で、密閉された空間において、どんな信念の持ち主であったとしても、上の意向に従ってしまう、という実験結果が出てしまっているからです(wikipediaで概要が分かりますが、詳しく知りたい方は、小坂井敏晶の『責任という虚構』を読むことをおすすめ致します)。また、弱い立場にいる者のための具体的な行動策(森友問題で自殺した者に対してですが)があったりするのですが、真実のために内部告発をするべきだ、という内容でした。これも、ミートホープ事件とかの過去の事件においてどうなったのか、ご存じないのかな、と思ってしまいました。ミートホープ事件では、ミートホープがやっていた肉の偽装に耐えかねた関係者が内部告発をしたのですが、その関係者はマスコミの連日の対応や世間の批判にさらされてしまい、妻にも離れられてしまったのです(しかも、この関係者は「もし当時に戻れたら告発などしない」と言ってしまったのです)。また、過労死の問題においてでも、告発をしても、過労死認定をされずに批判にさらされてしまう(認定されることもありますが、これは団体の手を借りることによって、なおかつ数年かけて、やっとできることです)ことも知らないのでしょうか?(詳しくは熊沢誠の『過労死・過労自殺の現代史』をお読みください)あと、最近ですと、吉本興業の闇営業問題でも内部告発がありましたが、あれから、社長と会長はそれ相応の処分を受けて、宮迫と田村亮は今もテレビで活躍できているのでしょうか?こういう事態でも、真実を言うことは絶対善と言えるのでしょうか?
なので、ここからは私の稚拙な考えなのですが、「真実を言えない場面がある」「言えたとしても、真実を言うことが絶対善とは限らない(ウソをつくことは必ずしも悪いとは限らない)」と思っていて、また真実を告発する場合、「個人ではなく、他人と協力しながら、慎重に告発するべき」ということが今のところ考えられる最善の策だと思います。真実を追い求めること、告発することも確かに大事ですが、真実というのは得てして不快で、すぐには受け入れられないものでもあるので、一時的にウソをつくことも大事だと思います。一方で、法のもとでしか判断できない真実・ウソというものも存在していて(本書でも詳しく記述されています)、これについては考える必要性があると思います。これは、「哲学者は(中略)誰も真に見ようとしない問題に光を当てて、この世にはどうしても解決のできない問題、安直に解決してはいけない問題」(P.195)だと思います。その割には、「どんな場合でも真実を言うべきだ」という安直な解決方法を提示してしまったのはモヤモヤしてしまいますが…。
まとめますと、ウソつきのメカニズムの考察は素晴らしいと思いますが、真実を言うことは絶対善とは思えないので、否よりの星2つとしました。
まず、肯定的な感想を述べます。
ウソをつくようになるメカニズムの考察がP.62以降から詳しく書かれていて、そのメカニズムを森友問題や加計学園問題に沿って解説していますが、ここの考察は素晴らしいものだと思います。また、法のもとで証明できないようなウソ(内面的ウソ)はウソと見なされず、真実としてまかり通ってしまう状況についても書かれていて、自分もこのことについて同意しました。著者が言うには、「絶対的真実は『わからない』というあり方で保留しておくことこそ、正しい態度(中略)それ(「法に守られた真実」)は、ある限られた視点においてのみ正当であることを知るべきなのである。」(P.87)、「法がすべてではない。法による裁きを唯一の裁きと考えてはならない。(中略)われわれは法とは別の仕方で世界を見なければならない。私が本書で訴えたいことは、まさにこのことである。」(P.114)とあり、個人的にかなり共感できる文章です。
一方で、否定的な意見があります。それは、著者の意見である「いかなる場合でも真実を言うべきである」ということに対してです。
詳しくは、本書を読んでいただければと思いますが、要するに、ウソをつくことは、自己欺瞞を伴った行動であり、道徳的には駄目な行為である、だから「いかなる場合でも」真実を述べるべきで、また、真実を述べることは絶対善だ、と書いてありました。確かに「ウソをつくことは、自己欺瞞を伴った行動」なのは同意しますが、「いかなる場合でも」真実を述べることは実際にできることなのでしょうか?カントは「きみはできる、なぜならすべきだから」(P.169)と述べていたそうですが、本当にそうなのでしょうか?
例えば、いわゆる弱者側への言及がありまして、そこでは、「組織の中で弱い立場にいる者は(中略)自分個人の信念を前面に出して、組織あるいは社会と闘うという姿勢を学んでこなかったがゆえに、ごく自然に身を引いてしまうのであろう。このすべてを認めたうえで、私は、組織においていかなる弱い立場にいる人でも、組織の命令に背くことは『できる』と考える」(P.168-P.169)という部分ですが、組織に命令に背くことは難しいと自分は思います。なぜなら、過去に行われたミルグラムの実験で、密閉された空間において、どんな信念の持ち主であったとしても、上の意向に従ってしまう、という実験結果が出てしまっているからです(wikipediaで概要が分かりますが、詳しく知りたい方は、小坂井敏晶の『責任という虚構』を読むことをおすすめ致します)。また、弱い立場にいる者のための具体的な行動策(森友問題で自殺した者に対してですが)があったりするのですが、真実のために内部告発をするべきだ、という内容でした。これも、ミートホープ事件とかの過去の事件においてどうなったのか、ご存じないのかな、と思ってしまいました。ミートホープ事件では、ミートホープがやっていた肉の偽装に耐えかねた関係者が内部告発をしたのですが、その関係者はマスコミの連日の対応や世間の批判にさらされてしまい、妻にも離れられてしまったのです(しかも、この関係者は「もし当時に戻れたら告発などしない」と言ってしまったのです)。また、過労死の問題においてでも、告発をしても、過労死認定をされずに批判にさらされてしまう(認定されることもありますが、これは団体の手を借りることによって、なおかつ数年かけて、やっとできることです)ことも知らないのでしょうか?(詳しくは熊沢誠の『過労死・過労自殺の現代史』をお読みください)あと、最近ですと、吉本興業の闇営業問題でも内部告発がありましたが、あれから、社長と会長はそれ相応の処分を受けて、宮迫と田村亮は今もテレビで活躍できているのでしょうか?こういう事態でも、真実を言うことは絶対善と言えるのでしょうか?
なので、ここからは私の稚拙な考えなのですが、「真実を言えない場面がある」「言えたとしても、真実を言うことが絶対善とは限らない(ウソをつくことは必ずしも悪いとは限らない)」と思っていて、また真実を告発する場合、「個人ではなく、他人と協力しながら、慎重に告発するべき」ということが今のところ考えられる最善の策だと思います。真実を追い求めること、告発することも確かに大事ですが、真実というのは得てして不快で、すぐには受け入れられないものでもあるので、一時的にウソをつくことも大事だと思います。一方で、法のもとでしか判断できない真実・ウソというものも存在していて(本書でも詳しく記述されています)、これについては考える必要性があると思います。これは、「哲学者は(中略)誰も真に見ようとしない問題に光を当てて、この世にはどうしても解決のできない問題、安直に解決してはいけない問題」(P.195)だと思います。その割には、「どんな場合でも真実を言うべきだ」という安直な解決方法を提示してしまったのはモヤモヤしてしまいますが…。
まとめますと、ウソつきのメカニズムの考察は素晴らしいと思いますが、真実を言うことは絶対善とは思えないので、否よりの星2つとしました。
2019年10月20日に日本でレビュー済み
哲学の領域に限っていえば、著者によって何度も繰り返し論じられているテーマが再び扱われているのであるが、今回の著書では人々の関心を集めた政治や社会の問題に即して論じられている。その点で、哲学にあまり馴染みのない一般向けの著書と言ってよいかもしれない。一般向けということでどれほど広く読まれるのかは私は知らないけれども、無責任な予想を立てると、著者のファンとともに、いやそれ以上にアンチも増えるのではないかと思われる。
続きは自分のブログに書いた。「ウソつきの構造」とでもググって見てみてください。
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